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69. 第4章「行け行け東映・積極経営推進」

第10節「東映100年に向けて 次なる事業への取り組み ⑤」

⑧ボウリング事業:東映ボウルチェーン 前編

 大川社長時代、東映本体が取り組む映像関連以外の新規開発事業を附帯事業と呼びました。
 これは、1953年4月に大川が欧米視察を行った際、テレビの台頭による映画界の衰退を目の当たりにし、いずれ日本の映画界にも同じことが起こることを予測、新規事業開発による多角経営の必要性を痛感したことから始まります。
 早速大川はまず第一歩として、1953年12月に新築した渋谷東映地下に、直営の「東映サントリーバー」「喫茶トーエー」を開設。所管施設として興行部業務課に事業係を置きました。
 劇場の広告塔やテナントのリースなどを担当する事業係は、1958年2月に事業課に昇格。3月には、新設の新宿東映内に大型の貸店舗を誘致し、これから大型劇場の開発が東映にとって必須であることも鑑み、5月開発部を新設します。
 1960年、年頭あいさつで大川は直営劇場の拡充と附帯事業の強化を方針に掲げました。ここで初めて附帯事業と言う言葉が使われます。
 これまでに、大阪東映会館、銀座の東映会館などの広告塔やテナントを誘致してきた開発部は、10月には湯沢観光ホテルを買取り、湯沢東映ホテルとしてホテル業にも進出しました。
 そして11月、興行部業務課と開発部が統合して附帯事業を担当する事業部となります。
 1961年の年頭あいさつで大川は多角経営の活発化を、直営劇場の拡充と切り離して語り、この年、新潟東映ホテル、釧路東映ホテル、小倉東映会館と開館。事業部が担当する新規附帯事業案件が次々に展開して行きました。
 直営劇場を活用したリーシングなどの事業、ホテル業に続く新規事業を模索する中、1963年から検討され、翌1964年5月から事業部管轄で始まったのがボウリング事業です。

 日本におけるボウリングの歴史は古く、江戸時代の文久元年(1861年)6月22日、長崎居留地にて開設された外国人の社交場「インターナショナル・ボウリング・サロン」が嚆矢とされています。ちなみに、1972年、日本ボウリング場協会は6月22日ボウリングの日と定めました。
 1952年12月、東京青山、神宮球場と秩父宮ラグビー場の間に日本で初めてのボウリング場、東京ボウリングセンター開設されます。当時のお金で入会金3万円、会費年3千円と高額でしたが、米軍関係者や外国人、芸能人や業界人が集まるおしゃれな社交場として人気が集まりました。
 1955年には日本ボウリング連盟が誕生。若者の間で人気が高まって行き、1960年代に入ると徐々に大手企業が参入し、次々と新施設が誕生していきます。
 まずは、1960年11月、西武グループの国土計画興業池袋ボウリングセンターを開業しました。1961年8月力道山が渋谷に作ったリキ・スポーツパレスにリキボウリングセンターを開場。1962年1月には後楽園スタジアム後楽園ボウリングセンターをオープンすると5月大映は南千住に作った東京スタジアムの地下に東京スタジアムボウリングセンターを併設し映画界で初めてボウリング業に参入します。12月には東映が資本参加している日本電波塔東京タワーボウリングセンターの営業を開始しました。
 松竹1963年6月、築地の松竹会館6階に松竹ボーリングを開設、12月には浅草松竹ボーリング、翌1964年2月には京都の新京極に京都松竹ボーリングとボウリング業に乗り出します。

 東映はこの波に乗り、事業部が担当する新規事業として、横浜東映パラス劇場の敷地を利用し、1964年5月2日東映初のボウリング場、東映ボウリングセンターを開業しました。

1964年5月発行 社内報「とうえい」第76号
1964年5月発行 社内報「とうえい」第76号
1964年5月発行 社内報「とうえい」第76号
1964年5月発行 社内報「とうえい」第76号
1964年5月発行 社内報「とうえい」第76号
1964年5月発行 社内報「とうえい」第76号
1964年5月発行 社内報「とうえい」第76号

 1964年9月、大川博の東映は五島昇の東急系列から分離します。

1964年9月発行 社内報「とうえい」第80号

 1965年2月1日大川毅事業部長就任します。大川毅は1956年東映入社後、1959年に東映化学工業に出向、1963年東映化工常務に就任した後、1964年2月、部長待遇で東映に戻り、外国部ニューヨーク出張所長として赴任、帰国の命を受け日本に戻ってきました。

