第三章 - こぐま座アルファ星

 合宿に向かうバスの中は中学三年間いつも憂鬱だった、と由岐は後ろに流れていく田んぼと畑の繰り返しを眺めながら思い返していた。もっとも、二十二人乗りのマイクロバスをひとりで二席占領できるこの部の人数は中学の頃の記憶にはそぐわない。後ろから二列目の窓際に座る由岐のちょうど反対側では拓斗が窓に寄りかかって眠り込んでいて、ひとつ前の列では潮と京がわざわざ隣同士に座って携帯のゲームに興じている。そのさらに前の席では、優都と雅哉も並んで座っていて、こちらはなにやら合宿についての話し合いを重ねているようだった。彼らの横の列では千尋も書類に目を通しており、優都がたまに通路に身を乗り出して千尋の意見を求める姿も目に入ってくる。普段はほとんど練習に姿を見せない顧問の数学教師は最前列を陣取っていて、いつも通り優都たちの話し合いに口をはさむこともしていなかった。
 車内をぼんやりと見渡し終えて、再び窓外に目を向けると、ちょうどバスがトンネルに差し掛かり目の前の景色に一瞬でブラインドがかかる。学校を出発してからおよそ一時間、道程はもう半ばほどだろうか。長いトンネルを抜けたあとも風景はあまり変わらなかった。視界の端で、千尋がクリアファイルを隣の椅子に投げ出して、後ろが空席なのをいいことにリクライニングを思い切り倒した。
「ゆっきーって中学んとき合宿あったんだろ?」
 前の席から身を乗り出してきた潮が、ふいに由岐にそう問うた。
「うん。夏と冬に一回ずつしてた」
「まじか。強いとこってそうなの?」
「どうだろ。うちは結構、合宿とか遠征とか多かったけど。うっしーたちって合宿したことないんだっけ」
「そうなんだよ。まあ、そもそもひと少なかったし、やったことある世代も残ってなかったし。今回のは優都先輩がめっちゃ先生説得してくれたらしい」
「ふうん。じゃあ、森田先輩と矢崎先輩もないんだ」
「おうよ。今回のがうまくいったら、次からは中等部にもやらせてやりてえなって感じっぽい」
 間延びした声でそう言いながら、潮はバスの前方の席で話し合いを続けている上級生たちに視線をやった。生徒の自主性を重んじると言えば聞こえはいいが、翠ヶ崎は基本的に放任主義の学校で、合宿であろうとも顧問は最低限の助言と外部との仲介以外はしてくれないし、弓道部は指導者もいないために練習の内容もすべて上級生に一任されている。それは外部の中学から翠ヶ崎に進学してきた由岐にとってはかなりの驚きだったものの、内部中学からの生え抜きである潮や京はさも当たり前のようにそれを受け止めていた。
「ゆっきー空手部だったんだっけ? 合宿どんな感じだったの」
 会話に加わってきた京の問いに、由岐はすこし眉をひそめて数秒眼を閉じた。思い出せることはいろいろあるものの、思い出したいことはさほど多くもなくて、結局いくら記憶を辿っても、最後に残るのは溜息だけだった。
「考えてみたけど、全然いい思い出なかったわ……練習吐くほどきつかったし、監督怖いしみんな疲れてピリピリしてたし……」
「ゆっきーまじ中学んときの部活に闇抱えてんな……」
 中学の空手道部は、都内の公立中学の中ではそれなりの強豪だった。小学校のときに習い始めた空手は、やりがいはあったし嫌いになったわけでもないけれど、部活そのものにはあまりいい思い出もない。高校に進学したあと、部活を替えることにほとんど躊躇しなかったのもきっとそれが原因だ。競技を好きでいることと、部活を好きでいることはたぶんまったく違うことで、いまでもテレビで試合を見たり、中学時代の友人の応援に行ったりということは自然にできるものの、空手を続けている友人たちを羨ましいとは自分でもおどろくくらいに思わなかった。
「だから、合宿とか楽しみって思ったことないし、今回も付いてけるかなって不安はなくもないけど、でも中学んときよりはちょっとわくわくしてるかも」
「いや俺はこの合宿中にゆっきーから例の女子高の彼女の話聞くまでお前のことは寝かせねえって決めてってから覚悟しとけよ。なあけーくん?」
「それはたしかに譲れねえな、ゆっきー早く寝たかったら喋るネタ考えとけよ」
「え、一瞬で帰りたくなった……」
 腕を組んで至極真面目な顔で言ってのけた潮に京が同調する。由岐はあからさまにいやそうな顔を作って見せ、背もたれに身を預けた。山道に差し掛かったバスが短い間隔でカーブを繰り返す。窓の外の景色はいつのまにか緑一色になっていて、車体が向きを変えたとき、太陽の光が直に窓から入ってきて眼が眩んだ。

「あー……すまん優都、酔ったわ……」
「ちょっと、大丈夫? まあ、山道長かったしな」
 目的地に到着してバスを降りると、千尋がひどい顔色でしゃがみこんで優都に様子を窺われているのが真っ先に目に入った。「大丈夫ですか?」と由岐が声をかけると、「吐くほどじゃない」と曖昧な答えが返ってくる。初等部の頃から千尋はあまり身体が強くないという話を京から聞いていた。事実、生徒会の仕事があるのも合わせても、弓道部の練習に穴をあけることが断トツで多いのも彼だ。
「いいよ、昼ご飯食べられるようになったら練習入って」
「悪い、ありがと」
 中等部時代からずっと一緒なだけあり優都は彼の扱いには慣れたもので、手早くいくつか指示を出すと千尋もすぐにそれを呑みこんだようで礼を言って頷いた。優都は練習や部の運営の点では雅哉に助言を求めることが大半で、千尋がそう言ったことに口を出す機会はさほど多くない。けれど優都は千尋のことをかなり手放しで尊敬しているし、見ている限りでは逆もしかりだ。タイプも性格も似ているようには思えないわりに、この二人の会話が部内では一番短い。
 宿のひとへの挨拶をすませたあと、優都から鍵を受け取って部屋に向かう。畳張りの和室は多少年季を感じはするものの、一年生四人で寝起きするには十分な広さだった。部屋は一年と二年で分けられていて、「なにかあったら遠慮なくおいで」と優都が言った二年の部屋は、由岐たちの部屋のちょうど真下に位置する一階の客室だ。
 大きな窓の向こうには、バスの中から見たのとさほど変わらない山の景色が広がっている。「虫が入るので網戸を開けないでください」という張り紙に由岐が視線をやったと同時、潮が蚊を叩こうと手を鳴らし、「仕留め損ねた」と文句を言った。

 合宿所は長野県の山中で、東京の中心に比べればたしかに多少は涼しい気もするが真夏の気温には変わりない。弓道は体を激しく動かす競技ではないが、的前では常に集中を要求されつつ、型に気を配って軽くはない弓を引き絞るのには見た目以上に体力も精神力も必要だ。朝六時開始の朝練に始まって、休憩をはさみつつも午前練、午後練と、風呂や夕食のあとのミーティングをこなし、夜十一時に布団に入るころにはだれもかれもが疲れ切っていた。練習が午後の半日だけだった初日こそは休憩時間や消灯前の自由時間にゲームをしたりくだらない話をしたりという余裕もあったけれど、二日目の夜には潮と京は「疲れた」が発話の大部分を占めるようになっていたし、由岐自身も体力的にはまだしも、いろいろな面で余裕があるとはとても言えなかった。
「こういうのって二日目くらいが一番きついよ。もうちょいしたら生活には慣れるもんだと思う」
