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ある夏の新人経理の一日

 夏は苦手だ。容赦なく照りつける陽射し、朝から晩まで大した変化も見せない気温、そして島国特有の湿度の高さによる蒸し暑さ。そのどれもが私を不快にさせる。
「暑いなぁ……。また三十五度超えかな」
わざわざスマートフォンで確認するまでもない、文字通りの猛暑日だ。時間も十四時過ぎと一日の中で暑さのピークに近い時間帯。本当ならこんなときに外に出たくなんかないんだけど……。

 つい三十分ほど前のこと。涼を求めて訪れた客たちで賑わっているフロアの裏手、店の事務室にこもっていつものように経理作業をしていた。開放感のある広々としたフロアに比べて多少窮屈さは感じてしまうが、その分冷房がよく利いて今の時期には非常に快適だ。外の暑さに辟易して、一生ここから出たくないとすら感じることもある。そこへ、唐突に事務室のドアが音を立てて開いた。
「るかこいる!? ちょっと頼みたいことあるっちゃけど!」
「みあち? どうしたのそんな大声出して」
飛び込むようにして入ってきたのは、湖南みあだった。声が大きいのはいつものことだけど、やけに慌てた様子だ。
「あんね、今日冷たいドリンクとかパフェのオーダーがエグくって! このままだといくつか材料がなくなっちゃいそうだから誰か買い出し行ってきてって、ねるちゃんが。でも今フロアもキッチンもみんな手が離せなくて。るかこお願いできん?!」
「え、私? 買い出しって、今から……?」
 思わず窓の外に目をやる。青い空、白い雲、道行く人が沸騰してゆで卵にでもなってしまいそうなほどの強い陽射し……。あぁ、今日も本当に良い天気だ。
「……いいよ、行ってくる。何買ってくれば良いのか教えてくれる?」
「ありがとう! るかこ愛してる!」
 人生、諦めも肝心だ。まぁ、店が回らないのでは仕方がないし、私しか動けないなら尚更だ。

 そうして、みあから渡された手書きのメモを片手に買い出しへ。メモには必要な商品の名前と共に、デフォルメされたみあの似顔絵(ヨロシク!とセリフ付き)が描かれていた。果物がいくつかとドリンク用のガムシロップに調味料など、買い物自体は然程時間はかからなかった。しかし、暑い。ただひたすらに暑い。買い物で両手が塞がるだろうと日傘を持たずに店を出たことをすぐに後悔した。上着のベストは早々に買い物袋に放り込んだが、黒いシャツが熱を溜め込むせいか、気休めにもならなかった。ひと昔の曲にもあったが、本当に溶けてしまいそうだ。今の自分はあんな可愛らしいシチュエーションではないけれど。
「これで全部買えたかな。あとは戻るだけなんだけど……」
 スマートフォンで地図を表示させる。そんなに時間はかかっていないかと思ったけど、それなりに店から離れた場所まで来てしまっていたようだ。急いで戻らなくてはと思いながらも、この距離をまた歩くかと思うと、その前に少しだけ小休止したい気もする。
 そんなことを考えていると、ふとどこかからチリン、と音がしたような気がした。鈴の音か、それとも風鈴だろうか。微かに耳に届いたその音の方へ視線を向けると、五十段ほどはあるだろうか、古い石の階段があった。両脇から長く伸びた木々に覆われていて、そこだけ日陰となってまるで別世界のように見える。見上げると、一番上に小さく鳥居が立っているのが見えた。ということは、神社でもあるのかな。こんなところで寄り道をしている場合ではないのけど、つい気になってしまう。休憩できるスペースもあるかもしれないし、少しだけ覗いてすぐに戻ろう。
 石造りの階段を一段ずつ登っていく。日陰になっていることもあるが、足元からも靴越しに涼しさが伝わってくる。少しずつ体の中の熱が取り除かれていくような、不思議な感覚。でも、不快ではない。

