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92. 第4章「行け行け東映・積極経営推進」

第19節「大川博の事業総括 前編」

 東映は、コロナ禍の2023年3月期、『ONE PIECE FILM RED』、『THE FIRST SLAM DUNK』が 大ヒットし、『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』『レジェンド&バタフライ』『シン・仮面ライダー』などが好調な成績を収め、過去最高好決算を記録しました。
 東映アニメ特撮は、大川博1956年東映動画を設立し、1960年に「これからは動画と特撮の時代」と語って東映特撮班を編成、特撮に力を注いだことが契機であり、そこから大きく育って現在の成果が生まれています。
 それらの事業を生み出した大川は、1971年8月17日、現役東映社長のまま、突然74年にわたる生涯の幕を下ろしました
 大川は、20年に渡る東映社長時代に、アニメ特撮の開発以外にも、テレビ事業ビデオ事業教育映画事業CM広告事業現像事業直営館拡大とそれを活用した不動産事業ホテル事業など現在の東映グループを支える主たる事業興しています。
 今日の東映の基礎を作ったのが初代社長の大川でした。
 今節は、大川東映で作り出した事業とその功績総括し、この章を終えたいと思います。

1 組織及び経営再建

 阪急・東宝グループ創業者小林一三は、鉄道を基盤に駅を中心とした街づくりを進め、そこに住む住民に向けた娯楽ビジネスも展開することで、鉄道経営の安定と事業の拡大を図る多角的鉄道事業スキームを開発しました。
 小林に師事した五島慶太はそれを関東鉄道事業で実践し、東急グループへと成長させます。
 五島の部下で、鉄道省出身経理のスペシャリスト、東急電鉄専務の大川博は、五島譲りの「経営の合理化」と「予算即決算主義」を武器に、まずは経理マンとして、1951年、新会社東映の経営再生に乗り出しました。

① 銀行負債への切り替え
 1951年4月1日、当時の10億円を超える多額の負債を持って映画会社東映(株)誕生社長に就任した大川の初仕事は、高利貸しからの借金を銀行融資に切り替えることから始まりました。

 映画製作への徹底した予算管理断行
 同時に、これまで良い作品作りを行うという名目でアバウトに行われていた映画製作への徹底した予算管理を断行します。

③ 全プログラム自社製作配給、独立独歩の映画会社へ
 続いて、他大手映画会社との提携を絶ち、1952年正月から系列館で上映する全配給作品を自社で賄う、独立独歩の映画会社となることを決断しました。

④ 社員の定期採用実施
 1952年4月、大川は、会社の信用を高め、将来を担う人材確保をめざし、社員定期採用制度を導入、第1期社員25名が入社します。

⑤ 映画企画を本社に集約
 
本社に企画本部を作り、京都撮影所所長マキノ満男常務に昇進、本社に異動させ企画本部長に任命、これまで東西撮影所で別々に行っていた映画企画本社集約します。映画企画製作の全責任をマキノにもたせることで奮起を促すとともに、大川の目の届く本社に置くことで徹底して映画製作の予算を管理をする目的でした。

⑥ 東証上場、資本力増強
 1952年11月には念願の東証上場を果たして資本力を増強、企業としての社格も整えていきます。

〇 時代劇人気、収支向上、空前の経営危機乗り切る
 
創立から2年たち、時代劇を中心とした映画人気の拡大、『ひめゆりの塔』の大ヒット、徹底した経費の削減もあって、徐々に利益確保が進み、収支は上向き、目の前にある空前の経営危機をなんとか乗り切ることができました。

2 映画事業強化、教育、アニメ新規映像事業開発

 目先の経営危機を乗り越えた大川は、営業、製作体制の強化を目指し、専属俳優強化養成機関の設置興行面の強化機器の整備と技術の向上輸出振興など将来を見据えた映画事業強化の経営方針を決定し、さっそく実行に取り掛かりました。

 専属映画俳優強化、養成機関の設置
 1953年
8月に第1回ニューフェイス募集を全国的に行い、半年にわたる俳優座での基礎訓練の後、東西撮影所に配属、1969年第13期まで募集を続け、高倉健里見浩太朗千葉真一梅宮辰夫佐久間良子など長きにわたり東映を支える俳優が数多くここから生まれます。
 撮影所では、それぞれ独自に新人俳優のための演技等指導を行ってきましたが、1958年7月株式会社東映児童演劇研究所東京撮影所東撮)に設立し、2年間にわたる研修生を広く募集し、俳優育成に力を注ぎました。
 
⑧ 次々と映画館をM&A及び新設、直営館拡大、営業強化
 1953年
10月には資本を増強し、映画事業の基本は興行にありとする東宝松竹の興行網に対抗するべく、次々と映画館をM&A及び新設日本全国に直営館網を張り巡らしました。
 同時に専門館契約館の拡大に向けて、各支社の営業強化します。

⑨ 直営映画館での不動産賃貸事業の開発 
 小林一三は、宝塚で劇場や娯楽施設を経営するにあたり、飲食、売店、グッズ販売など関連収入、関連事業を拡大することで施設の経営を安定させました。それを学んだ大川も、積極的に直営劇場での関連収入確保に取り組んでいきます。
 1953年、新設直営館第1号として渋谷東映を開業するにあたり、地下に「サントリーバー」と「喫茶トーエー」を開店させました。
 これが直営館関連事業の先駆けとなり、以後次々とオープンする東映直営館を利用した関連事業不動産テナント事業へと発展していくのでした。