「それ古賀先輩も同じこと言ってたわ……信じるぜゆっきー」
「っていうか、ゆっきーよく練習付いてくるよな、俺らでもきついのに。元の体力の差?」
「いや、全然付いてけてないよ。やっぱ手加減というか、配慮してもらってるなってのはあるし」
 四月に初めて弓を握った由岐は、的前に立てるようになってからまだ日が浅い。入部してからしばらくは優都や雅哉に基礎を叩きこまれる日々が数か月続き、同期と同じ練習ができるようになったのはつい最近のことだった。自分だけが初心者であることに負い目があるというわけでもないし、先輩も同期も由岐にそれを感じさせないように気を遣ってくれていることもわかっているが、単純に三年の差は大きいと、こういうときに強く感じる。
「いやでも、俺中一の夏で絶対こんな引けてなかったし、ゆっきーまじすげえと思う」
「うっしーに褒められるとなんかうれしいな、ありがと」
「ゆっきー俺に褒められてもうれしくねえの?」
「けーくんのことはあと一か月くらいで抜くから首洗って待っとけって」
「言ってねえよ! 早く追いつけるようには頑張るけど……」
 横になって談笑する由岐たちの横で、拓斗は部屋の一番奥を陣取ってすでに布団に潜り込んでいた。そもそもあまり口数の多いほうではない拓斗は、こちらから話を振らない限りは雑談に入ってくることも多くないが、この合宿中はそれがさらに顕著だ。練習中はいつも通り、恐ろしいまでの的中率で矢を的に叩き込んでいるものの、休憩中や自由時間はいつも隅のほうで目を閉じて眠たそうにしているばかりだ。ミーティングでも集中力に欠けた態度をときおり見せる拓斗に、優都や雅哉が厳しい声で注意を促す場面も何度かあった。

 夏合宿の三日目はどんよりと曇った天気で、午後からは雨が降ることも危惧されていた。雨雲が近いせいもあってかかなり蒸し暑く、立っているだけでも体力がじりじりと削られていく。ハードな練習と暑さの中、最初に参ったような様子を見せたのは、初心者の由岐でも体のあまり強くない千尋でもなく、経験も体力もあるはずの拓斗だった。
「風間今日中んねえな」
 午前の練習の休憩時間に潮が呟いた声を聞きとめて、的中を記録しているホワイトボードに目をやると、たしかに拓斗にしては的中率が低いように見えた。拓斗自身もそれには苛立っているようで、「機嫌悪いな」と京が返したのに潮は頷いた。もともと彼は気圧の変化が苦手らしく、天気が悪いときは比較的調子も悪いが、それを加味したうえでもいつも以上にうまくいっていないのが由岐からですら見て取れる。休憩時間もだれとも話をしようともせず、声をかけられても生返事だけを返す拓斗に、優都はわずかに眉をひそめていたけれどその場ではなにも言わなかった。
「風間、体調でも悪いのか?」
 見かねた雅哉が声をかけると、拓斗は「いえ」と煮え切らない返事をした。
「調子悪いだけなんで。……すみません」
「それは謝ることないけど。あんまり集中切れるんだったらすこし休むか?」
「――大丈夫です、ありがとうございます」
 軽く拓斗が頭を下げたところで、優都が集合の合図をかけた。一部始終を一緒に眺めていた潮がこっそりと肩を竦める。
 午前の練習いっぱい拓斗の調子は上がらず、雨が降り始めた午後の練習ではそれに輪をかけてひどいありさまだった。中学のときから調子にむらの出やすい選手ではあったという評は耳にしていたものの、由岐は拓斗がここまで中らないのを見たことがなかった。的中表に連なるバツ印の数には、拓斗自身が相当に苛立っているようだった。
「風間、さすがに雑になりすぎだ。そのまま引いてもなににもならないのはおまえなら自分でわかるだろ」
 それまでは助言の類は雅哉に任せて、概ね黙って様子を見ていた優都がついに拓斗に口を出したとき、拓斗は「すみません」とぶっきらぼうに返しつつほとんど優都と目を合わそうとしなかった。拓斗は弓道に限らず運動全般の基礎能力がもともと高く、結果を出すのに必要な技術だけを選んでそれを磨く能力に非常に優れているし、由岐がときおり話を聞く限りでも彼はその効率を重視する性格だ。それもあって、彼は地道な努力をひたすらに積んで自分の基盤を固めていくタイプの優都とは、性格においても弓道のスタンスにおいてもそもそもひどく相性が悪いのだろう。
「――一度道場を出て頭を冷やして来い。いまのおまえの態度はさすがに看過できないし、体調にしろコンディションにしろ、自分で管理できない状態なら的前には立たせない」
 いつになくきっぱりとそう言い切った優都の声を聞いて、道場全体が一瞬静まり返った。勢いを増した雨が庇を叩く音が響く。拓斗は無言で優都の横を通り過ぎると、道場の入り口で浅く頭を下げて、そのまま足早に立ち去り、午後の練習中戻って来なかった。
 片付けが粗方終わるころ、練習が終わったあたりからいつの間にか姿を消していた千尋がふらりと戻ってきて、「風間と話してきたわ」と優都のところに近付いて行った。彼は二年生のなかでは一番拓斗と仲がいい。千尋は優都や雅哉に比べて、相手にあまり深入りしようとしない印象を受けるが、拓斗にとっては千尋のドライなところが余計な面倒を感じさせず楽なのかもしれない。
「あいつかなり睡眠時間長くとんねえと動けないんだって。短くても八時間は寝かせろって感じらしい。だから、体調悪いってわけでもねえにせよきついんだろうな」
 そんで苛々してたのもあるんだろ、と肩を竦めた千尋に、優都は「なるほど」と呟いてすこし眉をひそめた。
「そっか、そういうのもあるのか。ちょっと言いすぎたかな」
「いやまあ、あいつの態度も態度だったし。とりあえず、今日はミーティングはいいから早く寝ろって言っといたけど、それでよかった?」
「うん、ありがとう。助かる」
 優都は横で話をしていた雅哉にも目配せをしたあと、下級生のほうを振り返って「そういうわけだから」と言った。
「おまえたちは体調とか大丈夫? なにかあったら無理するまえに言ってね」
 その問いに、三者三様に頷くと、優都は安心したように笑って、「あんまり部屋で騒いでやるなよ」と、主に潮のほうを見ながら釘をさした。
「めっちゃ俺の方見て言いません? 大丈夫っすよ、俺が優都先輩の言うこと聞かなかったことあります?」
「ないとは思わないけど」
「いやまあそれはそうかも。すんません。でも、さすがに風間起こしちゃ悪いんで大人しくします」
「うん、頼むな」
 夕飯遅れないように、という優都の言葉に道場を追い出されたあと、一度振り返ると、優都が雅哉になにかを言われて肩を竦め、小さく溜息をついたのが見えた。

 風呂を終えて夕飯に向かう際に、「先輩に謝っとけよ」と潮に諭された拓斗は、多少は気を静めもしたようで、夕食の席につく前に、存外素直に優都に頭を下げていた。その後拓斗を部屋に残してミーティングに向かい、それを終えて戻ったときには拓斗は電気も消さないまま眠り込んでいた。
「風間怒ったときの優都先輩、久々に怖かったな」
「それは思った。中学んときにうーやんがすげえ機嫌悪くて練習適当にやってたとき以来じゃね」
「俺の黒歴史掘り返すのやめて。まじで怖かったからあんときの先輩」
