祈る言葉も知らない

 嫌いな人間が死ぬというのは、愛したひとが死ぬということよりもよっぽど難しい。悲しみに溺れ泣き崩れることもできず、ただ、涙も息苦しさも伴わない純粋な喪失の感情だけを持て余し、彼を愛したひとの慟哭をどこか他人事のように眺めながらそっと目を閉じる。そうして、ざまあみろと嘲笑うことができるほどには彼のことを憎んではいなかったのだという、気付きたくもなかった事実とともに動かなくなったその体に両手を合わせる、そういう儀式だ。悲しくはない。寂しくもないし苦しくもない。生き返ってくるだなんてのは死んでも御免だけれど、そのくせ、もう二度と顔も見なくていいし声も聞かなくていいということに、安堵や喜びを覚えるのには、まだ少しだけ時間が足りない。その、色のない、ひどくバランスを欠いた感情が、感情と呼べるのかどうかすらわからない無味の感覚が、体に残されるすべてであって、喪失ということそのものの手触りなのだろう。
 二十歳の夏、八歳年上の俺の兄が死んだ。
 兄の身体が炉から運び出され、くすんだ白色の骨だけになって目の前に現れたとき、ほんのわずかに沸いた感情があった。絶望ではなかった。幸福でもなかった。ただ、その瞬間だけ、どんな道を選んだときもいままでずっと鼓膜の内側に張り付いていたあの音が、俺になにもかもを許してくれなかったあの旋律が、どれだけ耳を澄ませても聴こえなくなったのを覚えている。兄のことは嫌いだったけれど、彼の紡ぐ音を憎むことだけはできなかった。それを知らないまま生きて、知らないまま死ぬ世界は幸福だっただろうか。箸を持った左手は、震えることはなかったけれど、持ち上げたどこかの骨のあまりの軽さにひどく拍子抜けをしたのを覚えている。兄の骨は、あまりにも簡単に小さな骨壺に収まり切ってしまった。背は低くないものの、線の細いひとだった。昔から、ずっと。

