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摂津国衆・塩川氏の誤解を解く 第31回の3 “岸和田城から ? 来た御客人”

(上画像は「近世岸和田城 二の丸」を北東から見たもの。「戦国期の岸和田城 主郭」は、あるいはこのエリアだった可能性が指摘されている。)

毎度御無沙汰致しております。あっという間に今年も終わりですね。

さて今回もまた、未だに「予告編」の続きばかりを書いていて「本編」に達しておらず、誠に申し訳ありません。「例の書状」の翻刻公開に向けた手続き等は、目下着実に前進しておりますので、今しばらくご堪忍のほどをお願い申し上げます。

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なお先月末、谷口克広氏の訃報に接しました。

大変遅れ馳せながら、ご冥福をお祈り申し上げます。


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獅子山城に御成した貴人

さて、永禄十一年(1568)の四月~八月のある日、

「とある "高位の人物" (出家)」

が塩川長満の獅子山城(いわゆる"山下城")を訪問しました。

それが果たして「誰」であるかは、最近の一連の「予告編」をお読みいただいていれば、あるいはお察しかと存じます。

なおこれまで塩川氏の地元を訪問した「歴史上の人物」と言えば、

宗祇(塩川秀満、種満時代に「新田城」(推定)に招かれて)、細川晴元(「江口の戦い」前に国満の獅子山城に一ヶ月逗留)、三好政長(やはり「江口」で戦死する前に逗留)、摂津晴門 with 足利義輝の娘(「永禄の変」直後に娘を救出して国満に預ける。娘は一条房家の孫でもあり、そのまま長満の本妻となる。以上「高代寺日記」のみに記されている事象ながら目下「反証」は無い)、織田信長(塩川領内の鷹狩、視察として)、織田信忠?(天正七年四月二十八日晩に城に一泊した可能性あり)、森成利(乱。信忠と長満の娘との婚礼祝金?を持参。彼の「初見記事」でもある)、山名禅高(豊国、元因幡守護で鳥取城主。天正十 ? ~十四年に塩川家臣「多田元朝」邸(おそらく山下)に滞在か。なお「本能寺の変」の一ヶ月後の天正十年七月朔日に「里村紹巴」一門を招いて連歌会を主宰している(開催地は不明)。)

等を紹介してきました。

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そうだ、「保の谷」へ行こう ! 

余談ながらもう一人重要人物が…。「高代寺日記」大永七年(1527)七月条に「将軍 足利義晴」及び、その随伴者が、丹波において「当一族」(後述の「塩川孫太郎」か。なお塩川国満がまだ「獅子山城」に移転するずっと前)に出迎えられて、「高代寺山」西南麓の「能勢郡 保の谷村」(現 豊能町)に避難したという、驚くべき記事があるのです。

なおこれを「大永七年」そのままで解釈すると、史実的には絶対に成立し得ない話なので、その前後の記述も合わせて「捏造記事」にしか見えず、おそらくこの一連のクダリが「高代寺日記」自体への「信頼性」を相当下げているとさえ思われます。しかしながら、もし江戸時代前期の日記編者が、この前年度である「大永六年十一月~十二月に起こった事象」を誤って七年に挿入、前後の「辻褄を合わせて歴史叙述」(要するにパズルの組み立てを誤った)した、と解釈すれば、この「足利義晴 " 保の谷 " 逗留」もまた、「史実である可能性」が一応は残されています。

その「前年度の事象」とは、政権側の「細川高国」に反旗を翻した 丹波八上城の「波多野元清」と 神尾山城の「柳本賢治」兄弟に対し、幕府が討伐軍を差し向けたというものです。しかし結局幕府方が惨敗し、それどころか幕府方の「池田弾正忠」までもが「波多野方」に寝返って退路をふさいだので、幕府方の「瓦林氏」「塩川孫太郎」らが一旦(丹波~北摂山中辺りに?)閉じ込められ、最終的に西側の有馬郡に退路を見出だして難を逃れたというものです(「細川両家記」など)。

