我が格闘

  カーン。ゴングが鳴った。相手がリズミカルに前足を踏み、前蹴りを放ってくる。あたる距離ではない。そもそもリーチでは圧倒的にこちらが上だ。しかし生まれて初めての試合という緊張感からか、うまく体が動かない。妙に会場の暑さを感じるような気もするが、もちろん冷房は効いている。

 残暑が厳しい日曜日。観客はまばらだ。そりゃまあそうだ、アマチュアのへったくそなキックボクシングの試合なんて、よっぽど親しい人が出場でもしていなければ、誰が好き好んで見に来るもんか。

 クラスはウェルター級、67キロ以下。普段の体重が73キロの僕には、ちょっと減量がキツかった。そもそも183センチという身長でウェルターまで落とすというのは、アマチュアレベルのキックボクシングの試合では聞いたことがない。ズルイといわれても仕方ないが、その分、減量はつらかった。ズルイという奴にはいわせておけ。どうせやるなら勝ちたいじゃないか。そうさ、勝つのさ。

 アマチュアにつきグローブはバカでかくダメージが少ない16オンス。ヘッドギアも装着し、スネあてとヒザあてもつけている。ヒジやヒザ、それに裏拳・後ろまわし蹴りなどの回転系の技は禁止だ。

 最初のラウンド。といってもたった2ラウンドで終わりだが、しかしそれでも最初は最初だ。相手は何度か試合経験があるようで、挨拶がてらのジャブと前蹴り=ムエタイ式にいえばティープ、を放ってくる。オーソドックス同士、つまり二人とも右半身を半歩後ろにして構えて左パンチをジャブ右パンチをストレートとするスタイルということだが、身長はこちらが10センチは高いだろう。そもそも僕は手足が異様に長い体型をしているから、パンチでいえば15センチぐらいリーチが違うかもしれない。

 15秒ほど経過したか、ようやく最初のジャブを出す。もちろんあたらない。どうせこのジャブは見せるだけのものだ。あてるつもりのない短いジャブに目を慣れさせて、途中から長さを変えてガードをぶちぬく作戦だ。と、その時相手がもぐり込もうとしてきたので、ジャブで迎撃するとともに下がりながら右ローキック。あたった!調子に乗って右ミドルを打つが、これは完全にディフェンスされ、逆に相手の右ミドルキックの反撃をくらう。ディフェンス出来なかった…。

 これでさっきのこちらのローとポイントはどっこいになっちゃったな…などと妙に冷静になりながら、左脇腹に意識をやる。大丈夫、ダメージは全くない。

 問題は、スタミナだ。3分のプロとは違い、1ラウンドは1分30秒。半分に過ぎない。そもそも僕は体力がない。そして格闘技というのは、やってみると分かるのだが、攻撃も守備もやたらと体力を使うようになっている。

 「はじめの一歩」というボクシングマンガでは、「3分間全力疾走で走っているようなもの」と表現していた。そのため一歩はほぼ3分間で走り終えるイメージで、800メートル走を練習に取り入れている…というような話だ。実際、800メートル走は日本記録で1分45秒ぐらいだから、走りの専門家ではなければ、だいたい3分間ぐらいを走りっぱなし、という感覚だろう。

 相手にもぐり込まれた!アゴの下に右アッパーを食らいそうになるが、これはパリング、つまり手で払いのける。しかし続いての左フックを食らってしまう。こちらは反撃のショートアッパー。あてるつもりはなくガードさせる。その上で、さっと下がって左ローキック。軸足にあてることになるので、届けばほぼガードできない。あたった!さらに続けて左ハイキック、これもあたった!相手のこめかみにスネが見事に命中、相手の足が少しぐらつく。ヘッドギアのぺしゃっとした感触がスネあてごしに足に残る。

 相手も遮二無二もう一度距離をつめようとするが、こちらはジャブを連打し、近づけさせない。さらに距離をとりつつ、左前蹴り。相手に前進させないためのものなので、足の裏を相手の体と平行になるように蹴る。ストッピングという蹴り方らしい。とにかく僕の方がリーチが長いので相手はやっかいそうにしている。足を取られると大変なので、素早く引くのが肝心だ。

 そうそう、これが作戦なのだ。距離を保ち、ジャブと前蹴りで近づかせずにポイントを稼ぐのだ。せこい?はあ?どうせやるなら勝ちたいじゃないか。闘い方にも意味があるプロとは違う。華麗な負け方などない。アマチュアこそ、勝敗だけの世界だ。