「あのひとを、神さまのように思っていた」と次兄は言った。長兄が死んで、もう五年ほどが経ったその頃には、もうほとんどだれも、坂川渉(ショウ)を坂川洋(ヨウ)の弟だとは呼ばなくなっていた。渉(わたる)はふとその話を持ち出して、「何度聞いても慣れない」と独りごちた。
「俺は、ずっと、坂川洋の弟と呼ばれてきたのに、いまとなっては、洋のほうが坂川渉の兄と呼ばれるんだ——考えたこともなかったよ」
 洋(ひろし)の享年をとうに超えた渉は、妻と息子ひとりの円満な家庭を築きながら、世界に名を知られる音楽家としての活動を続けている。大学卒業と同時に就任した国内オーケストラのトランペット首席奏者の職も今年で十年目で、再来月にはソリストとしてウィーン・フィルに呼ばれて公演をするのだという話も、本人から聞いてはいないが人伝に入って来た。非の打ち所がないほど順風な人生だ。だというのに、俺は渉がその生活を幸福だと語るところを見たことがない。俺が覚えている限り、渉はいつもなにかに追われるように楽器を吹いていた。そのなにかが、俺には決して見えないものだということも知っていた。
「嫌じゃなかったの、洋の弟って呼ばれんの」
「むしろ、そう呼ばれるほうが安心したよ——兄さんは、あたりまえのような顔をしてそういうものをすべて引き受けてしまうひとだったから、俺はその後ろに隠れているほうがずっと楽だった」
 渉はすこし目を伏せて、口元に薄い笑みを浮かべた。一本の飛行機雲だけが線を引く低い空では、遮るものもなく太陽の光が淀んだ空気を揺らしていた。襟元に汗が溜まる。
 神さまと渉が洋を呼んだのを、大仰だと笑う気にはあまりなれなかった。いまとなってはもう、うまく顔も声も思い出せないけれど、あのクラリネットの音色を忘れることはできない。俺でさえそうなら、渉にとってあの音がいまだどれだけ鮮烈であるのかは考えるまでもなくて、それは、きっと渉の音楽のなによりも深いところで脈付いている、しかし生命のない存在だ。命のあるものは、あれほどまでに美しくあることはできない。坂川洋という人間がたしかに生きて呼吸をしていたあのときですら、洋の音楽は生命とはどこか別の場所にあった。
「いまでも、そうだろ。おまえは」
「そう、なんだろうな。忘れられないし、捨てられない」
 洋の音楽と、渉の音楽が似ていると思ったことはない。むしろ、渉の吹く音は洋のそれとは真逆と言っていいくらい性質の違うものだ。洋の音楽が正しく美しさであるなら、渉の音楽はひとつの世界そのもので、それは圧倒的な力を持って聴くものの世界を上書きしていく、目を潰すほどの美しさとはまた違った種類の純粋なまでの暴力だ。それでいて、この天才は、尊敬する音楽家を問われたとき、父や師などの無難な名前を答えたあと、ドビュッシーやモーリス・アンドレに並べて平然と坂川洋の名前を挙げるのだ。「あのひとの音楽が、いまも僕のすべてです」と、慈しむように答えていた姿を見たことがある。すべてという言葉の重みに一瞬だけ呼吸が詰まった。この男は、ひとりでだってすべてを作り出せるだけの才能を持って生まれてきたというのに。
「自由に、なる勇気がないだけだろ」
 思わず吐き出したその一言に、渉は目を丸くした。けれど、すぐに瞼を伏せ、「そうかもな」と一言呟いた。渉の頬に浮かんだ汗が、玉になって輪郭をなぞり、あごの先で一時溜まったのちに首を滑り落ちて胸元に消えた。
「そんなものに、なりたいと思ったこともなかったよ」
 ほとんど表情のない顔で渉が呟いたその言葉が、きっとなによりも洋の音から自由なものだった。神さまを持って生きるということは、自分が自分を生きることと、相手に相手を生きさせることを同時に許さないのと同じだと、いまとなっては俺は思う。かつての俺がそうだった。
「あのさ、渉。——ほんとうは、俺が言えることでもないんだけどさ」
 洋は、彼が生きていた二十八年間の中で、坂川洋という人間の人生を生きた瞬間があったのだろうか。それは、運命としてもともと存在しえない時間だったのだろうか。それとも、渉や俺や、彼の音を傾城と呼んで尊んだひとたちが、彼から奪い取ってしまったものだったのだろうか。どちらにしたって変わりはしなかっただろう。俺たちは、洋が音を失ったことも、自ら命を絶ったことも、どこか自然なことだと思ってこの五年間を過ごしていた。恐ろしいほど、あたりまえに。
「それじゃ、だめなんだと思うんだよ。俺は」
 どうして、渉にこんな話をしているのかはわからなかった。洋のことも、渉のことも、この先なにがあっても家族として愛することはきっと俺にはできなくて、だけど言葉はあふれるように口をついた。渉は、なにも言わずに俺の言葉を聞いていて、俺から目を逸らすこともしなかった。通り過ぎた風も温度が高い。目に入りかけた汗を手の甲で拭った。
「だってさ、おまえの音楽は、もう洋を動かせないんだぜ」
 これは、俺の贖罪なのかもしれなくて、だとしたら渉にこの言葉を聞く義理はひとつもないのだけれど、言いたいことだけはどうしてもあった。渉の音楽は世界だ。優しくもないし、平等でもないし幸福でもない。けれど力があって価値がある。意味も目的もなにひとつなくたって、そこにあるという事実だけが絶対に動かない。そういう残酷だけれど手放せない存在そのものだ。
「洋は、たぶんおまえの音楽が普通に好きだったし、おまえの音だって、洋の音楽を、ちょっとくらいは変えてたと思うんだよ。——でも、いまはもう、違うだろ。洋の音じゃなくて、おまえの音が動かせる人間を、ちゃんと見てよ、渉」
 兄の亡霊から自由になってくれと、どうしてかこんなにも必死に懇願する俺はどこからどうみてもこの男の弟で、その事実に自嘲した。結局、俺だってそこから自由になることはできていない。一生できない。渉は太陽の眩しさに細めたような視線でしばらく俺を見たあと、ようやく「潮(うしお)」と俺の名前を呼んだ。
「——おまえは、聡いな」と、渉はそれだけ言った。
「は、いまさら? 俺、音楽以外のことは大体おまえらより有能だぜ」
「そうか、そうなんだろうな、たしかに」
 世界を、憎んだこともあったし洋のことも渉のことも、死んでしまえばいいと思ったことは何度もある。洋が死んだことは悲しくはなかった。渉が死んでも、きっと俺は泣かない。それでいて、洋の音楽も、渉の音楽も、ほんとうの意味で俺の人生から姿を消すことがないのはわかっていたけれど、それを神さまだと呼ぶことを、もう二度と自分に許してはいけないとも思う。ひとがひとを尊敬することに、捨象も信仰も、きっと必要ないと信じたかった。
「ごめんな、潮」
 渉は、ほんの数年前俺に言えなかったであろう言葉を、答えも出さないまま、あたりまえのように口にした。夏の日差しにじりじりと灼ける花崗岩が光を鈍く反射する。さっきかけたばかりの水はもうほとんど飛んでしまっていて、足に零した水で少し湿った靴下ももう温い。
「ばーか、許さねえっつってんだろ」
 じゃあな、と踵を返した俺に「ああ」とだけ返事をして、渉は汗で濡れて額に張り付いた前髪をかきあげ、ついてくることもなくその場で俺を見送った。おざなりに手を振って、兄に背を向けて歩き出す。自分の足音を数歩分聞いたところで、夏の重たい風に乗った線香の香りが追いかけて来た。太陽以外なにひとつない晴れやかな青い空には、飛行機雲は消えていた。

2016/8/4 Thu.

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