ここで重要な点は、この「丹波討伐」のさなか「将軍 足利義晴」が「実際、何処に居たのか」が不鮮明であることです。「御湯殿の上日記」によると、あたかも「京に居た」かのように内裏に「献上」を二度ばかりしていますが、「アリバイ工作」っぽい気がしないでもありません…。

どうも「足利義晴」という人は、翌年の「桂川の戦い」に見られるように「少人数の随伴者を率いて密かに戦争を観戦する」(二水記)パターンが有りそうなので、或いは「丹波討伐」においても「それ」をやっていた可能性も考えられるわけです。

そして幕府軍が惨敗して「丹波勢と池田勢による南北間の挟み撃ち」で進退に窮し、「北摂の高代寺山中 " 保の谷村 " に避難した」と解釈すれば、これは地理的、状況的にもなかなか「理」にかなっているのです。

保の谷道標2

上画像 : 一庫(ひとくら)ダム湖脇の道路標識。"丹波を背 "にして 北から撮影したもの。

というわけで、目下この「丹波攻め」時における「足利義晴」や、「高代寺日記」に具体的に記されている随伴者(奉公衆とおぼしき「能勢弥太郎」(元頼)、「西郡定順」、「小林(小)五郎」(国家)、奉行衆とおぼしき「飯尾彦左衛門」等々、結構"信憑性"を感じさせる名前が列挙されています ! )の足取りを追っていますが、管見ながら未だ「足利義晴が京に居た」という確実な「アリバイ」に遭遇しておらず、この " 保の谷事件 " への「反証」は成立していません。

また「保の谷への避難」は、塩川氏、もしくは上記の地元出身の奉公衆「能勢弥太郎」あたりが提言したかと思われます。

保の谷1963ステレオ

上画像(クリックで拡大) : 昭和38年の「保ノ谷」集落。但し、地元には「将軍が逗留した云々」の伝承は無い模様。

保の谷ズムアイキャッチ

なお、この時の随伴者の一人に「伊勢貞孝」(「政所頭人」を継ぐ九年前にあたる)が記されています。余談ながら、折しも「伊勢貞孝」は、今月初頭に出版された 木下昌規氏の「足利義輝と三好一族」(戎光祥)においても大きく扱われており、"ごく一部界隈"において今や「時の人」(汗)となっています。なお同書において「高代寺日記」はやはり全面的にスルーされていますけれど…。

(余談ついでながら、設楽薫氏による論考「将軍足利義晴の嗣立と大館常興の登場」(2000)においては、誕生直後の義晴が塩川種満らの手によって播磨(赤松氏)に送られたという「高代寺日記」の記事が、一応 藤原正義氏の「宗祇序説」の引用というかたちで「紹介」されています。)

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獅子山城に御成した貴人(続き)

さて、永禄十一年四月~八月のある日に塩川の城へ「御成」したという「人物」の話に戻りましょう。

彼は官途、位階的には上に列挙した「誰よりも上」でした。

そう ! 塩川氏の地元を訪れた「歴史上の著名人」がまた一人増えたのです ‼ 。

ともあれ、永禄十一年の春~夏、塩川長満は「表向き」は「将軍 足利義栄」を擁する「三好三人衆」政権に服していました。あくまで「表向き」ですが…。

しかしながら、このタイミングで獅子山城を訪れたその「高位の人物」は、なんと既に「反三好三人衆」の旗色を明らかにしていたのです ! 。なお私はこの時点における「人物」の「居住地」がいったい何処であったのか?について、色々検討してみましたが、「もはや"岸和田城"しかない」という結論に至っております(冒頭、及び下画像参照)。参考までに塩川長満は、この「御成」の直後にその人物に宛てた書状の中で「和泉国」の事を「御国」と記しています。