 しかし前蹴りは、体力を使う。息が上がっているのが分かる。おそらく肩で呼吸をしているだろう。こうなるとフットワークが使えなくなる。案の定、ロープに追い込まれている。しかし接近を許すわけにはいかない。この試合初めて本気のストレートを打つ。完全にガードされるが、ガードごと打撃を与えた。これは布石となる。近づこうとしたらカウンターだぞ、という意味だ。相手も理解したようで、ちっと舌打ちをしたいような表情を見せる。もちろん口にはマウスピースが入っているので、舌打ちなど出来る訳がないのだが。

 こちらがジャブと前蹴りで牽制し、相手がもぐり込もうと素早くフットワークを使う、こんな攻防が続く。カーン。ようやく長い長い1ラウンドが終わった。そして1分後には、さらに長い、永遠といっても過言ではないような時間が始まることになるのだ。

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 そもそも僕は小さいころから運動は得意ではなく、運動系の部活に所属したこともなかった。学校が終わったらすぐに図書館に駆けつけるような子で、まあ友達とサッカーぐらいならやったけど、体を動かすのが好きなタイプではなかった。

 成長してからも全く同じで、身長ばかりがすくすくと育ち、みごとにひょろひょろなもやし体型になった。分かりやすくいえば、アンガールズ体型である。大学でもこれは変わらず、むしろ酒を飲むようになったためにさらに細くなっていった。身長はこの頃もう今と変わらなかったが、体重は60キロ代前半だった。

 「しかしひょんなことがきっかけで、大学で格闘技に目覚め」などということは全くなく、ひたすら本を読むだけの毎日が続いていた。あまりに読書熱心だったので、4年では足りずに留年してしまったほどだ。卒業後は、就職せずにバイトしていた放送作家の道で食べていくことにしたが、この時もひょろひょろ具合は変わらなかっただろう。

 「とはいえ見るスポーツとしては格闘技は大好きで、ずっと憧れていて」などということも全くなく、世間的に盛り上がっていたUWFからグレイシー柔術、バーリトゥード、そしてK-1とプライドなども、なんとなく知識として知ってるだけで興味はなかった。

 「ところがある時、つきあっていた彼女に無理やり連れて行かれた試合を見て、人生が変わった」などということも全くなく、格闘技との接点はずっとないままだった。

 やがて30代に突入し、相変わらずひょろひょろのままの体型だった僕の前に、ある映画が登場する。それが、「マッハ!!!!!!!!」だ。

 そもそもあまり映画を見る方でもなく、カンフー系に興味もなく、ただ単に試写会に招待されて、その時間は暇だったから見に行ったんだと記憶している。自発的な要素はかけらもなかった。しかしその日映画を見終わった僕は、格闘技、とりわけこの映画で使われているムエタイを習うべきだ!と決意したのだった。

 「マッハ!!!!!!!!」はタイ映画で、村の守り神の仏像の頭が盗まれてしまったため、村一番のムエタイの使い手である主人公がはるばる首都バンコクまで上って、仲間を集めながらギャングと戦う、というお話である。…たぶん。

 今、ネットであらすじを調べたが、呆れるくらいにストーリーを覚えていなかった。啞然とする。しかし、この映画ははっきりいってストーリーなどどうでもいい。というかもう一度いうが、ぜんぜん覚えてない。「だけど鮮烈なアクションシーンの数々は覚えていて、例えば」などということも全くなく、要するにほとんど何も覚えていなかった。

 この文章を書くために見直そうかとも思ったが、やめた。忘れているということはどうでもいいということだ。覚えている、どうでもよくないことだけを書こう。

 そう、ただ一つだけ鮮烈に覚えていることがある。それが、従来のカンフーとは違う技だ。プロレスでいうところのエルボー、ヒジ打ちだ。主人公はとにかくこのヒジを、ウルトラマンのスペシウム光線のごとく必殺技として使いまくるのである。

 ムエタイというのはタイの国技とされる格闘技で、「立ち技最強」とも呼ばれている。立ち技というのはつまり寝技以外で、ということで、簡単にいえば打撃系最強、ということだ。もちろんボクシングや空手など他の打撃系が「ムエタイさんには勝てませんですはい」と認めた訳でもなんでもないが、しかしムエタイの技術体系が非常に洗練されていて高度なことは間違いがない。実際現代の空手はムエタイの影響をかなり受けている。

 このムエタイは、日本に輸入されて「キックボクシング」という名前に変わった通り、「キックもありのボクシング」という捉え方をされるが、実はボクシングとの違いはそれだけではない。なんとなれば、ムエタイの基本的な攻撃技としては、「パンチ」と「キック」の他に、「ヒザ」や「ヒジ」もあるのだ。