 拓斗が、多少横で喋ったくらいでは目を覚まさないのは前日の時点でわかっていたから、声は抑えつつも潮と京はいつもの通り談笑していた。優都は部活の最中、不真面目であったり礼を欠いたりした態度には厳しいが、感情に任せた理不尽な物言いをすることはない。常に冷静だからこそ彼の叱咤は怖い、というのは由岐にもわかる感覚だ。
「うっしーも京も、先輩たちと仲いいよな」と呟くと、二人の視線は由岐に向いた。
 中学時代からの付き合いの長さもあるだろうけれど、潮と京の二人は優都と千尋に特によく懐いていて、道場の外ではかなり屈託なく会話をしている姿が目に入る。由岐自身は、どちらかというと同じ高等部入学組の雅哉に声をかけてもらうことが多かったものの、潮や京が優都と千尋に対してしているような距離の取り方は、比較的喋るほうである雅哉に対してすらできる気がしない。
「俺、森田先輩も矢崎先輩もちょっと近寄りづらいなって思っちゃうんだけど」
 布団にシーツを敷きながら由岐が零した言葉に、潮は目を丸くして「なんで?」と問うた。
「あんま考えたこともなかった」
「いや、なんていうか、うちの先輩たちがすごいいいひとなのはわかるんだけど、そもそも先輩と仲良くするって感じがあんまりわかんないっていうのも、ある。先輩のこと下の名前で呼んでるのとか、最初ちょっとびっくりしたし」
先輩という存在に対する感覚が、由岐とこの二人とはそもそも違うのだと思う。由岐にとって先輩とは、もっと絶対的で、言われたことには迷う間もなくはいと答えるか謝罪を返すかしかない相手だった。雑談をしたり、笑いあったり、あまつさえ反論をする相手では絶対になかったし、友人のようにたわいない会話をすることなど考えられもしなかった
「ゆっきーの中学んときの部、上下関係厳しかったんだっけ」と京が問うてくる。
「うん。言われたことは絶対だったし、後輩から先輩に喋りかけるのとか基本ダメだったし、先輩の方はひとりでも後輩に甘くすると全体がダレるからってのも言われたし。怒られた以外の記憶ないや」
まじかよ、と潮が眉をひそめる。「相談とかだれにしてたの?」と続けて問われたけれど、それこそ、先輩という選択肢は当時の由岐にはなかった。
「じゃあ、ゆっきーも後輩怒鳴ったりとかしてたの?」
「してたよ。でも、監督に、おまえは後輩に甘いってよく怒られた」
「ゆっきー怒鳴るとこ想像できねえ……」
「たぶんあんまり怖くなかったと思うけど」
 苦手だし、と呟けば、潮と京が同意を示すように揃って頷いた。
「でも、ここではそういうのないってわかってても、そもそも、森田先輩は、努力家すぎて俺付いてけねえやってなるときあるし、矢崎先輩はなに考えてんのかあんまよくわかんないし」
 優都と千尋が中等部の一年だったときを最後に、翠ヶ崎の弓道部には、中学高校合わせて、優都たちより上の代の先輩はいないと聞いている。それまでの部を知る先輩もおらず、顧問には具体的な協力はさほど仰げないなか、伝統の途絶えた部を立て直してきた彼らの存在は、弓道すら高校から始めた由岐にとっては、どうしてもどこか遠い。
「あー、まあ、千尋先輩がなに考えてんのかは俺もあんまよくわかんねえけど、少なくとも怖いひとじゃないよ。……優都先輩は、たしかにめっちゃめちゃ努力家だけど、自分と同じだけやれとは言わねえぜ」
「わかってるんだけどさ。絶対優しいひとなのもわかってるし、尊敬できる主将だなとももちろん思うんだけど、ちょっと怖い」
 怒っているときのことを指しているわけでもなく、怖いという形容詞が優都に付されることに対して、潮はまったく理解ができていないようで首を傾げていた。けれど、毎日のように朝七時には部室を開けて朝練の準備をし、当たり前のような顔をして部と後輩を支え、それでいて自分がだれよりも弓道に真摯でだれよりも練習量を確保する優都の姿は、尊敬に値する反面、どこか恐ろしさを感じるのも事実だ。
「俺はゆっきーの言いたいこと半分くらいはわかるけど。つか、あの二人はまじで頭いいから、俺らにはわかんねえし教えてくれねえこともいろいろあるんだろうなってとこで、距離感じるのはちょっとわかる」と、潮の隣では京が軽く由岐に同意を示す。
「それもあるのかも。俺、部のなかでいちばん弓道のこと知らないしできないし、中学のときのこともわかんないし、森田先輩とかと距離あるなってのは思う。先輩と仲良くしたことないから、どうすればいいかもあんまわかんないし」
 京の言葉に頷いて、由岐は自分と同様に高等部から入部してきた拓斗の方を一瞬見遣った。拓斗は由岐たちには背を向けて布団に横になっている。シーツを皺なくかけた自分の布団の上に腰を下ろし、潮は悩むような声をあげたあと、「それはちょっとはしょうがないのかもだけど」と口を開いた。
「俺が言うことかわかんねえけど、優都先輩、相談とかそういうのめんどくさがったり適当に流したりとか絶対ないし、ゆっきーが真面目に関わってったらその分真剣に返してくれると思うよ」
「うん、それはそうなんだろうなとは思う。……ってか、まじで、うっしーって森田先輩関連の話になるとめっちゃ語れるよな」
「え、そりゃあだって、敬愛の度合いが違えしな」
「うーやんまじで気持ち悪いくらい優都先輩好きだからな」
 茶化すような京の言葉に潮は深く頷いて、「世界で一番尊敬してるから」と言い切った。
「優都先輩の生き方は、俺の理想そのまんまなの。……なんかの見返りのために努力するんじゃなくて、ちゃんとそれそのものに価値が見いだせてるから、うまくいかないときあっても腐らずにずっと努力し続けられるの、めちゃめちゃ強いひとだなって思うし、俺はずっとそこに憧れてんの」
 いつでもへらへらと適当に物事をいなしているように見えて、潮が意外と自分に厳しいのは、付き合いの浅い由岐ですら見ていればわかる。そういう人間ほど、胸の奥に抱えているものがその態度のようには軽くないことをあまりはっきりと表には出さない。いつもは茶化すように口にする優都への敬愛を珍しいまでに真剣な顔で語る潮の姿には、由岐の知らない時期のなにかが埋め込まれているように思えた。
「ほんと、見た目の千倍くらいストイックよな、うーやん」
「それ褒めてんの? 貶してんの?」
「両方」
 京が潮をからかったとき、視界の端で拓斗が寝返りを打ったのが見えた。仰向けになった拓斗は腕を顔に乗せたままひとつ息を吐いた。「ごめん、起こした?」と問う間もなく、彼はもう一度横向きに体を丸め、なにをするでもなくまた布団に潜り込んだ。

 前日よりはミーティングが早めに終わったこともあり、消灯まではまだ時間があるのを確認した潮は、「ミーティングのときに先輩たちに聞き損ねたことあるんだよな」と言って立ち上がった。
「ゆっきー、一緒に来る? 引き分けで悩んでたとこあったじゃん、聞いといたら?」
「え、いいかな。ごめん、俺ほんと先輩にもの聞きに行くのとか苦手で……」
「この際だし行っとこうぜ、先聞いといたほうが絶対明日からの練習とかにもいいし」
 潮がある程度は自分のためにタイミングを作ってくれようとしていることは明白で、気を遣わせたことに多少の罪悪感はあったものの、潮はけろっとした顔で由岐が立ち上がるのを待った。「けーくんは?」と問うた潮に、京が「用はないけど行く」と答え、結局三人揃って部屋を出た。