岸和田城東大手ズム本文

そして、今回の塩川訪城の「斡旋、仲介」をした人物は、長満同様「表向きは三好三人衆方」であった「伊丹忠親」でした。長満と忠親は共に二年前に「反三好三人衆」である「松永久秀方」として一度挙兵していますし(永禄九年記)、その軍事行動は近年、臼井進氏や村井祐樹氏等の諸研究により明らかになった「足利義秋」を擁する「織田信長」による「第一次上洛計画」(未遂)とも連動したもの、とみられています。

そして「人物」の「岸和田城」から「獅子山城」への移動経路についてですが、仮に陸路ですと、三好三人衆方の息のかかった「堺」等を経由することになり、これは極めて危険と判断されます。よって、「人物」はおそらく「岸和田」の湊から隠密に船で一直線に「尼崎」周辺まで海上移動し、「伊丹城」を経由して塩川長満の城まで来たのだろう、と私は想定しています。

訂正岸和田地蔵浜より獅子山城220118

上画像 (クリックで拡大) : 岸和田 地蔵浜沖の埋め立て地から、川西盆地方向をのぞむ。対岸の海岸線が全く見えておらず、" 地球の丸さ "を感じさせる写真でもあります。

(2022.01.02 訂正追記) 初回アップでは「高代寺山」等の比定を誤っていました。なお「深山」「妙見山」はそれぞれ画面の左右外側で見えず、「半国山」(高代寺山の背後)は雪雲で隠れています。また「尼崎」「伊丹」「池田」の旧市街域も、画像の「右外側」に切れています。

(2022.01.19 追加訂正)「獅子山城」の主郭(古城山山頂部)は、黄色いマークの位置の辺りですが、撮影位置からは、川西市と宝塚市の境目にある「釣鐘山」(205m)の背後に隠れて見えない事が判明しました。画像の一部と共に、謹んで一部訂正申し上げます。

因みに4~5年前に、東谷ズム版の塩ゴカ(連載第7回)において、獅子山城の「主郭南肩の樹木の隙間」(180m)から、かろうじて「岸和田方面の海岸線」が視認出来る旨をご紹介しました(下図)が、これも正確には「泉大津市の海岸線」及び「岸和田市~貝塚市内陸部」(春木~久米田寺、水間)に訂正申し上げます(上図左)。

(なお、山下で無線をやられている方が「岸和田から飛来する電波は、何故か感度が極めて良好だった」と語っておられた情報は生きています。)

改7回専用アイキャッチ兼挿図 (1)

よって、上右図も訂正対象です。但し(瓦片や"ぐり石"の散布域から)、主郭南端には少なくとも元亀~天正初頭には「天守」があったと推定され、永禄十一年段階でも、何らかの二階建以上の建築物くらいはあったでしょう。

となれば、標高190m~200mからの視線も見込まれ、「岸和田城」付近まで「可視範囲」が広がるかもしれません。

(上図左は「山下町から古城山 主郭」へのヴィスタ(見通し)を再現したもの。)

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さて、獅子山城 山頂主郭の塩川屋敷に " 御成 " したその「人物」に対して、塩川国満は

「お久しぶりでございます…」

と、下座(南)から33年ぶりの邂逅を慶び、現当主 長満が、

「御国「和泉 岸和田」は、あの海岸線右端辺りでございましょう」

と、南窓の外を指し示すと、「人物」も窓際に移って

「ほう、はるばると来たが、ここから泉州が見えるのか…」

と、しばし見入る…なんて状況があったのかもしれませんね。(22.01.19改訂。この妄想シーンは「銅像」にしてみたい…)

なお、永禄十一年段階の「獅子山之城」は、重臣達こそ「山上」(城内)の屋敷に居住していましたが、「石垣」も「総瓦葺建物」も無く(主要建物に「棟瓦」があった可能性はあります)、いわゆる「中世の山城」であったと思われます。また「山下町」が成立する6~9年前で「山下」の地名すらなく、「笹部村の耕地」であったと思われますが、勧請された氏神「平野明神」の境内で"定期市"くらいはあった、と想定しています。

ともあれ、それでは皆様、どうか良いお年をお迎え下さい。

(2021.12.29  文責 : 中島康隆)

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