 石段を登り切ると、やはり神社だった。
 少し広めの公園くらいの敷地の境内を囲むように背の高い木が立ち並んでいて、不思議と暑さは感じられない。平日の昼間ということもあってか、参拝客は私しかいないようだ。それにしても
「静かだなぁ」
 頭上から降り注ぐようなセミの鳴き声は絶えず響いているけれど、周囲の車や街の環境音が無いせいだろうか、不思議と静けさを感じる。現代のように都市が発達するまでは、日本のどこでもこんな風だったのかもしれない。
 手水舎で手を清め、本殿を参拝する。特別信心深いわけではないけど、勝手に上がり込んでおいて挨拶もしないというのも神様に失礼なようで気が引けた。
 少しだけ、と思いながら境内を歩いていると、本殿の裏に白いうさぎの像を見つけた。神社にうさぎ、因幡の白兎かな。
「もしかして、あなたが呼んでくれたの?」
 うさぎ像の頭にそっと手を乗せながら、そう話しかけてみる。もしかしたら、ねるちゃんの親戚かご先祖かも。でもそれだと私が頭を撫でるなんて恐れ多いかな? そんなことを思いながら像へ向かって礼をして、その場を去ろうとしたとき、再びチリンと、さっきよりもはっきりと聞こえた。音のする方へ向かうと、境内の端、手水舎の奥が少し開けた一画になっている。近くの木に鈴がくくりつけられ、風に揺れていた。何故こんなところに、と少し不思議に感じたけど、涼やかな音色だ。
 その小さな広場の最奥には石造りの手すりがあり、眼下に街を一望できる高台のようになっていた。ちょうど先ほど登ってきた階段が下の方に見える。不思議とあまり疲れは感じなかったけど、思ったより高いところまで登ってきていたんだ。
「赤羽にもこんな場所があったんだ……」
 ザァ、と音を立てて樹木が揺れ、まるで体の中を通り抜けていくように吹く風を全身に感じる。胸元のリボンをほどき、そっと目を閉じてみる。薄らと汗ばんだ肌に風が心地良い。髪が乱れるのも構わず、あるがまま流れに身を任せるようにして、遠く広がる街の景色を眺めていた。

 暑さは苦手だし、自分には夏なんて似合わないと思っていた。でも今こうして、自分で望んだことではなかったとしても、真夏の空の下で過ごすこの時間が決して嫌ではなかった。この街に、あにまーれに来る前の私だったら、頼まれたってこんなことはしなかっただろう。そもそも頼んでくるような相手もいなかったけど。
 あにまーれで過ごすようになって、かつての自分だったらしなかったようなことばかり体験しているように思う。自分では苦手だと思っていたことでも、あの店の仲間たちが一緒だと、知らず知らずのうちに楽しんでしまっている自分がいた。たとえこれが仮初の時間だったとしても、今はこの瞬間が少しでも長く続いて欲しいと、心から思う。
 帰ろう。私を必要としてくれる人たちのもとへ。今の私がいるべき場所へ。

