物語における「境界」の魅惑たるや

小さい頃、私は物語が大好きな子供だった。

読み書きもできないほど幼いときから、グリム童話を何度も何度も読み聞かせてもらい、幼稚園の時には『海賊ポケット』シリーズや世界の名作文学シリーズ(『十五少年漂流記』『ガリバー旅行記』など)を図書館で借りてまとめ読みした。

そして、小学生のとき、かの『ハリー・ポッター』シリーズと出会った。家に帰って読むのが待ち遠しくて、早く放課後になればいいのにと思いながら毎日を過ごした。小学生なのに夜更かしして、気の済むまで読み明かした。(お母さんも一緒にハマっていて、許してくれた)

物語は、いつでも私を不思議な世界に連れて行ってくれた。私は、本さえあれば、空を飛ぶことも、巨人に会うことも、海賊になることも、宇宙を旅することだってできた。無敵だった。空想の世界に入り込むことが堪らなく幸せで、物語を読むことで空想の世界に入り浸っていった。

結局、大人になっても物語好きと妄想癖は治らなかった。大学は日本文学を専攻し、そのまま本に携わる会社に入社した。会社員になった今でも、会議中にふと、自分の世界に入ってしまうことがよくある。それくらい、物語は私の人格に影響を及ぼした偉大なる存在なのだ。

ただ、ひとえに"物語"と言っても幅広い。私はどんな物語が好きか。物語の何が好きなのか。
そんなこと突き詰めて考えるわけもなく、ただふらふらと読みたいものを自由に読んでいたのだが、ある時ふと、自分が好きな物語には、大きな共通点があることに気が付いた。それは、

現実世界と異世界との"境界線"が上手に描かれていることだ、と。

ここでいう"境界線"とは何か。
例えば、『ハリー・ポッター』の場合、物語の書き出しは、ハリーの育ての親であるダーズリー家の描写から始まる。ダーズリー家は魔法使いではなく、普通の人間だ。しかし、ちょっとずつ周りで奇妙なことが起こり始める。フクロウがたくさん飛んでいたり、猫が地図を読んでいたり、尖った帽子を被った人物を街で見かけたり。そして最終的におかしなことが連続していき、居候だった男の子・ハリーが魔法界へと誘われることになる。

同様に、『ナルニア国物語』であれば、疎開先の古いお屋敷にあった衣装ダンスから別世界に引き込まれるし、『ヘンゼルとグレーテル』であれば、森で迷ってしまい悪い魔女の住むお菓子の家を見つける。

このように、ちょっとずつ変なことが起こり始めたり、普通とは違う場所や物に触れたりした瞬間が、異世界への扉が開かれるタイミングになっている。これが"境界線"である。
私は、この"境界"部分の、何が起こるかわからないあやふやで不安定でドキドキする感じが、たまらなく好きなのだ。今も、思い出しながら書くだけでわくわくしている。
これは、「もしかしたら私にも、今いる世界から別の世界に行くチャンスがあるのかも???」という、物語の主人公と自分自身を重ね合わせた中二病的期待感を抱いてしまうから起こるのだと思う。(まさか大人になってまで異世界にわくわくするとは思わなかったので認めたくはないけど)

境界線の描かれ方と定義

"境界"の描かれ方は、もちろん作風によってそれぞれ異なるものの、その土地に根付いている文化や気候、自然との向き合い方の違いによって異なる。

まず、日本の場合。日本は、島国かつ津波や地震などの自然災害が多い国のため、古くより自然に対して畏怖の念がある。そのため、山や川などの自然に敬意を払う「アニミズム的信仰」が根強くあり、物語においても、このような対峙し共存した自然の中に"境界"が生まれやすい傾向がある。「神隠し」という言葉があるのも、そこから来ていると考えられる。
振り返れば、日本神話の『古事記』にも、生と死の境として、「黄泉比良坂(よもつひらさか)」が登場する。先立った妻イザナミへ会うために黄泉の国へと向かったイザナギがたどり着く場所であり、イザナミが岩で道を塞ぐ場面もある。
近年の物語でいえば、『千と千尋の神隠し』でも、はじめに千尋は古いトンネルをくぐり川を渡っているし、『君の名は。』では、山奥の祠が物語の鍵になっている。

次に、ドイツのグリム兄弟が編纂した『グリム童話』(『ヘンゼルとグレーテル』や『赤ずきん』『ラプンツェル』などが代表的)。グリム兄弟があらゆる地域で言い伝えられる土着的な言い伝えや民謡を集め、童話として出版したものだが、日本とは描かれ方が少し異なるものの、"境界"は存在する。
『グリム童話』には"森"が頻出するのだ。この森の中に異世界との扉、すなわち"境界線"があることがほとんどで、道に迷ったり、森で異世界の何かに出くわしたりして、物語が始まる。
思い出してみてほしい。「赤ずきん」にも「眠れる森の美女」にも「白雪姫」にも、鍵となるタイミングで"森"が登場する。

