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完成品であるラーメンに対し胡椒を振りかける。これは冒涜なのかアートなのか。決死の覚悟でその真髄に迫ってみる。『デタラメだもの』

食というのは、とにかく謎めいたものだ。外食などをしていて、テーブルの端に置かれた調味料の類を眺めていると、殊更にそう思う。店によっては調味料の瓶やら缶やらがズラリとならび、これは胡椒かしらこれは山椒かしらなどと呟き、オーダーした料理が運ばれてくるまでのちょっとした時間潰しができるほどのラインアップが取り揃えられているところもある。

そこで思うわけだ。調味料ってやつは、味を変えてしまう代物よね。そんな危険なアイテムを、素人が自由に操れるような場所に置いてしまっていいものかね、店主。そう思うわけ。

もちろん食というのはクセの強いもので、各各個々人、食に対してはさまざまな持論があるだろうから、主義主張も彩り多く存在するだろう。その中で僕はいつも思うわけです。テーブルに運ばれてくる料理の全ては、完成品として提供されているよね、ということ。

要するに、拘り抜かれた逸品というものがキッチンで調理され、それが客前に提供される。すなわちこれ、完成品。ラーメン屋の場合だったら、例えば脱サラした店主が長年研究し尽くし、味を極めに極め抜いた自信作。ある程度安定していたであろうサラリーマン道に見切りをつけ、両親や奥さんからは反対され、決死の覚悟でそれを振り切り、憧れであるラーメン道に身を置く決意をした店主。

並々ならぬ努力があっただろう。涙する日もあっただろう。一向に辿り着けぬ極上の味に焦りや不安も覚えただろう。そんな苦しみの日々を耐え抜き、ようやく辿り着いた理想の味。すなわちこれ、完成品。どのラーメン店にも負けない自信を持って客前に提供する。それを提供する際の気分たるや、凄まじく清々しいものだろう。

ところがだ。客に与えられた自由。それは、胡椒などの調味料を自由に振りかけられる自由。店主の血と汗と涙の結晶であるスープに、胡椒をサッササササッ。味には好みというものがあるらしいが、故に客は調味料を目分量で振りかける。完成された逸品に対して、である。

たとえラーメン店といえど、もとは開業して運営がスタートしているもの。店の発祥が屋台というところも少なくない。ということは大将たちは立派な経営者なわけである。飲食店を経営しているんだもんね。そしてそれを流行らせている。それだけの商才があるとういわけだ。

もし、胡椒やらの調味料を振りかけたほうがより美味しいラーメンに仕上がるんだったら、当初より胡椒を振りかけた上で客前に提供しているはず。要するに、素人である客が目分量で振りかけるリスクを撤廃し、当初より胡椒マシマシの味付けにしていたはずである。なのに、それをしなかった。料理が完成品として提供されていることを考えると、素人が目分量で調味料を振りかけるという行為は、完成品の品質を下げて行く行為に感じてならない。

仮に素人が調味料を振りかけるという行為でその逸品がさらに美味しくなるようだったら、その素人は新たなラーメン店をオープンさせられるやもしれない。凄腕の料理職人かもしれない。時間をかけて辿り着いた店主のスープを、いとも容易く超越できるほどの味を、調味料を用いてやってのけられる才覚、味覚があるんだもの。

そして、さらに強者もいるんだな。それは、スープをひと口も飲まずして、要するにまだ割り箸すらも割る前から胡椒やらの調味料を振りかける猛者。彼ら彼女らに関しては、味覚の天才としか言いようがない。だって、スープの味を確かめる前から、胡椒やらの調味料を加えるべきだと判断できるわけだから。剣道などの武術では、それを極めた場合、戦わずして、お互いに構えた瞬間にどちらが強いか察しがつくというが、まさにあの領域だ。

