国語力

国語力

国語力、と言う言葉がある。

一般的に国語力とは、読む事、書く事、そして論理的思考の事を指している。

漢字や熟語が扱える事は勿論、論理で裏付けされた文章を読み解く事(=読解力)、つまり論理的思考が出来ると言う事である。


教科としての国語の得意不得意は大雑把に言ってこの能力の差であり、この能力の差は今後国語だけに留まらず、数学の文章題、理科社会における記述問題、はたまた社会に出てからのパフォーマンス力、相手との交渉力、選択に対する決断力、引いては人生においての舵取りの能力と結びついていく。



どの分野の勉強もすこぶる大切だと私は思っているが、事国語に関しては私としてはかなり重きを置いている教科なのだ。



しかし、常々そう思っている親の娘であるにも関わらず、娘は国語が苦手だ。文章やその行間から相手の感情、心情、意図や思惑を読み取る事が出来ない。

幼い頃から口達者で常に主導権を握っていなければ気が済まなかった私とは正反対に、娘は常に誰かに付き従いたがる。人の影に隠れ矢面に立つ機会が少ないまま成長した娘は、当然誰かを説得する機会も、積極的に議論を交わす機会も当時の私に比べて少なかった。結果的に、私より遥かに言葉を操る経験が少ないのだ。

国語に物足りなさを覚えるのも必然だろう。


けれど、悲しきかな。それならば他の教科がずば抜けて出来るというわけでもないので、国語だけにかかりきりになる事も出来ない。逆に数学や英語などはわからないとすぐに点数となって現れてしまうので、1日の遅れでどんどん取り残されて行ってしまう。そうなるとそちらの教科に比重を傾けねばならず、結果的に国語を勉強する機会が益々なくなってしまうのだ。

何とも因果な話である。




私はこの窮状を娘の通う塾の先生に相談し、打開策を講じた。



それが、

「人との対話を活用して論理的思考を深める」

と言う事だった。



論理的思考は「国語の文章題を解く」と言う事に固執しなくても身に付ける方法は色々とある。国語について机に向かう時間が取れないと言うのであれば、代わりに他の時間を利用すれば良いのである。

その方法の1つとして、日常会話を使う事にしたのだ。




例えばこんな会話がある。


私「ねぇ、体育はいつからプールになる? 水着はいつまでに出しておけばいいかわからないから気になっているんだよ」

娘「あー、まだ大丈夫」



日常会話では、私と娘のこんな会話は珍しくない。

「会話」としては、特段これでいけないと言う事もないかもしれない。


しかし、実はこれでは娘は聞かれている事に答えてはいないのだ。

私は体育の授業がいつからプールに切り替わるか知りたいのであり、今水着の用意がなくて大丈夫かどうかを聞いているわけではないのからだ。



論理的思考を深める会話としては、我が家はこのような時、娘に「何について聞かれているのか」「どう返すのがベストだったのか」と言う事を、1つずつ一緒に考えながら会話を進めていった。時間も手間もかかるが、これも1つのコミュニケーションだと思えば然程苦にはならなかった。ご飯を食べている時、お風呂に入っている時、出掛けている時の移動中などなど。

私が娘と日常的に会話をする時間は膨大にあった。

勉強する時間は取れなくても、そのような時間で1つ1つ確認していく事が出来たのは大きな収穫だったと言えるだろう。




娘の回答の仕方が劇的に変わる事はついになかったが、ただこれだけの事で、短期間に娘の国語力はがくんと上がった。

気を付けた事はこれのみで、結局国語の勉強は学校と塾の授業でしか行えなかった。

それにも関わらず国語の読解が以前と比べると格段に理解出来るようになったのだ。これは驚くべきことだった。




しかしよくよく考えてみると、これはごく自然な事なのかもしれない。

男子より女子、特にお喋りが好きな子の方が国語の成績が良いと言うのは何となく見聞きした事があるだろう。それは今回のような訓練が無意識の内に論理的思考の練習になっていると言う事なのだろうと思った。



話を元に戻すが、勉強の1つの強化としての枠組みを超えて「国語」と言うのは重要なキーポイントであると私は思っている。そして同時に、机上で教科書や参考書を開いて勉強する事に抵抗感を持つ子も少なくはない。


しかし、この方法を使えば、これら2つの問題を解決してくれるのだ。

勉強は机に向かってやるものを指しがちだが、原点に立ち返れば、日々日常過ごす事そのものが「勉強」なのだと言う事ではないか。


国語力とは、人生を生き抜く力でもある。

ぜひ色んな角度からこの国語力をつけて貰いたいと思っている。

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