 二年の部屋の入口で襖の横をノックし、潮が名乗ると、優都の声で「入っておいで」と聞こえてくる。優都たちはテーブルの上に明日の練習メニューやミーティングの内容を並べてなにか話し合っていたようだったけれど、潮が「いま大丈夫でしたか?」と聞くと、「もちろん。どうかした?」と即答が返って来た。
 潮は優都と雅哉にさきほどのミーティングの内容についていくつか短い質問をして答えをもらったあと、「ゆっきーも優都先輩に聞いときたいことあるらしいんすけど」と由岐を促した。優都は「うん?」と体ごと由岐に向き直り、いつも通り背筋を伸ばして由岐に視線を合わせた。その、一分の隙もなくまっすぐな視線からどうしても一瞬逃げ出したくなる。このひとが、真摯でまっすぐでだれからも信頼されるようないい先輩が、自分のことを正面から見てくれているという事実がうまく受け止められなかった。怖いという感情のなかに、たしかにその感覚が含まれている。
「あ、えっと、優都せんぱ……」
 乾いた喉の奥から声を絞り出し、優都に話を切り出そうとしたとき、京や潮が彼をそう呼ぶのに引きずられたのか、いままで口にしたことのなかったその呼び名が思わず滑り出た。自分でそのことに驚いて口をつぐんだ由岐に対し、優都の方も一瞬目を丸くしたけれど、彼はすぐにいつものように微笑んで、「どうしたの?」と問うた。
「あの、前から、あんまりうまくいってないなって思うところがあって、よかったら相談乗っていただきたいんですけど、」
 不自然なまでに緊張しているのは自分でわかっていたし、考えていることは思ったよりも言葉にならなくて、相談の内容も、たしかに実力も実績もあるこのひとに対してなにか的外れなことを聞いているのではないかと思うとどうしても回りくどい言い方にしかならなかった。由岐がしどろもどろになりながらもなんとか絞り出した、聞きやすくも理解しやすくもなかったであろう言葉のあいだ、優都は相槌を除いては一度も由岐の言葉を遮らなかったし、聞き終わるまで真剣な表情を崩しもしなかった。途中途中、何度か言い淀んだ問いを最後まできちんと待ってから、優都はいくぶん時間をかけてそれをゆっくりと咀嚼し、「なるほどな……」と呟いた。
「そうだな、由岐がそれで悩むのはたしかにわかる気はするんだけど、僕も意識して見てたことはなかったからな……。由岐、明日十五分早く朝練来れる?」
「え、はい、大丈夫ですけど――すみません、わざわざいいんですか?」
「もちろん。きつかったら無理しなくてもいいけど、来てくれたら見るよ」
「すみません、ありがとうございます。先輩も、お忙しいのに」
「たかが十五分を遠慮されるほど忙しくないよ。それに、由岐が頼ってくれてちょっとうれしい」
 はにかむように笑って肩を竦めた優都の表情と言葉に由岐がぽかんとしていると、雅哉が横から、「こいつ、由岐が自分にはなんかよそよそしいって若干悩んでたんだぜ」と優都をからかった。「余計なこと言うなよ」と雅哉を小突いて、優都は照れたようにこころなしか由岐から視線を逸らした。
「森田は後輩に頼られんのわりと喜ぶタイプだし、怖がんなくて平気だよ」
「えっ、僕、怖がられてたの」
「あ、いや、違うんです、……中学のときの部が、上下関係すごく厳しくて、先輩と話すときなんて怒られるときくらいしかなかったんです、それで――」
 慌てて弁明する由岐に、優都はなるほどと笑って、テーブルの上の湯飲みからお茶を一口飲み、ちらりと潮のほうを見やった。
「こいつを見ろよ、大抵僕に対して敬意の欠片もないだろ」
「ちょっと優都先輩? 俺世界でだれよりも先輩のこと尊敬してる自信あるんすけどひどくねえすか、俺の愛は伝わってねえんすか、増量キャンペーンします? 望むところっすよ?」
「おまえが優都先輩に見捨てられてねえのまじで奇跡だと思う」
「けーくん俺には辛辣よな?」
 京と潮の恒例のやりとりに優都は表情を緩め、「そんなに元気ならおまえたちも朝練早く来る?」と茶化した。
「ありがとうございました、森田先輩。明日よろしくお願いします」
 部屋を出るとき、由岐がもう一度優都に頭を下げると、優都は「うん」と頷いてから思い出したように由岐の名前を呼び、「優都でいいよ。さっき呼びかけてただろ」と言っていつもの仕草で首を傾げて微笑んだ。

 四日目には、ほとんど丸一日を使っての百射会が企画されていた。名の通り一日で百本の矢を射る会は、やることは単純そうでいて、蒸し暑い夏の気候の中では最後まで集中を保ち続けるのは簡単なことではない。初めての経験であるとはいえ、そのことはまだ四分の一も引き終わらない頃から由岐にも察せ始めていた。毎年どこかのタイミングでは行なっていたという話は潮や京から聞いていたものの、中学時代から何度か経験しているはずの彼らですら今日は時間が経つにつれ口数が顕著に減っていっていた。
 後半からかなり射型が崩れてしまい、中る中らないどころかまともに弓を引くことすらぎりぎりの状態に陥りつつも、優都や雅哉に立ち代わりアドバイスをもらったり檄を飛ばされたりしながら、由岐を含む全員が百射を引ききったときには、だれもかれもが疲労困憊だった。潮ですら無駄口を叩く余裕もないようで、片付けのときも指示を飛ばす優都の声以外にはほとんど言葉を発するものもいない状態になっていた。
 百射会の結果自体は順当で、昨日の休息である程度持ち直したらしい拓斗が一位、次点に優都、その次に雅哉という普段とほぼ変わらない順番だった。絶好調ではないはずなのに九割に迫る勢いの圧倒的な的中率を誇った拓斗は、百射を引き終えたあとも比較的平然とした顔をしていた。その脇では、最後まで相変わらず綺麗な射型を保ち続けた優都が、すこし息を切らして苦笑し、隣にいた千尋に、「去年のほうが断然中ってたな」と呟いていた。
「由岐、大丈夫? お疲れさま」
 床に座り込んで水を飲んでいた由岐に優都が近付いてくる。お疲れさまです、と返しながら慌てて立ち上がろうとすると、優都は笑いながら「座ってていいよ」とそれを制し、自分が由岐の隣に腰を下ろした。
「最後まで引き切るの大変だっただろ。よく頑張ったな」
「ありがとうございます。でも、最後の方全然ダメで、先輩たちに迷惑かけちゃって……」
「そうかな。やっぱり由岐は体力あるし運動神経もいいんだなって思いながら見てたよ。最後までちゃんと射型意識して引けてたし」
「でも、先輩たちとか風間とか、ほんとに最後の最後までちゃんと綺麗に引いてそれで中ってて、すごいなって思いました」
「ありがとう。でも、僕もね、中学一年ではじめて百射会やったときは最後のほうほんとうにしんどくって、もともと運動するほうでもないから体力もなかったし、終わったあと頭痛くて動けなくなっちゃって、当時の主将に相当迷惑かけてさ。その頃の自分のことを思い出すと、やっぱり由岐は優秀だなと思う」
 由岐の隣でそう言った優都は、その直後雅哉に呼ばれて立ち上がり、無理しなくていいからちゃんと休めよ、と言い残して雅哉の方に歩いていった。だれもが隠しきれない疲労を浮かべている中で、部内ではいちばん小柄な優都がだれよりもそれを表に出さないまままっすぐ背筋を伸ばして歩き、はっきりと言葉を発して思考を回していた。