このように、ドイツと日本だけで見ても"境界"の描かれ方は異なるが、伝承的に畏敬の念があったり神聖なものとされているところに"境界"が置かれていることは共通している。
また、異世界と現実世界の間に位置している"境界"部分は、曖昧で不気味で不安定な場所として描かれる。あやふやで怪しく、物語の鍵になりやすい。そのため、境界を通過する場面は、登場人物にとって危険が伴うことがほとんどである。

乱歩が描く日常に潜む"境界"

このように、私は幼い頃からこの"境界"の魅力に取り憑かれた。そして色々な小説を読み漁り紆余曲折ありながら、最終的に江戸川乱歩という、最強に私好みの"境界"を書く小説家にたどり着いた。

江戸川乱歩はというと、『少年探偵団』や『人間椅子』などに代表される推理小説をメインとした大衆小説家である。大正〜昭和にかけて、文化の変動をうまく小説に反映させているのが特徴だ。

私が江戸川乱歩の中でも特に好きな二作品は『鏡地獄』と『屋根裏の散歩者』だ。
『鏡地獄』は、鏡の魅力に取り憑かれ、最終的に球体の鏡の中に入って狂ってしまう話で、『屋根裏の散歩者』は、異質な空間である屋根裏の隙間から他人の生活を覗きみて興奮し犯罪を犯す話だ。

これだけ聞くと、「あれ?これまでのファンタジックな境界線の話と江戸川乱歩は結びつかなくない?」と思うかもしれない。たしかに、ファンタジー路線ではないしワクワク感はない。
しかし、異世界との"境界"が描かれている点では実は同じなのだ。

この場合、「鏡が好きで好きで堪らなくなってしまうこと」や「屋根裏の天井から覗くことに魅力を感じてしまうこと」自体が、普通とは違う"境界"になっている。乱歩の描く異世界への"境界線"は、これまで私が紹介しきたものよりも、遥かに日常の近くにあるのが特徴だ。
そして、乱歩の描く狂気という名の異世界もまた、日常との境が曖昧で、身近なのだ。

乱歩作品に登場する狂った人物たちは、一見するとただの頭がおかしいやつに見えるかもしれない。しかし、登場人物たちの偏愛的な感覚や狂気じみた好奇心というのは、実は誰もが持っているものが肥大化しているだけであり、誰であってもこの境界を超える可能性があるのだ。
つまり、あなたも覗き魔になって犯罪を犯すかもしれないし、私も鏡好きの変人となって発狂するかもしれない。誰しもが乱歩が描く人物たちと同じ道を辿る可能性を、少しだけ秘めているのだ。

だからこそ、乱歩の作品は、私が大切にしている「自分も境界を超えて異世界に行けるかも」という感覚を、よりリアルに感じることができる。
厳密にいうと「行けるかも」というより「行ってしまうかも」だし、ワクワク感ではなくゾクリ感だけれど。

境目は曖昧であればあるほど良い

たくさんの物語に触れ、いわゆる"境界線"マニアとなった私は、段々と江戸川乱歩のような日常と異世界の境目が曖昧でわかりづらい作品に惹かれるようになってしまった。
いきなりブラックホールみたいなものが現れ飛ばされて異世界に行くよりも、普通に生活している中で「あれ?なんか変」というちょっとした違和感がある方が、リアルでゾクッとする。

最近だと、「イキウメ」という劇団の作品にどハマりしている。前川知大さんという劇作家さんが演出も脚本も手掛けており、すべてのお話に共通して曖昧で妖艶な日常と異世界との"境界"がある。
『関数ドミノ』や『散歩する侵略者』『太陽』など、映画化された作品もあるので、ここで密かに激推ししておこう。。

また、少し視野を広げてみると、物語の世界だけでなく、絵画や音楽の世界でも、同じように"境界"は存在することに気付く。
例えば、ピカソがキュービズムを追求したのも、見方によっては、日常を写実的に描いていたものと主観的な狂った見方との境界を描き、魅力的な絵を生み出そうとしたと考えられる。

どの時代の芸術も、気を抜くと不思議な世界に連れていかれそうな、日常と非日常の境目を純粋かつ巧みに表現しているものが好まれている気がする。


日々を生きる中で、少しだけ"境界"を意識してみたら、きっと、少し怖いけどワクワクする感覚になれるはず。
ただ、あまり空想しすぎると、会議の内容を聞き逃すので要注意。

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