店主が家族の反対を押しのけて挑んだラーメン道。半べそかきながら理想の味に辿り着き、開業資金を準備するために借金まで背負ってオープンさせた涙なしじゃ語れぬラーメン店。その物語を知ってか知らずか、味見する前に調味料の類を振りかける。

もし逆の立場だったらどうだろう。苦労に苦労を重ね、ようやくオープンを迎えた初日。店にとって初めての客が来る。めちゃめちゃ懇切丁寧に調理し盛り付ける。最高のものを拵える。客前に出すラーメンの器を握る手は、きっと感動で震えているだろう。さぁ、最高の味を堪能してくれ。俺の自信作で唸ってくれ叫んでくれ吠えてくれ。

そう思った刹那、割り箸を割る前から胡椒をサッササササッ。このスープに込めた俺の情熱、熱狂はどこへ。俺ならその場で胡椒の缶を奪い取り、遥か地平線の向こう側にレーザービーム。強肩唸らせて放り投げるやもしれない。まぁ、だったらハナから調味料を置くなっつう話だけどね。

この現象をちょっと置き換えて話してみたい。

アートを楽しむためにギャラリーを訪れるとしよう。素晴らしい絵画の作品の数々を堪能する。その中で気に入った絵画を購入する。自宅にそれを持ち帰り、「もうちょっと赤色が強調されてるほうが好みなんだよね」と言って、その刹那、絵の具を取り出し赤色を上塗りする行為。そんなこと、やらないよね。やらないよね。それって、完成品だからだよね。

ミュージシャンの音源を購入し自宅で聴きながら、「ここにはアコースティックギターの音色があったほうが好みなんだよね」と言って、その刹那、アコギを取り出し、プロの音源の上から重ね録りなんて、まさかしないよね。それって、完成品だからだよね。

画家はプロ。ミュージシャンもプロ。その論理で言わせていただくと、ラーメン店の店主もプロなわけだ。そして、その誰も彼もが完成品を消費者に提供している。そして、そのいずれのジャンルにだって各各個々人の好みというのは存在する。油絵の中にも好みのタッチというものはあるだろうし、ジャズの演奏にしても好みはあるはずだ。でも、提供されたそれを完成品として甘んじて受け入れるじゃあないの。だったらなぜ、食だけは各各個々人が素人の目分量で完成品を冒涜するのだろう。これは人類の不思議と言っても過言ではない。考えれば考えるほど夜も眠れない。朝も起きられない。客先にも馳せ参じられない。

ただ、こんな風にも思う。

インターネットのWebサイトの色味をとことん拘って制作したり、撮影する写真の色味にとことん拘ったとしても、最終的には消費者が使用するモニタの精度によって再現性はバラバラ。創り手の意図がしっかりと再現できるような高価格帯のモニタを使用している人もいれば、妙な色味に映ってしまうチープなモニタを使用している人もいる。

音楽だってそうだ。拘りの音質でレコーディングするため、アメリカは西海岸のレコーディングスタジオに籠もって、一流のエンジニアに囲まれて音源を作ったとしても、100円均一で購入したイヤホンでそれを聴かれてしまっては、西海岸の香りは絶対に伝わらない。

そう思うとだ、我々表現者が提供でき得る価値というものは、作品の99%までということ。残りの1%は、それを楽しむ消費者が、どうやって楽しむかを決める。その自由こそが消費の醍醐味であり、消費者を惹きつけてやまない魅力とも言える。

だからもっと、手にした絵画には絵の具を上塗りしたり、購入した音源にはアコースティックギターの音色を重ね録りしたりして楽しんだほうがいいよね。アートだからって遠慮はいらないよ。胡椒を振りかける感覚で、絵の具もギターのストロークも振っちゃえばいいよ。

なんて言うと、芸術を愛してやまない人から「何を言うとるんじゃい、ボケが!」と怒られてしまいそうなので、麺が伸びないうちに目の前のラーメンを平らげてしまいたいと、そう思う秋の気配を感じる夜。

デタラメだもの。

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