 ヒザは相手の首をつかんでお腹に蹴りこむという使い方が一般的だが、ヒジはパンチ同様にいろんなバリエーションがあり、映画の画面的にも映えると思ったのだろう、先程も述べたように実に多用されていた。なぜだか僕はそのシーンに惹かれてしまった。

 映画を見た翌日には、会った知り合いに「マッハ!!!!!!!!」って映画がすげぇんだよ!とべらべらしゃべりまくり、特にヒジで相手をやっつけていくのがすげぇんだよ!と、言葉を売り物にしている職業らしからぬ貧困なボキャブラリーでまくしたてていた。

 なんとなく街を歩いていてもも心が高ぶり、右手のヒジを持ち上げて左の手の平で上からパン!とたたいて、ムエタイ気分を味わったりする。単なる変人だが、本人は「ちょっとカッコいいんじゃないかこれ」ぐらいに思っていたのだった。

 そしてその日、つまり映画を見た翌日の夜。ネットで調べて家から最寄りのキックボクシングジムを見つけ、電話をして無料体験をすることにした。思っていたよりもはるかにキツく、汗だくになり、しかしきちんと体系的なことに驚く。実はもうこの時、入門することは決めていたといっていい。

 体験した帰り道の高揚感は、おかしなくらいだった。あの時に歩きながら飲んだビールのうまさは、生涯でもベスト10に入るだろう。

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 挫折もあったしなかなか上達しないとも思っていたけれど、それでもジムには通い続けた。その団体には段位の認定制度があり、ある一定以上の段位を取らなければ試合には出られないのだが、そのレベルもとっくに越えていて、最高級の段位を取得してから数えても、もう一年以上が経過していた。

 ジムではアマチュアにも積極的に試合に参加することを勧めていて、それまでも何度か試合に出ないかといわれていたが、さすがに試合に出るのは恐ろしいと思うのと、無様に負けたらいやだなと思うのとで、参加の意思を表明しないまま時間が過ぎていた。特にそんなにやる気がないということを陰でアピールしようと思っていた節もあるだろう。ジムをさぼったりしづらくなる、という計算だ。

 しかしその頃、長年同棲していた女性と別れて住むことになり、独り暮らしになってしまって、ぽっかりとひとりの時間が空いてしまった。暇なので、というのは言い訳で暇な時間を無理やり埋めるために、これまでよりはるかに熱心にジムに通うようになり、多い時には週に5日というプロでもあまりないような頻度で練習を行なっていた。 

 実際、入門してから数年たち、見渡せば自分よりも長い人が数人しかいない状況だった。そんな時、次の大会の日程を知らされた。その時、何か上から降りてくるものがあった。「試合に出て、勝とう」。瞬間的に、そう強く思ったのだ。なぜ「試合に出よう」ではなく「試合に出て、勝とう」だったのか、それは自分でもよく分からない。しかし僕は勝ちたかった。なんとしてでも勝ちたかった。

 そしてジムの中の人間関係もあった。関係、というよりも関係がないことの問題だ。数年も通っているのにいまだに気安く話せる相手がいないのだ。もともと団体生活が苦手な上にスポーツ経験がないために、スポーツをやっている人たちのノリについていけなかった。

 黙々と練習しているのがイヤになっていた、ということだ。ジムではほとんど、口を開くことはなかった。それがだんだん苦痛になってきた。それでも、試合に出て勝てば、なんとなくそういう「黙々と練習する人なんだ」という立場として理解されるかな、と思っていた側面はありそうだ。勝てば全てが許される。そう思っていたのだろう。

 あるいは、試合に勝ったら、いったん格闘技はやめようかとも思っていたことも少しある。そろそろ、どんなに頑張っても上達しなくなってきた。いわゆる才能の壁、というものか。アマチュアごときでそんなに大層な言葉を使うのはおかしいだろうが、これは比喩だ。なんにせよ上達曲線は限りなく平行線に近づいていた。

 どんな理由にしても、映画に突き動かされてはじめたキックボクシングという不思議な人生のエピソードを、一区切りしたかったのかもしれない。こうして僕は、試合出場を申し込んだ。試合は、ワンマッチと呼ばれる一試合戦うだけのもので、トーナメントなどで複数人の中から優勝を競うものではない。戦う相手は団体がお互いの力を見定めて決めるということで、それほど強い敵や弱い敵とは当たらず、必ず同じような力の持ち主と戦うことになる。また、アマチュアはあのカッコいいヒジが禁止だった。それは少し残念なような気もした。まああまりに危険なので、仕方あるまい。