「優都先輩ってタフだな」
 由岐がそう呟くと、それを聞き留めた京が背を壁に預けながら、「昔からそうだよ」と言って、耐えきれないように大欠伸を噛み殺した。

 夜のミーティングで、当日の結果を見ながら反省点を言い合う時間も、その日はいつになく静かだった。いつもなら積極的に指摘に加わっていく雅哉や、質問をあげていく潮も疲れが色濃いようで、最低限の役割はこなしつつも口数はめっきり減っている。由岐自身はとにかく話についていくので精一杯だったし、拓斗と千尋はこういう場であまり多く口を開くタイプではない。京も発言をする努力はしているようだったけれど、ときおり船を漕ぎかけてはっと頭を振る仕草を見せていた。
「――明日は、朝食前は自主練にしようか。ミーティングもここまでにするから、その代わり、明日の朝食までに、今日の百射会の自分の反省点と明日以降意識するべきことを、なにか紙にまとめて僕のところまで持ってきて」
 見かねた優都がそう通達すると、真っ先に雅哉が「悪い」と溜息をついた。
「俺も全然集中できてなかったな……すまん森田」
「みんなそんな感じだよ。おまえが潰れると僕ものすごく困るから、古賀も早く寝て」
「そうするわ……俺は明日朝練行くから一緒に起こして」
 だれもかれもくたくたの状況のなかで、優都だけはいつも通り背筋を伸ばして座っていて、明日の予定を確認させたり、最低限の連絡事項を伝えたりという事務事項をてきぱきと片付けて解散を言い渡した。
「あー……さすがにきっつい、百射会はメンタルに来るわ……ゆっきー生きてる?」
 部屋に帰るなり布団に倒れこんだ潮に話を振られ、由岐は「なんとか……」と返すのが精一杯だった。拓斗はすでにいつも通り奥の布団に潜り込んでいたし、京も「反省だけ書く」と言いつつ筆記用具を探しにふらふらと自分の鞄を漁りに行っていた。
「今日、珍しく古賀先輩までへとへとだったな」と、欠伸をしながら京が言った。
「この合宿先輩たちでほぼ回してるみたいなものだし、先輩たちほんと大変だろうなって思う。俺今日かなり手かけちゃったし……」
「いや、ゆっきー百射会初めてなんだからしんどいのはしゃーねえし、俺らも手伝えればよかったんだけど自分が引くので精一杯だったわ……まじで先輩らには頭あがんねえよな」
 潮は、俺は朝練行く、と宣言して起き上がり、京にルーズリーフを所望した。それに追随しながら由岐も机に置きっぱなしだったシャープペンシルを手に取る。反省を書き並べ出した数分後、京が「無理だ一ミリも頭回んねえ、朝にする」とペンを投げ出して布団に向かった。京の横の布団では拓斗がすでに寝息を立てて完全に寝入っている。拓斗は、電気がついていようが周りがうるさかろうが眠たいときは眠れるし、一度寝てしまえばちょっとやそっとのことではそう簡単に目を覚まさない。朝練を諦めて朝食の直前まで寝れれば、反省を書く時間を差し引いても、いまからなら必要な分だけは十分眠れるはずだ。
「ゆっきー書けた?」と、由岐の手元を見ながら潮が問う。
 潮とお互いの反省を確認しあい、彼からいくらかアドバイスをもらって潮と由岐が布団に入ったときには、京ももう完全に眠りについていた。携帯のアラームをセットする潮は、由岐のほうを振り返って、「朝練行く?」と問うてきた。
「行くつもり」
「おっけー、俺が寝ぼけてたら全力出して起こして」
「わかった、かかと落としとかでいい?」
「あ、やべ、そういやゆっきーかくとうタイプだったわ……」
 潮が電気のスイッチを切る前には、もう由岐もほとんどうとうとしていて、そのあと、潮に「おやすみ」と言ったか言われたかも記憶がない。気づいたときにはもう潮の携帯のけたたましいアラームの音に叩き起こされていた。

「えっ、待ってまじで無理。暑すぎねえ?」
「めちゃくちゃいい天気だな……」
 五日目の朝、結局朝起きるのを諦めた京と拓斗を置いて由岐と潮は朝練に出かけたものの、朝六時、しかも山の上だというのに昨日までとは比較にならないほどの熱気が屋外には立ち込めていた。宿舎を出た途端に顔を歪ませた潮の反応はさほど大袈裟だとも思えない。道場まで移動するあいだですら、雲に遮られない日照りと、蒸すような夏の湿度が、まだほとんど動いてもいないというのに背中や首筋から汗を押し出していく。合宿が始まってからの四日間はさほど天候に恵まれなかったのがむしろ幸いしてか、ここまでの暑さを感じることもなかった。道中で優都と雅哉に合流したとき、優都も日光の眩しさに目を細めるような仕草をしていて、隣を歩く雅哉と目を合わせて苦笑しているところが目に入った。
 一時間ほどの朝練を終えて部屋に戻ると、京は準備を終えて昨日の反省の続きを書いているところだったけれど、拓斗はまだ布団に潜り込んで動こうともしていなかった。「まじで死ぬほど暑い」と京に報告をした潮が、着替えのTシャツに手をかけながら、拓斗を見やって、「あいつまじでよく寝るよな」と呟いた。
「そんな暑いの、今日」と京が眉をひそめて問う。
「なんかこう、快晴! 夏! って感じ」
「まじか……たしかにすごいいい天気っぽいけど」
 そう言って窓に歩み寄った京は、大判のカーテンを開け放ち、快晴の空の眩しさに何度か目を瞬かせた。途端に明るくなった室内すらもものともせず眠り続ける拓斗の背中を、無言で立ち上がった潮が足裏で蹴りつけて、拓斗はようやく身じろぎをして目を覚ました。
 午前の練習が始まったあとも暑さは増す一方で、矢取のために的場までの二十八メートルを一度早足で往復するだけで汗が滴り落ちてくる。暑さで気が緩みかけるところを優都や雅哉に叱咤されながらなんとか集中力を繋ぎ止めている中で、今日は天気がいいせいもあってか拓斗が絶好調だった。暑さなど意に介さないかのように表情ひとつ変えず、的の中心に次々と矢を送り込む姿がいっそ清々しく、練習の合間一息ついたときには、どうしても彼の行射に視線がいった。
 拓斗が引く弓は、それ自体が静謐であるというよりは、見るものの呼吸を奪うような力感が備わっている。足踏みから始まって会を持つに至るまで、彼の周りにはいつも他者を踏み入れさせない緊張感があった。それが、弦を弾くと同時に一息に放たれ霧散する潔さは、あらゆる解釈や思惟を必要とせず、ただ心地よい。拓斗の放つ矢は、文字通り空気を裂くようにして的まで重たい音を携えて届く。由岐が高校から弓道部に入部して、初めて彼の引く弓を見たとき、ひどくわかりやすい美しさだと思った。力と癒着した美しさは、ときとしてどんな精密さにも正しさにも手がつけられないほど圧倒的だ。拓斗はそれなりに背は高いがさほど体格のいい選手ではない。けれど、彼は部のだれよりも強い弓を引いていた。単純な力だけでは成り立たない、その強さと質量を従えた拓斗の弓は、恐ろしいまでの的中率を誇って、ほとんどぶれることなく的の中心を射貫いていた。
