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そこにある影と色、写真を読むより音楽を聴くことについて

バルトによれば「ストゥディウム」は一般的、科学的関心を意味し、文化的にコード化された写真受容。それに対して「プンクトゥム」は一般的な概念の体系を揺さぶり、それを破壊しにやってくるものでコード化不可能な細部を発見してしまうような経験である。前者は「好き/嫌い」の次元に、後者は「愛する」の次元に属するという。バルトは『明るい部屋』以前から写真が「コードなきメッセージ」であることを主張し、写真の言表しがたい領域を「第三の意味」や「鈍い意味」、「意味の過剰」といった言葉で説明してきた。

どうしても写り込んでしまうもの。それらは後に撮影者を、初期に鑑賞者を揺さぶる。そういうわけで、そういう瞬間が好きなわけで、僕は写真を続けている。最近そのように思うようになった。

音楽を12歳頃からずっとやってきた。最初に買ったシングルは大事マンブラザーズバンドを6歳の頃、手にしたアルバムは7歳の頃、米米CLUBのベスト盤だった。ひらがらなもカタカナもわからない頃から、僕はいとこの兄貴が持ってたイカしたソニーのウォークマンに惹かれて、そのメカを所有する理由として音楽を求めた。そういう意味では、音楽は何でも良かったのかもしれない。早熟すぎたせいか、周りからは煙たがられ、生意気だと言われた。クソガキは音楽を聴いて、歌を歌い、地域ののど自慢大会で優勝するという快挙を6歳で成し遂げ、人生のピークは終わった。かのように思えた。

人生の15年程を音楽に費やしたおかげで、音楽のリテラシーは随分鍛えられた。一度聞けば正しいピッチで歌うことができるし、ギターやベースのルート音くらいは容易にコピーすることができる。どのような音楽でも。

しかし写真はそういうわけにはいかない。

10年くらい続けてきたけど、写真はバルト的に「愛する」の次元に属するので、いくらコンテクストを共有しようと、リテラシーを高めようとコード化不可能な細部がそれらをあっけなく裏切ってくる。

その時、確かに木の陰を撮った気がした。

だけど写っていたものは新聞、英字新聞と、イエロー。

どこにも行けない、けれど少し愛せそうな春の朝の気配だった。


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