 そして、試合に出場することを決める時に、一番悩んだのが階級だ。キックボクシングはボクシングと同じく階級制、つまり体重で戦うクラスが決まる。その団体では、73キロ以下のミドル級と、67キロ以下のウェルター級が僕の標準体重の前後に位置していた。ミドル級ならばほとんど減量する必要はないが、その代わり当然、相手も大きくなる。ウェルター級ならば僕の身長は極めて有利だろうが、その代わり当然、減量はキツくなる。

 僕は、やはり勝利を大前提として全てを考えていたので、最終的にウェルターを選んだ。ということは、地獄の減量だ。そもそも太っていないのに、7キロ近く減量をしなければいけなくなったという訳だ。いったい、そのころはどんな食生活を送っていたのか。今振り返ると我ながら呆れるほど真剣な減量生活だ。

 朝はなし。お昼ご飯は、80カロリー程度の春雨ヌードル。夜ご飯は、ささ身をゆでたものを2本と、水菜やキャベツ、白菜などの葉っぱものを刻んだもの、それにゆで卵を2つ。味付けにはバリエーションをもたせたが、ほぼこの食事で一カ月を過ごした。

 一方で、2ラウンドを戦いぬくためにはスタミナをつけなければならない。途中で心が折れて「もういやだ、やめる」などと叫びたくはない。これまで通り、ジムには仕事のあとに通うが、それとは別に、公園のだいたい800メートルくらいの道を猛ダッシュ×3本、というのを週に三回、午前中とか会議まで少し間があいた時など、暇な時にやることにした。

 もちろん、お腹が減ってくたくたになる。しかしこの頃、仕事でパフォーマンスが落ちていたとか、失敗が続いたということはなかった。気力があれば、人間割と大丈夫なのだろう。それに、試合という明白な目標がある。試合が終わったら、食べたいものを食べたいだけ食べられると思えば、それほど減量はつらくはなかった。いや、つらかったけど。

 そうして、体重は見事に、67キロまで落ちた。筋肉も多少落としたけど、これは仕方がない。そしてスタミナは、少なくとも僕の人生史上最高についていたと思う。要するに、皆さんが見たことがあるような「ボクサーの体」になっていた。

 試合の前日、さすがによく眠れずに、なんとなく頭のなかで相手と戦うイメージを考えていたら、いつしか眠りについていた。試合会場は大田区の大森というところにある、別のジムのアリーナで、ジムなんだけど周りにちょっとした観客席があり、控室みたいなところもある。夜にはプロの興行もやるようなところで、その雰囲気だけでもかなり緊張した。

 ジムでいつも教えてくれているコーチがセコンドについてくれることになっていて、挨拶を交わす。そして会場で初めて発表された戦う相手を確認し、着替えてから計量をすませる。体重はきっちり狙い通りだった。そこから会場のはしっこに座ってひたすら出番を待つ。なかなか時間がたたないと思ったら、いつしか時間が過ぎている、そんな不思議な夢のような時間の流れ方で、思い出そうとしても記憶がぐにゃぐにゃしている。

 「そんな時に、以前から気になっていた女性が現れて、気を持たせるような応援をしてくれて」などということも全くなく、相変わらずしゃべる相手もおらず、コーチは同じジムの選手のセコンドを沢山兼ねているため忙しそうにかけまわっていて、まあ暇であったとしても特に話すことはないが、とにかくひたすらひとりぼっちだった。

 ようやく予定の時間が迫る。コーチにミットをお願いしてアップをしていたら、呼び出された。控室にいって、グローブやヘッドギア、スネあてとヒザあてを装着し、ルール説明と注意点を聞く。もちろんそんなものはとっくに頭に入っているので、ぼーと聞いている。相手は、自分よりずいぶん背が低い。勝てそうだ、と自分で言い聞かせる。精悍そうなその顔と、敏捷性が高そうな体つきを見て、本当はびびっていたのだけれど。

 前の試合が終わった。アマチュアにつき進行が厳しいため、試合はほとんど連続して行なわれる。すぐに自分たちの番だ。僕はロープをくぐり、リングに立った。

                 ■

 1ラウンドが終わり、コーチが「よくやっている。このままのペースで。次が最後。もってる力を全て振り絞れ」と、世界中のセコンドが最終ラウンドを迎える選手に向かって言うようなことを言っている。分かっている。自分はペースを握っている。このまま、このまま。

 そして、短すぎるインターバルが終わり、ゴングが鳴った。カーン。

 相手は、リーチがある相手への定番対策である、フットワークを効かせること、パンチやキックの回転をあげることを、同時にやってきた。スタミナ配分を考えずに1分30秒、全力疾走するつもりだ。こうなると、もともとスタミナに自信がない僕は追い詰められる。

