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まさかこんな風にして自分の成長を感じるとは?「下ネタに頼る」という意味を深く理解した明朝の瞬間。

明朝に目が覚めて、ふと、「あれぇ。そう言えば下ネタって言わなくなったなぁ」と急に考えた。急に思考にポンッとそれが入ってきた。特に、そう考えさせられる出来事なぞ微塵もなかったのだけれど、急にそんな風に考えた。

よく話芸の世界では「下ネタに頼る」などと言われることがある。それはどういう意味かというと、下ネタで笑いを取るのが比較的楽だから。ほとんどの場合、男性をターゲットにした会話において。どういう原理が働いているかを深く紐解いてみる。

もともと世に存在する全ての男性は、助平なことを考えている。基本的には、四六時中考えている。ただし、四六時中いつだって助平なことを実行でき得る環境下で、我々人類は生きていない。

これが一般的な動物やら昆虫やらの類だった場合、四六時中いつ何時に助平なことを実行していたとしても問題はない。ごく稀に男女のセッションの声が大き過ぎることで、人間から「うるさいなぁ!」などと路地に向かい叫ばれ、行為を中断せざるを得ない時もある。が、それを除けば、基本的には四六時中において、助平なことを実行するのは可能。

が、人間においてはこれをやっちゃうとアウト。男女のいずれかが助平な行為を拒んだ時点で交渉は決裂するし、仮に双方が合意だったとしても、ショッピングモールの人混みの中で、急に二人の助平魂に火がついたからといって、助平な行為を実行してしまうと、罪に問われてしまう。

そういった諸所の制約により、特に男性の場合、四六時中いつ何時でも助平なことを考えているにも関わらず、助平な行為を実行することを抑圧されている状態にある、と言える。

だからまず、下ネタという存在は、その抑圧をわずかばかり解放してくれるツールというわけだ。

そしてさらに、世の中には助平な行為が収録された動画作品が無数にある。あれらは基本的に、企画が練られ、敏腕のカメラマンが撮影し、関係各位をまとめ上げる、監督なるものが当然のように存在する。

が一方、一般の男性の脳内で繰り広げられる助平な思考においては、監督なるものは存在しない。すなわち、その男性の妄想力、企画力、脚本力などが試されるわけであり、そのスキルによっては、とても陳腐な作品が脳内で再生されるということだ。

となると、妄想力、企画力、脚本力に長けた下ネタを提供してあげることは、再生装置すら異なるものの、高品質な動画作品を提供しているに他ならない。おもしろ可笑しく下ネタを言ってあげれば、愉快な作品が脳内で再生されることになり、笑いも起きる。

これらの点から、常日頃、一般男性からの下ネタの需要は多い、ということが言えるし、供給側に回れば、周囲から重宝されるということになる。

話をかなり遡る。

その昔、僕が今よりはるか若年だった頃。「自分って、他人と比べて、殊更に個性が無ぇなぁ」などと嘯くような、青臭く若かりし頃。世の中には、生きているだけで注目を集めるような奴や、やたらめったら友達が多い奴。つまるところ、<華のある奴>って周囲にいるじゃありませんか。

自分も例に漏れず、ひとしきりそういった類の連中に嫉妬し、僻み、妬み、劣等感を炸裂させ、「クソがッ!」などとほざく毎日を過ごしていたわけです。

そんなある日、ふと思考した。「下ネタで天下統一できないものか?」と。

今でもこんな風にして文章を執筆したりを好む性分。想像やら妄想やらというのは、得意分野なわけである。男性の期待をはるかに凌ぐ高品質な作品を、相手の脳内にプレゼントするなんて容易い。「そうだ、下ネタ、言おう」ということになり、その日から、会話のほぼ全てを下ネタで埋め尽くしてみた。

