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黒い瞳

  喪服だ。横目でチラと見た四十代くらいのその女性は、少しくたびれた喪服につつまれて窓から外を眺めている。帰路へ着く人が多い平日の夕方、バスの中ひとり喪服の彼女は自然と目にとまってしまう。運転手の声とともにバスが音を立てて動き出した。
  バス通勤は思っていたよりつまらなくない。人を観察するのが好きな私にとって、バスに乗っている人を見ることはいい暇つぶしだ。いつもの決まった時間に乗ってくる人の顔は次第に覚え、たまに見たことのない人が乗るとおやと思う。
  それが、今日は喪服の彼女だった。彼女はふたりがけの席の窓際にひとりで座って、窓の外に目を向けている。外をみつめるその顔には、疲れが溜まっているように見えた。真一文字に結んだ口と険しい目つき。その端々に小じわが見える。夕日が眩しいのだろうか。眉間には大きなしわが寄っていた。表情はピクリとも動かない。
  彼女はなにを思っているのだろう。あの表情からはなにも読み取れない。涙を我慢しているようにも見えるし、そうではないようにも見える。ただ、なんとなく哀しみが彼女を包んでいることだけがわかった。そのうち、彼女は静かに目を閉じて眠ってしまった。
  他人の胸の内を考えるたびに私はいつも思うことがある。ひとは表情とは違う感情をよく内包している。笑いながら実は悲しみを隠していたり、仏頂面の後ろに優しさがあったり。どうして人間はこんなにややこしいのか。彼女も壮大なものを無表情の裏に抱えているのだろうか。
  ときおり道路のへこみにはねながらバスは進んで行く。次の停留所を知らせるアナウンスが鳴った。それが終わると、彼女はそろりと閉じていた目を開けた。
  どきり、とした。私は見てしまった。彼女の瞳。黒々と濡れた瞳はどこまでも果てしない闇を抱いていた。底がなく延々と落ち続けてしまう穴のような黒。それは、莫大な大きさの悲哀そのものだ。
  私はすぐに目をそらした。触れてはいけない、彼女の心の内側を盗み見てしまった気がした。罪悪感で潰れそうだ。
  バスはゆっくりと止まり、空気を吐き出しながら扉を開く。喪服の彼女はただ静かに降りていった。私は彼女の顔を見られなかった。
彼女が座っていた場所に、なんとなくまだ哀しみが残っているような気がした。いったい、彼女を包んでいた哀しみはどれほどの大きさだったのだろう。多分、私が思っているより相当に大きいに違いない。
  私は、ふと思った。もし、私が今この世から消えたとして、彼女のような黒々とした瞳を向けてくれるひとは、はたして私の周りにいるのだろうか。私は他人が見てわかるほどの哀しみを持ってもらえるのだろうか。
  信号が青に変わる。バスはゆっくりと走り出した。私は黒い瞳のことを考えながら、段々と闇に染まる夕空を眺めた。