 相手はワンツースリー、つまりジャブ・ストレート・フックからの左ミドルという一番基本となるコンビネーションを繰り返す。リズムを相手に支配される。さらに飛び込んできて右のショートアッパーから左フック、そしてすっと下がっていく。フットワークを使ってヒットアンドアウェイをしながら回転をあげていこう、という訳だ。

 こちらは手数に圧倒されて何も出来ていない。ガードはしているものの、頭が混乱してきて、逆の足でキックをガードしようとしてしまう。逆の足でガードというのは、相手の左キックに対して、こちら側としては反対に位置する左足でガードをするということだ。相対するのは右足なのに、逆の足でガードをすると体をねじらなければいけない。だから戻す瞬間にスキが生まれる。相手はそこをついて素早く右ローキックを放つ。全く対応出来ない。ふとももに、まともに受けてしまった。

 ローキックは、ムエタイ=キックボクシングの最大の武器だ。ヒザやヒジも痛いけど、ローキックは立つということ自体を難しくする。プロの本気のローキックを一発でもヒザの少し上に食らったら、三日間ぐらいは立てなくなると思う。

 あわてて僕も、右ローキックを返す。これは空振りに終わり、僕はくるっと一周して元の構えに戻る。そして牽制のジャブ。どうやら、太腿のダメージはたいしたことはなさそうだ。

 セコンドがなにかを叫ぶ。どうやら、半分がたったようだ。全く時間感覚がない。しかし残り45秒。ノーガードの打ち合いになってしまったら、回転が早い相手の方が有利だ。このあたりで、有効打を稼がなければいけない。よしっ!

 で、僕がやったことといえば、やっぱりジャブと前蹴りだった。当初の作戦通り、リーチを活かして最後まで闘い抜く。相手がジャブをかいくぐろうとする動きを見せたら、とにかくガードを無視して右ストレートを放つ。これで入ってくることは出来ない。弾幕の完成だ。

 相手が攻めあぐねている。ここだ!僕はこの試合で初めて、自分から相手に接近した。ワンツースリーの連打。そして右足を後ろに後退させながら左ミドル。これは意外だったようで、見事に脇腹にヒットした!後ろに退きながらだからパワーはちょっと落ちるが、かなりポイントは稼げたはずだ。

 しかし相手も時間がないことは分かっている。突進してきた!僕は右にジャンプして交わしながら残した左手でフック。これがあたったらもろにカウンターになってカッコいいのだが、当然あたりはせず、空振りになる。しかし相手の突進は止められた。すかさず、ジャブ、ジャブ、ジャブ!

 相手の動きが止まった。ここが最後の勝負だ。僕はいよいよジャブの打ち方を変える。打ち終わりの最後に肩を入れて一押しすることで、数センチほど長いジャブにするのだ。さらに前蹴りは、拇指球を立てて鋭くし、相手をストップさせるのではなく腹部にダメージを与えるような蹴り方に変える。体力はもうない。リザーブタンクですら燃料切れ寸前といったところだ。

 残り時間、ひたすらジャブで相手の足を止め、下からもぐり込もうとしたら前蹴り。前蹴りが変わったのが分かったのか、相手は食らわないように後ろに下がらざるをえなくなる。イライラしているのが分かる。しかしこちらの体力も限界だ。いつぶっ倒れてもおかしくない。心臓が破裂しそうだ。

 カーン!

 終わった。終わった。終わった。はー。終わったらへなへなと崩れるかと思ったが、意外と立っていられるものだ。判定をしばし待つ。アマチュアはすぐに試合結果が出るのだ。さあ、どっちだ?

 

…僕は、勝った。

 相手とグローブごと握手し抱擁を交わす。ああ、勝った。勝ったんだ。そして相手の顔を初めて、まじまじと見る。見ず知らずの相手を、殴ったり蹴ったり。なんの恨みもないのに、殴ったり蹴ったり。格闘技というのは、不思議なスポーツだ。

                 ■

 そのあと、僕はなんとなくというか、案の定というか、練習にいく気がしなくなって、ちょっと他のジムに行ってみたり、あるいは寝技もありという総合系の空手をやってみたりもしたけれど、やっぱり長続きせず、結局格闘技をやめた。生涯にやったことのあるスポーツがキックボクシングだけ、というのはちょっと珍しいかもしれない。せっかく作った体がなまっていくのは耐えられなかったので、筋トレだけは今でもしている。

 もう格闘技をやることは二度とないかもしれない。でも、今でも時々、あの残暑の日曜日の、まばらな観客の中心にあるリングのことを思い出す。

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