1965年2月発行 社内報「とうえい」第84号

 大川毅が率いる事業部は、以後怒涛のごとくボウリング場開発に取り組み、まずは4月、千葉に新しく建設することを決めます。
 6月大川毅東映取締役就任
 8月にはすこぶる快調に滑り出した東映ボウリングセンターの商号を横浜東映ボウリングセンターに改め、北海道の札幌、釧路でのボウリングセンター進出を発表しました。

1965年4月発行 社内報「とうえい」第86号
1965年9月発行 社内報「とうえい」第90号
1965年9月発行 社内報「とうえい」第90号

 1965年11月23日2番目のボウリング場、千葉東映ボウリングセンターオープンします。

1965年11月発行 社内報「とうえい」第92号
1965年11月発行 社内報「とうえい」第92号
1965年11月発行 社内報「とうえい」第92号
1965年11月発行 社内報「とうえい」第92号

 1966年1月、大川博は年頭挨拶にて、附帯事業の成績が良かったことで東映の決算がうまくいったと語り、その重要性を社員にPRしました。

1966年1月発行 社内報「とうえい」社長年頭挨拶特別号・第94号

 2月、大川博は全社的に機構改革を行い、企画製作本部営業本部事業本部教材営業本部技術本部の5つの本部に分け、事業本部の下には事業部と外国部を置き、大川毅事業本部長に就任、事業部長外国部長も兼任します。

1966年2月発行 社内報「とうえい」第96号

 3月19日3番目のボウリング場、釧路東映ボウリングセンターが開場しました。

1966年3月発行 社内報「とうえい」第97号
1966年3月発行 社内報「とうえい」第97号
1966年3月発行 社内報「とうえい」第97号
1966年3月発行 社内報「とうえい」第97号

 5月には湯沢東映ホテル第二新館を建設し、そこにボウリング場を併設することを発表。6月14日4番目札幌東映ボウリングセンターが華々しく営業を開始しました。

1966年6月発行 社内報「とうえい」第100号
1966年6月発行 社内報「とうえい」第100号

 10月14日には5番目のボウリング場、福島東映ボウリングセンターが開場します。

1966年10月発行 社内報「とうえい」第104号

 10月末、大川毅専務取締役に昇進しました。11月1日、事業本部長が改めて委嘱され、事業部長代理にNETに出向していた吉田治雄が就任します。

1966年10月発行 社内報「とうえい」第104号

 12月12日、湯沢東映ホテル第二新館が開場し、6番目のボウリング場、湯沢東映ボウリングセンターがオープンします。 

     1966年12月発行 社内報「とうえい」第106号

 1967年の年頭あいさつで大川博は、附帯事業の最優先事項としてボウリング事業の強化を掲げました。

1967年1月発行 社内報「とうえい」第107号

 1967年2月19日、北海道に東映7番目のボウリング場、帯広東映ボウリングセンターが開場しました。

1967年2月発行 社内報「とうえい」第108号
1967年2月発行 社内報「とうえい」第108号
1967年2月発行 社内報「とうえい」第108号

 5月16日事業部長吉田治雄が昇進。6月26日8番目のボウリング場、新潟東映ボウリングセンターが誕生します。

1967年6月発行 社内報「とうえい」第112号

 10月18日9番目のボウリング場、高岡東映ボウリングセンターがオープンしました。

1967年10月発行 社内報「とうえい」第116号
1967年10月発行 社内報「とうえい」第116号
1967年10月発行 社内報「とうえい」第116号

 全国で9か所のボウリングセンターが開場し、今後も益々拡大して行くことから、施設間の切磋琢磨、相互の交流による企画やサービスの一層の充実、向上をめざし東映ボウルチェーンを発足。その交流企画として12月16日、第1回全国選手権大会が横浜東映ボウルで開催されます。

1967年12月発行 社内報「とうえい」第118号

 12月29日10番目のボウリング場、仙台東映ボウリングセンターが開場しました。

1968年1月発行 社内報「とうえい」第119号

 1968年5月17日、大川毅は専務を辞任し取締役に、事業部長の吉田治雄は東映エージエンシ-取締役に転籍し、事業本部長兼事業部長には堀江朝光が就任します。
 6月27日、堀江新部長の下、11番目のボウリング場、田無市に東京東映ボウリングセンターが営業を開始しました。

1968年6月発行 社内報「とうえい」第124号
1968年6月発行 社内報「とうえい」第124号
1968年6月発行 社内報「とうえい」第124号

 大川毅が広げたボウリング事業。続きは次回ご紹介いたします。