* * * * * *

「るかこごめんねぇ、こんな暑い中ひとりで買い出し行かせちゃって」
 店に戻った私に、そう言ってねるちゃんがアイスコーヒーのグラスを差し出してくれた。グラスの中で揺れる氷がカラカラと音を立て、受け取った私のまだ熱の抜け切らない指先に、すっとグラスの冷たさが染み込んでいく。さり気ないその気遣いが、どこか嬉しかった。
「いえ、そんな。私こそ思ったより時間がかかってしまってごめんなさい」
 手渡した買い物袋を受け取ると、ありがと、とすぐに袋の中の品をひとつずつ確認する。普段はスタッフや顔馴染みのお客さんたちに向けて砕けた態度を取ることも多い彼女だけど、仕事に対する真剣な姿勢を陰ながら尊敬していた。
「あれ、買い物ってこれで全部? ちょっと足りないよ?」
「え、本当ですか? ちゃんとリストは確認したつもりだったんですが」
 みあから渡された手書きのメモを取り出す。買い出しで寄った最後の店を出る前に、抜け漏れがないか繰り返し確かめた。買い漏らしはなかったはずなんだけど……
「んー、それちょっと見せてくれる?」
 そう言いながらこちらに手を向けたねるちゃんにメモを手渡すと、ふむふむと内容を改めている。すると
「あ、このメモ私がみあに伝えたのがいくつか抜けてるね。そもそもこれに書いてなかったんだ。というか、逆に何か余計なものも追加されてるんだけど、これ誰が書いたの?」
「え、そうなんですか!?」
 ほらこれ、とねるちゃんが指差したのは、海老とニンニク、オリーブオイルだった。確かに私が買ったものだけど、ドリンクやパフェの材料と頼まれはずのメモに、何故こんなものが書かれているか少し不思議ではあった。二人で小首を傾げていると、そこにみあが通りがかった。
「あ、るかこお帰り! 買い物終わったん?」
「あぁ、みあちただいま。うん、一応帰ってはきたんだけどね……」
 状況を説明しようとする私を素通りし、買い物袋を物色し始める。
「あーこれこれ! いやー、暑いとなんか逆に? 熱いもの食べたくなっちゃってさー。たまにはお店じゃなくて自分でアヒージョ作ってみようかなって思ってたら、ちょうどねるちゃんから買い出しのこと頼まれちゃって。ついでだしお願いしちゃおうかなーって書いたんやけど、ほんとありがとね!」
 無邪気に発せられた言葉に唖然とする。アヒージョ……? この真夏に……?
「ちょっとみあ、アヒージョはいいけど私の伝えたもの、ちゃんとるかこにお願いしたの? このメモ書いたのみあなんでしょ?」
 ほらー、とみあの目の前にメモを突きつけるねるちゃん。
「あれー? 言われたものちゃんと全部書いた気がするんですけど……。あっ」
 突然何かを察したように声を上げるみあ。あってなんだ、何をしたんだお前は。
「い、いやー、確かにねるちゃんに頼まれてメモ取りながら聞いてたんですけどぉ……。途中からアヒージョで頭がいっぱいになっちゃって、もしかしたら最後の方聞いてなかったかもなー、なんて……」
 あははーと目を泳がせながら口にするみあを前に、膝から崩れ落ちそうになるのを堪えるのがやっとだった。みんなのため、店のためとこの炎天下に奔走してきたが、この不思議生命体のお陰で無駄に歩かされていたらしい。いやいや、意味が分からない。
「バカー! 今すぐ足りないもの買っておいで!」
「えぇ!? だって忙しいからるかこに頼んだんじゃないですかー! 私だって行けませんよー!」
「さっきよりお客さん引いたから一人くらい抜けても回せるよ! いいからさっさと行ってこい!!」
 ごめんなさーい!と叫びながら走り去っていく愛すべき自分の同期の背を見送り、ぐったりと事務室の椅子に腰を下ろす。本当に、見ていて飽きない子だ。
 賑やかな仲間達と過ごす、どこまでも賑やかな時間。他では決して味わうことができないようなこの日々が、今の私の日常だ。

fin.

* * * * * *

あとがき

 先日、所用で赤羽を探索してきた直後にフォロワーさんのファンアートを拝見して、自分の歩いてきた街並みの記憶とイラストの情景が自分の中で異常なほど噛み合ってしまい、半ばショートしたような頭で勢いのまま書き上げたファンノベル(?)です。

 執筆後、イラストの作者のxさん(@x2525)にDMで「イラスト見て勝手に書いてみたんですが……」と相談してみると、唐突な連絡にも関わらず快くお返事頂き、公開と相成りました。

 自分の中に突如生まれたクソデカ感情をそのまま形にしたものなので、細部に荒さは見られるかと思いますが、お口に合えば幸いです。もし「大浦るかこの○○な話が読んでみたい」みたいなご意見ご要望ありましたら、コメント欄にでも投げていただけたら今後の参考にさせていただきますし、純粋に喜びます。

 ではでは。

※2023.2.26 追記
先日シュガーリリックからデビューした蛇宵ティアさんが、赤羽の街を歩いたVlogを投稿されてました。神社を中心に、作中の赤羽の風景も見られるのでよかったらこちらもあわせてどうぞ。


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