 的中表の「風間」と書かれた欄に見事なまでに二重丸が並ぶのを眺めながら、ふと、ホワイトボードの一番端に書かれた優都の名前の欄に今日はバツ印が多いのが目についた。隣の雅哉の欄と比べてもその差は目立っていて、的前にいるのが視界に入ったとき、優都の矢は的のわずかに上を掠って安土に突き刺さっていた。どこか晴れない表情をしながら射位を離れた優都は、後ろで彼の射を見ていたらしい雅哉と短い会話を交わしてから、すこしだけ困ったように眉をひそめたが、そのすぐ後にはまた主将の表情に戻って場内を見まわしている。
 その後も暑さの中続く射込練習のあいだ、優都は雅哉とともに下級生に声をかけたり、アドバイスをしたりしながら練習を仕切ってはいたものの、やはり本人自身があまり調子はよくないようで、中らないだけでなく、由岐が見てもわかるくらいに矢勢にいつもの張りがなかった。その隣では相変わらず、周囲を一切眼中に入れない態度で拓斗が的を射抜いていた。由岐がまだ的前に立てていなかった頃、いまと同じように引く弓引く弓を中て続けていた拓斗を見ていた由岐に潮が言った、「あれが普通だと思ったらだめだぜ」という言葉を思い出す。
「大会でも、四本を二回引いて皆中とかだって何人かしかいねえし、そんなの毎回できる人間めちゃめちゃ化け物レベルだからな」
 潮が言ったその言葉の意味は、いまならばあのときよりはよくわかる。射位を離れてホワイトボードに二重丸を二つ書いた拓斗は、これで十六射を連続で中てていた。
 由岐が矢取から帰ってきた直後、矢立に矢を戻していると、射場からばちん、と響く音が聞こえた。思わず振り向くと正面の射位に立つ優都に周りの視線が集まっていて、目を凝らせば彼の引いていた弓の弦が切れてしまって足元に落ちているのが見える。優都は特に焦った素振りもなく、作法に則った仕草ですぐにそれを回収して、隣で引いていた京に軽く頭を下げて射位を退いた。
「由岐、矢取お疲れ。弦があがっちゃってさ」
「大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫」
 由岐と目が合って小さく肩を竦めた優都は、弦を張り直しにすこしのあいだ練習を離れた。由岐も自分の弓を手に取って射場に戻ると、隣にやってきた雅哉がちらりと優都のほうを窺いながら、「調子悪いときに弦あがると気分落ちるんだよな」と呟いた。由岐が「そうなんですね」と返したところで、斜め前で弓を引く拓斗が、また文句の付けどころのないほどの的中を出した。雅哉に「いい射だな」と声をかけられ軽く頭を下げた拓斗は、弦を張り替える優都のほうを一瞬だけ見やってからすぐに視線を逸らして練習に戻っていった。

「暑いし、昼はちょっと長めに休憩とろうか。午後は何パターンかメンバーを替えて三人立をやるから、昨日の反省を見直しておけよ。古賀と僕でコメントつけておいたから、参考にして」
 午前の練習が終わったあと、部員を集めて午後の練習を三十分遅らせることを告げた優都は、自分自身は昼食の前後の時間も使って的前に立っていた。昼食後、由岐たちが午後の練習のためにいくらか早めに道場に向かったときには、すでに優都は的前で弓を引いていて、雅哉がそれを後ろから腕を組んで見ていた。優都はいつもの通り背筋を伸ばし、整った型で弓を引き絞り、しっかりと会を持って的を見据え、矢を離した。その一連の動作は淀みなく行われていたように見えたものの、彼の放った矢は的を掠りもせず、優都は射場を退いて雅哉の元に向かったあと、珍しく眉をひそめて溜息をついた。
「別に射型が悪いとも思わねえんだけどな。どうなの、自分の感覚的には」
「なんだろう。違和感はすごいんだけど、よくわからなくて――」
「やりすぎても変な感覚離れなくなるだけだろ。ちょっと本数減らせば?」
「練習してないと不安で余計中らなくなる気がするんだよな……理由もわかってないのに引いても仕方ないのは、そうなんだけど」
 そのあたりまで会話を続けたところで二人は後輩たちが到着しているのに気付いたようで、優都はぱっとこちらを向いて、「早いね、ちゃんと休んだ?」と首を傾げて微笑んだ。
「優都先輩こそ、引き通しじゃねえっすか」
「張り替えたし、数稼ぎたくって」
 潮の言葉に笑みを浮かべたままそう返した優都は、雅哉に「付き合ってくれてありがとう」と頭を下げ、午後の練習が始まるまでのあいだ、潮や由岐の相談に乗ったり射型を見たりとすぐに主将の表情に戻っていた。
 午後の練習は、いろいろな組み合わせで三人立のチームを作り、チーム内で立順などを決めて試合形式を行う、というものだった。午後の練習を始めてからも、優都は納得がいかないという思いが拭いきれないようで、的中率自体がそこまで落ち込んだわけではないにせよ晴れない表情をちらつかせることが増えていた。昼を過ぎて暑さがピークに達した道場では、だれもが目の前のことに精一杯で、必要最低限の声だけが響いてくる。
 何順かを終え、チームごとに休憩と練習の時間を交互にとっていたところで、そのときの由岐のチームは優都と拓斗が一緒だった。他の四人は先ほどの試合の反省と休憩を兼ねて道場を離れているところだ。相変わらず調子の上がらない様子の優都はどことなく険しい表情をしていて、拓斗はいつも通り問われたこと以外はあまり口を開かず黙々と弓を引いている。
 拓斗が翠ヶ崎に入学してきてからまだ四か月ほどではあるものの、この二人の性格があまり相容れないことは部内の暗黙の了解で、公式戦の三人立で二人と同じチームの雅哉が試合のたびに二人の関係に頭を悩ませているということは由岐の耳にも入ってきていた。その気持ちがすこしわかる、と、張りつめた空気の中で息を吐く。由岐からすればどちらもいまのところまったく手の届かない実力を持った選手であり、それぞれ別のベクトルで尊敬に当たる。けれど、近くにいればいるほど、拓斗が優都の実力をさほど認めていないという事実が見えてしまって、彼らのあいだになにひとつ会話がなくとも、視線ひとつで背が冷える。優都自身は拓斗のその態度を身に染みて感じてはいるのだろうが、そのことに対して反論や不満を口にしたことはなかった。
「……森田さん、引き分けのときに肘に頼りすぎじゃねえすか。ちゃんと引き切れてないように見えますけど」
 的前に立っていた優都の射を後ろから見ていた拓斗が、珍しくしびれを切らしたように優都に声をかけた。優都はそれを聞いていたはずが、生返事だけしてその場を離れようとした。拓斗は眉をひそめ、「森田さん?」とすこし語気を強めて彼を呼び止めた。
「え、……ごめん、なんだっけ」
 はっとしたように答えた優都の声はどこか浮ついていて、拓斗は訝しむように彼の肩に手をかけて、顔を覗き込んだ。
「――大丈夫ですか」
 拓斗の問いに返事をする前に、優都の身体はふらりと揺らいだ。危ない、と思う間もなく拓斗が優都の手から弓を取り上げ、優都の身体を片手で支える。そのまま立っていられずしゃがみこんでしまった優都に、拓斗は「それでひとに体調管理がどうとか言えるんですか」と溜息をつき、優都と自分の弓を「立てといて」と駆け寄った由岐に手渡した。優都は一瞬なにかを言おうと口を開いたが、すぐに目を伏せ、「そうだな」とだけ答えた。由岐が拓斗と優都のもとに戻っていったとき、暑さだけでは説明のつかない量の汗が彼の首筋を伝っているのにようやく気が付いた。