どうなったかと言いますと、周囲の男性からの支持を多く集めるようになったのです。某所で宴席が催されればお呼びがかかり、「ほれ、得意の下ネタを聴衆に披露してやったりぃな」と囃され、得意げに下ネタを語る。そんな日々が連日連夜、繰り広げられたわけ。

ところが、下ネタに頼り有頂天になっている僕を突き落とすような出来事が、大阪は八尾で起こったの。しょぼん。

当時、ロックやらロックンロールやらの音楽を鳴らすアンダーグランドなバーがあったのですが、そこでワンナイト、テーブルや椅子を取っ払い、ダンスホールのような空間にして、ワイワイやろうじゃないの、という類のイベントが催された。

その頃、音楽を嗜んでいた自分は音楽を愛好する集団からお呼びがかかり、そこへ参加することに。空間を満たす過激な音楽に酔いながら、お得意の下ネタを披露しゴキゲンにやっていると、どうやらその日は、音楽を愛好する集団の中でも一目置かれている人物も、そのイベントに訪れるということを来客の誰かから聞きつけた。

音楽を愛好する集団に身を置いていた自分は、その人物の噂も耳にしていたし、それはそれは世界観を持った御方であるということも知っていた。ただ、その御方の来訪を聞きつけたときには、「へぇー、そうなんだ」くらいにしか思っていなかった。

が、いざその御方が店にやってくると一瞬で感じた。あっ。空気が変わった、と。

ハンチングを深々と被り、オールディーズな服装に身を包み、身体のいずれの部位を切り落としたとしても、「世界観」という言葉が溢れてきそうな御方。

僕より2~3歳ほど年齢が上のその御方が店に来られてからも、僕のひょうきんっぷりは変わらず、平常時のおふざけを披露していたところ、急にその御方が僕のそばに近づいてきたのん。ほんで、僕の耳元でこう囁いたのん。

「下ネタに頼って、ずっとこの先、生きていけると思うなよ」

なぜその御方が僕にそんなことを言ってのけたのかは不明。今みたいに性格がまん丸になっていなかった当時の僕は、「なんじゃこいつ!?」と半ば不機嫌になるも、自分に課せられたキャラクターというものを演じねばならない責任感から、その後も下ネタを披露し続けた。しかしその実、心の中の動揺は隠しきれなかったのん。

その御方とはそれ以来、一度たりとも会っていない。そして、その後の人生においても自分は、下ネタに頼り、しかし余りある周囲の評価を頂き、半ば中毒のような状態で、下ネタを語り続けたわけである。

で、つい先ほど、本日の明朝、目を覚ますや否や、ここ数年の自分は、下ネタに頼っていないことを自覚した。しっかりとした話芸を披露しながら、周囲の評価を頂けるようになっている。プロレスで言うならば、覆面をし、凶器持参でリングインしていた自分を捨て、ストロングスタイルで、しっかり堅実にレスリングで勝負していることに気づいたわけだ。

下ネタを捨てたこんな自分でも、たまには宴席に呼ばれることもあるし、下ネタを捨てたこんな僕だけど、一席付き合ってくれないかい? と請えば、「がってん承知の助!」と、酒に付き合ってくれる後輩もいる。

これを成長と言わずして、何を成長と言ってのけるんだ世間。

そんな機会はもうやって来ないかもしれないが、ハンチングで世界観を持ったあの御方に、今後どこかでお会いすることがあれば胸を張って言いたい。
「今の僕は、下ネタに頼っていません! 聴衆が欲して欲してやまない高品質な助平作品を、聴衆の脳内にプレゼントするような愚行は、今や働いていません!」と。

今やあの御方も中年になられているので、もしかすると、世間一般並みに下ネタを欲する精神状態になっているかもしれない。そんな夜には少しだけ下ネタを解禁し、「世界観さん。相変わらず女性の支持を多く集められてはるんですか? もぉー、今宵もあなたの息子がジャンボ尾崎!」などと、当時のような調子で言ってあげたい。

ん? どこがおもしろいのん?

『デタラメだもの』

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