 製作強化、東映作品単独二本立て興行実施
 1954年
正月から、東映作品単独二本立て興行に取り組みます。それに向けてスタッフを雇い入れ、子供向け中編映画娯楽版を製作することで本数増に対応しました。
 この施策が大成功し、東映の専門館数契約館数とも全国で加速度的に拡大していきます。

⑪ 両撮影所の土地購入拡大、リニューアル
 1955年3月、
大映から念願の京都撮影所(京撮)の土地約1万㎡および建物購入。以前から購入してきた周辺の土地と合わせてその広さはその時点でおよそ3万5千㎡まで達し、大川はそこに次々と最新の施設を作っていきました。
 創立当時京撮は4,928坪、ステージ数4、東撮は8,641坪、ステージ数4でしたが、1961年の段階では京撮2万8,565坪ステージ数19東撮2万4,573坪ステージ数16、と京都・東京の両撮影所はほぼ現在の広さまで、大きく拡張されました。
 京撮のオープンセットは、現在の映画村の敷地よりも東の土地まで広がり、北には専属馬場を設けるなど日本有数の大きさと施設を誇る撮影所に成長します。

⑫ 教育映画部設立、教育映画製作参入
 小林一三
の薫陶を受けた五島慶太は、その電鉄沿線開発の一環として、師匠の小林以上に教育並びに文化事業の育成に努めました。五島を師とする大川も、東映が軌道に乗りはじめた1954年9月教育映画自主製作配給委員会を設置、教育映画製作に乗り出します。
 戦後、諸外国の視聴覚教育が紹介され、日本での地域視聴ライブラリーの新設、育成、拡大が関心を集めるようになり、ライブラリーを構成する教育映画の必要性が言われはじめたことにいち早く対応し、新規事業として教育映画界参入の検討を重ねた結果、1955年6月、16ミリ映画部を教育映画部に改称、教育映画界での日本一を目標として本格的に活動を開始しました。
 そして、翌1956年には初の文部大臣賞受賞作や文部省特選に選ばれる作品を製作、それ以降も数々の賞を獲得し、教育映画界での存在感を高めていきます。

⑬ 日動映画をM&A、東映動画設立、アニメ映画製作参入
 1955年6月
教育映画部創設すると同時に総天然色短編アニメ映画うかれバイオリン」を企画製作しました。この作品の好評を受け、その大いなる可能性を確信した大川は、翌1956年8月1日日動映画株式会社M&A東洋のディズニーを目指して東映動画株式会社創設しました。
 1957年1月9日、東京練馬の東映東京撮影所(東撮)に隣接して東映動画スタジオ竣工。ディズニー方式の本格的マルチプレーンカメラなど最新技術機材が導入され、早速、映画製作を開始します。
 1958年10月21日、東映動画創設前の1956年4月2日から時間をかけて制作した、日本最初の総天然色長編漫画映画白蛇伝』を公開しました。世界各地に輸出され、ヴェネチア国際児童映画祭特別賞を始め国内外で数々の賞を受賞し、日本アニメ映画界の第一人者として東映動画の国際的評価が高まります

⑭ 外国部新設、海外駐在所設置社員派遣、映画輸出振興
 
大川は、映画の輸出に力を注ぎました。
 まずは、当時まだ復帰前の沖縄琉球貿易と全プロ輸出契約を締結、日系人が数多く住むハワイ合同娯楽株式会社と年間百本を超える輸出契約も結びます。
 1956年にはロスアンゼルス駐在所を開設するために、連絡員を駐在させ、1958年5月1日外国部を新設。その下に外国課渉外係輸出係を置いて英語に堪能な新入社員を次々と配属させました。そして、1960年ニューヨークに念願の駐在所開設し、続いて、ローマパリにも社員を派遣して駐在所を置き、映画、アニメなど積極的に海外営業を進めました。
 その結果、海外での営業成績も拡大、また、1963年には『武士道残酷物語』がベルリン国際映画祭金熊賞を受賞し、海外での高い評価を得ます。

⑮ カラー映画時代に向けて日本色彩映画M&A東映化学工業(現・東映ラボテック)設立現像事業参入
 1951年3月17日
小西六写真工業は天然色フィルムの現像とコニカラー・システムによる映画フィルム現像に対応できる新会社を設立することを決定し、各撮影所に近い調布に日本色彩映画株式会社創立、9月に新社屋と工場を竣工しました。
 1959年3月17日日本色彩映画の小西六への負債を全額東映が肩代わりして、全株式を購入、東映の子会社とする話がまとまり、日本色彩映画の5月28日の株主総会で新経営陣が就任、東映グループ企業として新たなスタートが切られます。
 1960年には第二東映が立ち上がり、劇映画の製作本数は大幅に増加、建物も増築し、新機材も導入、5月末の総会で東映化学工業株式会社と改称して、9月末の決算では年1割5分の株主配当も実施するまでに至り、大川博によるラボラトリーのM&A大成功し、1961年10月東証二部上場(2007年上場廃止)、その後の東映グループを支える企業になりました。 

〇 映画事業及び映画関連新規事業の拡大
 大川博
は、映画企画製作についてはマキノ光雄とその後継者岡田茂に任せ、経営の安定を図るため、土地購入両撮影所を拡大整備し、次々と新設した直営館を中心に国内外の映画営業体制を整備し、日本一の映画会社へと成長させました。
 カラー映画時代の新技術に対応するため最新設備の現像会社M&Aし、現像業にも乗り出します。
 また、教育映画アニメ映画事業に積極的に乗り出し、将来に向けて映像関連事業拡大しました。

 次回は、映画事業を続けるために大川が作り育てた多角的事業の数々をまとめます。