「なんか飲むもん出して」と拓斗は由岐に短く声をかける。
 優都は自分ひとりではろくに立ち上がることすらできない様子で拓斗に半ば抱えられていた。拓斗はそのまま彼を壁際まで引きずっていき、壁にもたれかからせた。由岐がジャグからコップに注いだポカリを優都に手渡したとき、優都の手がひどく震えているのがわかった。浅い呼吸を堪(こら)えながらコップを口に運ぶ優都の手を支えていると、拓斗が濡らしたタオルを何本か持って戻ってくる。手際よく優都の身体を冷やしながら、「氷は宿舎戻んないとねえか」と拓斗が呟くのが聞こえた。
「どうした、なんかあったか? ……森田?」
 時間になっても呼びに来ないことを訝しんだのか、道場に戻って来た雅哉が異変に気付いて駆け寄ってくると、優都は顔を上げて、雅哉に「ごめん」とだけ言った。
「たぶん、熱中症かなんかだと思います。早川と俺で涼しいとこ連れてって先生に預けてくるんで、古賀先輩あと任せていいすか。説明すんのとかも、見てたやつのほうがいいと思うし」
「――おう、わかった。頼むわ」
「早川、俺先に行って先生に話してくるから、部屋まで森田さん連れて来て。最悪担げる?」
「わかった、大丈夫」
 手早く指示を出して道場を出ていった拓斗を見送って、優都に「歩けますか」と手を貸すと、優都は頷いて、ふらつきつつも自力で立ち上がった。宿舎までの短い道のりは木陰を通ってなんとか歩き通し、建物に入ったところで急に気が抜けたのか、優都は玄関の近くで身をかがめ、そのままうずくまってしまった。「気分悪くないですか」と由岐が問うと、優都は最初こそ首を横に振って「大丈夫」と返していたが、次第に吐き気を抑えるように呼吸が浅くなっていき、まだすこし指が震えたままの手のひらで口元を覆って俯いてしまった。
「吐いちゃって大丈夫ですよ、苦しいですよね」
「……ごめんな、由岐」
「そんな。仕方ないですよ」
「――情けない」
 吐き捨てるように発された言葉は、いままで聞いたことがないほど冷たくて、優都が自分自身にはそういう物言いをするのだということに背筋が冷えた。このひとは、自分自身にあまりに厳しい。彼の弱いところは、きっと、見たことがないのではなくて見せられたことがないだけなのだ。
 拓斗が顧問の先生を連れ、タオルと保冷剤を持って現れたのとほぼ同時に、道場の方からは千尋が姿を見せた。「馬鹿」と言うなり屈みこんで優都の前で溜息をついた千尋は、拓斗から持ち物を受け取って短い言葉で状況を聞くと、顧問と二、三言交わしたのちに、由岐と拓斗に道場に戻るように促した。
「ゆっきー、優都先輩どうしたの」
「熱中症っぽい。気持ち悪そうだったし、ふらふらしてたし」
「大丈夫そう?」
「結構しんどそうだった。意識やばいとかってほどじゃなかったけど……」
 拓斗とともに道場に戻るなり、潮が心配そうな顔で問うてきて、それに答えを返しつつも由岐自身も多少の不安は残っていた。弱り切った優都の姿は、きっと由岐や拓斗どころか、潮や京だってきっと見たことがないのだろう。
「すげえ体温上がってたわけでもねえし、ふらついてたわりに意識はしっかりしてたし、水も自力で飲めてたし、どうにかなるほど重症ではないと思うけど」
 ぶっきらぼうな口調で潮の方は見ずにそう言った拓斗に、雅哉が肩を竦めて「おまえらがすぐ気付いてくれてよかったよ」と声をかけた。
「まあ、とりあえずはおまえらもちょっと休憩しといて。これからどうするか先生に確認とってくるわ。別に練習しててもいいけど、わかってるとは思うが気をつけろよ」
「了解っす」
 後輩たちにそう言い残して雅哉が道場を離れたあと、それぞれがペットボトルやコップに口を付けつつ、しかしなかなか会話は生まれないまま静寂が張りつめていた。いつもであれば真っ先に口火を切る潮も、黙り込んだままタオルに顔を埋めて、しばらくしたあと大きく息を吐いた。
「まじで、優都先輩大丈夫かな。無理してたのかな、先輩そういうのまじ顔に出さねえからな……」
「――あのひとの、そういうところが嫌いなんだよ」
 潮がひとりごちた言葉に切り返したのは、普段あまり自分からものを言わない拓斗の温度の低い声だった。隣でそれを聞きとめた潮は、「どういう意味」と眉を顰める。一瞬で陰を増した雰囲気に、由岐が京の方を見やると、京も困ったように由岐に視線を送ってくる。
「あのひとは、ひとにはいろいろ言うわりに、自分がそれをやらねえし、ひとに無理すんなっつっといて自分が無茶してぶっ倒れる人間が一番信用できねえだろ。見てて腹立つ」
「おまえだってぶっ倒れてたくせによく言うよ。なんなら、優都先輩はおまえと違って周りのことずっと見てたし、気配って仕事もしてたろ。つーか、一番あのひとに面倒かけてんのだれだか自覚ねえのか」
「それこそおまえの言えたことかよ。自分は迷惑かけてねえつもりか」
「はあ? なんで俺がおまえにそれ言われなきゃなんねえわけ?」
 声を荒げることはなくとも苛立ちを隠そうともせず言い合う二人には口を挟むこともできず、そのあいだにも潮と拓斗はいままでに見たこともないくらい感情的なやりとりを続けていた。けれど、優都をだれよりも尊敬している潮が、拓斗が優都のことを好いていないのをわかっていて、こうして拓斗と揉めることがなかったのも、お互いある一定のところで互いに踏み込まず接しようと暗黙の距離を保っていたからなのだろう。
「うーやん、風間、その辺にしといたら」と京が静かに口を挟んだ。
 その言葉に、潮ははっとしたように口をつぐみ、拓斗もそれ以上言葉は続けなかった。
「風間の言いたいことがわかんないわけじゃないんだけどさ、うーやんが、優都先輩のこと悪く言われたら怒るの、風間はわかってて言ったろ。同期四人しかいねえんだし、しなくていい喧嘩すんの俺やだよ」
 京に同意を示そうと由岐が大きく首肯すると、拓斗はすこしだけきまり悪そうに顔を背けて「悪い」と言い、潮も「ごめん」と目を伏せた。
 弓を引く気にもなれずしばらく気まずい空気を持て余していると、雅哉と千尋が何事かを話しながら宿舎の方から近付いてくる物音が聞こえた。しばらくもしないうちに二人は道場に戻ってきて、静まり返っている一年生の姿を眺めながら、千尋が「なんだこの通夜みてえな雰囲気」と呟いた。
「千尋先輩、」
「僕は大丈夫、迷惑かけてごめんなさい、大したことはないから残りの練習しっかりやってくれ。だとさ」
 潮が本題を問う前に優都の口調で答えを返した千尋は、「そんな心配するほどでもねえよ」と続けて、自分の水筒を手に取り、中身を一気に呷った。
「涼しいとこでちょっと休ませたらわりとすぐ元気になってたよ。死ぬほどへこんでたから、まああんまいろいろ言わずに放っといてやって。自分が一番わかってんだろうし」
 千尋の言葉に、先ほど様子を見てきたのだろう雅哉も同意を示し、「気をつけてるつもりでもなるときはなるしな」と言葉を添えた。
 その後雅哉の仕切りに従って午後の練習を終え、優都抜きでミーティングまでを済ませて部屋に布団を敷いているとき、部屋の入口のふすまが何度か叩かれる音が聞こえた。「はい」と近くにいた由岐が返事をすると、「いま大丈夫?」と聞いてきたのは昼間ぶりに聞く声だった。ふすまをゆっくりと開けた優都はすこしばつの悪そうな顔で立っていて、「お疲れさま」と言いながら部屋に上がり、そのまま畳に膝を折って座った。つられて由岐たちも姿勢を正そうとすると、優都は「おまえたちはいいよ」とそれを制した。
