わたしの教室の信念

先日、ある生徒からこんな質問を受けました。

「○○(とある民俗芸能)の講習を受けてきました。
そのときに、講師の方から、高い音の出し方と、低い音の出し方と、
口の形は常に同じでよいという指導を受けましたが、本当でしょうか?」

この質問を聞いて、わたしは正直、非常に残念でした。

それは、質問者がわたしのいままでのレッスンの内容を
全然理解していないということがわかったからです。

笛を奏する際の唇の形=アンブシュアは、
下顎の柔軟性に深く関わっています。
どの管楽器奏者に尋ねても同じ答えが返ってくるでしょう。
上顎は頭蓋骨に組み込まれていて、動かしようがなく、
唯一動かせるのは下顎だけなのですから。

様々な音域を柔軟に行き来し、多様な音色を駆使できるようになるのは、
この下顎の柔軟性にかかってくるといっても過言でない、ということを
さんざん言ってきました。
教則本でも大切なこと、として書いています。

それが、違う音域でも、たとえ笛にとって困難な最高音を出すときでも、
アンブシュアの形はただひとつでよい、とは一体どういうことでしょう。

民俗芸能の世界では、そこに携わる吹き手は一生、その民俗芸能一筋、という場合が多いです。
他のジャンルの音楽からのオファーを受けることもありません。
また、独立した音楽家として、コンサートを開催するということもほとんど、ありません。

そして、教わるのはプロからではなく、地元の先輩方からです。
ある意味、独学者から独学で学ぶというスタイルといえるでしょう。

そういった場合、笛の表現方法や音色はある限定されたもので十分で、
むしろ、多様性がない方がいいとすらいえます。
フルートのような吹き方だと、気持ち悪くさえなります。
洗練されると、お囃子特有の土俗さが薄まり、お囃子っぽくなくなってしまうからです。

その民俗芸能の講師の指導内容と、
アートとして独立性をもった音楽表現のなかで、
篠笛を吹いているわたしのような音楽家の指導内容とが同じであるわけがありません。
わたしはクラシックのフルートを学んできた経緯があり、
先人たちが研究を重ねた結果の果実である、メソードを学びました。

フルートだけでも複数の非常に優れたプロの先生方に師事しましたが、
どの先生も、表現方法が違うことはあっても、
奏法上のメソードに関して、本質的に違うことをおっしゃることは一度もありませんでした。
本質は共通していたのです。

その○○の芸能の講師が間違っているとは言いません。
メソードの多くを知らないのです。

もし、違うというなら、その講師の方は多様性のある吹き方ができるでしょうか?

アンブシュアを固定してしまっている状態では、まずできません。
多様性を知っている吹き手と、まだひとつの価値しか知らない吹き手と、
あなただったらどちらの指導を受け入れたいですか?

それは、あなたがどういう笛を吹きたいと思っているかによります。
決まったジャンルの笛に狙いを定めているとしたら、
そこの先輩に習うのがよいでしょう。
指導法はたいしてない(カルキュラムだってない)と思いますが、
そのジャンルで、そこが本物であるのは間違いありません。
そこで価値づけられている音色を全身に浴びながら稽古するのは、
理にかなっています。

でも、注意してほしいのは。
習っている生徒が吹けるようになっている教室ないし、社中の門を叩いてくださいね。

だれも吹けるようになっていないようなところの門を叩いても、
得たい結果は得られないでしょう。

未熟な生徒を指導する際、わたしは本質的なメソードを重要視しています。
それこそが上位の知識であり、技術ですので、
それらを知り、学ぶことでどのジャンルへも自由にいけるからです。

今回は自分の伝え方の力不足を見せつけられることになりました。
音楽はもちろんテクニックではありません。
でも、テクニックなしに伝えられるような、そんな甘いものでもありません。
楽器ができるという喜びを本当に手にしてもらえるように、
これからも本質的なレッスンをしていきたいと思います。


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