「僕が謝りに来ただけだから。――いろいろと迷惑をかけて申し訳ない。なんであれ主将の僕が練習に穴をあけたのは情けないことだし、一番手本にならないところを見せてしまったのも反省してる。自分から言うことでもないんだけど、反面教師にしてほしい。ごめんな」
 そう言って深々と頭を下げた優都に、「そんな謝んないでください」と最初に言ったのはいつも通り潮だった。
「もう平気なんすか? 夕飯食べました?」
「うん、だいぶ休ませてもらったからむしろ元気なくらいだよ。夕飯もさっきいただいたし、大丈夫。心配かけたな」
「ほんとまじで無理しないでくださいね」
 潮の問いに笑って答えた優都は、たしかに顔色もいつも通りで、昼の不調を引きずっている様子もなかった。
「風間、由岐、ありがとう。ちゃんと言えてなかったと思うけど……助けてくれてたよな」
「いや、指示出してくれたの風間ですし……お大事にしてください」
「別に、大したことは。なんともなくてよかったです」
 優都は由岐と拓斗にもう一度軽く礼を言って頭を下げ、「明日、あんまり時間ないから寝る前に荷物直しておけよ」と言って部屋を出ていった。
「優都先輩、大丈夫そうでよかったな」
 京が潮にそう声をかけると、潮も「まじで心配したわ」と安堵の溜息をついた。潮と京は優都が実際倒れたところを見ていないから、余計に不安もあったのだろう。
「なんか、やっぱすごいな」
 由岐がひとりごとのように呟いた言葉は、思いのほか部屋に響いた。単純な尊敬だけではない感情が、ここ数日の優都の姿を見ているとさまざまに渦巻いてくる。
「疲れてるときの態度に性格出るって言うけど、先輩ほんとうにぎりぎりまで顔にも俺たちへの態度にも出さなかったし、なんか、それがいいのか悪いのかは微妙だけど、俺には絶対できないし、すごいなとは思っちゃう」
 うっしーが、先輩のことめちゃめちゃすごいひとだって言うのは結構わかった、と呟いた由岐に、「まあまじで無理はしてほしくねえけどな」と言いつつも潮はどこかうれしそうな表情を見せた。自分の好きなものを、他人にも好きと言われたときの反応だ。そのやりとりを聞いていたであろう拓斗に視線をやると、拓斗は由岐が自分を見ていることに気付いてか、今度はなにかを言うわけではなかったが、わずかに肩を竦めてからふいと目を逸らした。潮は拓斗のそのしぐさに気付いていたようだったけれど、あからさまに視線を向けることはせず、彼に向かってなにかを言うこともなかった。

 翌日、六日目の朝に合宿所をバスで出発したあと、バスの中はものの三十分ほどで寝静まっていた。由岐がしばらくうとうとしたあとぼんやりと眼を覚ますと、拓斗は座席を二席占領して横になっていたし、潮と京はお互いに寄りかかり合うようにして爆睡していた。千尋は頭が窓枠に寄りかかっているのが見えたし、雅哉も、長身の彼の頭が後ろの由岐から見えないということは起きてはいないだろう。優都の姿は由岐の位置からは窺えなかった。欠伸をしながら窓の外を眺めていると、バスはちょうどサービスエリアへの分岐点を曲がるところで、しばらくすると、行きでも利用した規模の大きいサービスエリアに停車した。
 飲み物でも買おうかと由岐がリュックを漁り始めたとき、前の方の席から優都が身を乗り出して後ろを確認したのが見えた。彼は由岐以外全員が目を覚ましもしないことに気付くと軽く苦笑して、顧問と数言話をしたあとバスを降り、その場で由岐が降りてくるのを待っていた。
「お疲れさま。寝てなかったの?」
「お疲れさまです。ついさっき起きたとこです。先輩こそ」
「僕もちょっとうとうとしてたよ。あんまり車で寝るの得意じゃないんだけど」
「僕もです、爆睡はできなくって」
 バスが出るまですこしあるから、建物の中で涼んでいようかという優都の提案に乗って、自販機前のベンチに並んで座る。由岐が買おうとしたペットボトルのお茶は、「由岐には昨日の恩がある」と言い張った優都に押し切られて奢ってもらった。
「先輩、体調平気ですか?」
「うん、心配かけて申し訳ないよ。由岐は大丈夫? 僕らよりもともとの体力はありそうだけど、それにしても、的前に立って数か月でやらせる練習ではなかったような気もしてて。ほんとうに、よく付いてきたよな」
「え、いや、付いてけてた気もしてないんですけど……でも、早く追いつけるようにはなりたいです」
「由岐には期待してるよ。半年も経ってないのにかなりのレベルだし、あと二年でどれくらい伸びるかすごく楽しみだ」
 そう言った優都はほんとうにうれしそうに笑っていて、彼の言葉がお世辞でも空虚な励ましでもないことがはっきりと伝わってくる。魔法のような信頼だと思った。自分のことをまっすぐ見てくれているからこそ出てくる信頼なのだという確信が、あまりに自然に、それに応えたいという思いに共鳴する。「頑張ります」と答えると、優都はまた目を細めて頷いた。
「……僕、優都先輩みたいな先輩に、なりたかったんだと思うんです。中学のとき」
 ずっと頭の隅にあって、言うかどうか悩んでいた言葉は、いつのまにかするりと喉を滑り抜けていた。優都がほのかに目を丸くしたのを見て、思わず「いきなりすみません」と謝ると、優都は首を横に振って、「すごくうれしいけど」と言った。
「そんなふうに思ってもらえてるとは、思わなくって」
「先輩みたいに、後輩の話ちゃんと聞いて、どんなしょうもないことでも絶対馬鹿にしないで一緒に考えてくださって、なにか悩んだり迷ったりしたときに、このひとに相談してみようかなって思えるような先輩に、憧れてたし、俺もそういうふうになりたかったんだなって、優都先輩見てたら思っちゃって。……僕の勝手な理想押し付けてごめんなさい」
 優都に対して覚えていた感情のうち、尊敬と畏怖以外に、わずかにあったものがきっと嫉妬だったのだと合点がいった。自分はこんなふうにはなれないだろうし、事実なれなかった。その思いが、わずかながらこの合宿中ずっと胸の奥に潜んでいた。
「……ありがとう、由岐。僕も、まだまだ駄目だなって思うことはたくさんあるんだけど、それでも、そんなこと言ってくれる後輩がいるなんてものすごく幸せだな」
 優都は、元気が出たよ、と首を傾げてすこし照れたように笑った。その表情が、いつも見ているものより幼く見えて由岐は何度か瞬きをした。いつもは凛とした姿勢と態度を保っている彼は、屈託なく笑うときに限って、同い年の雅哉や千尋に比べてもかなりあどけない表情を見せる。
 「そろそろ戻ろうか」と立ち上がった優都に続いてベンチから腰をあげる。優都が由岐よりもほんの二センチ背が低いことを知っていた。けれど、やはりまっすぐと背を伸ばして歩く彼の姿に、自分の目線の高さとの差を見いだすことは難しく、由岐もこころもち背筋を伸ばして、一歩先を歩く優都の足跡を追いかけた。

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