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海の日によせて/-bitter twenties**-

「When We Were Young」は sweet teenager 編の途中なので、20代編はまだ先の予定ですが、#北海道のここがえーぞ のためにショートカットしてこちらを掲載しました。北海道のとある場所が登場するこの掌編の裏話を書きますので、どうぞそちらも併せてお読みくださいね。

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  大学4年生の頃、よく海をヒサヒトと見に行った。

 あたしとヒサヒトはゼミが同じで、その頃よくつるんでいろいろなことをしていた。ケーキバイキングでどっちがたくさん食べられるか競争したりとか(あたしもヒサヒトも、甘党だった)、夜ひとんちのマンションの屋上に登って花火をしたりとか(その頃はあんまりマンションのセキュリティも厳しくなかった)、そういう非・日常を演出することで、あたしたちは、なんとか生きていた。

 海も、そんな非・日常のひとつだった。

 海に行くには、電車を使う。朝だ。あたしたちは一言も発さずに、電車のボックス席に向かい合って座る。ふたりとも、窓の外をじっと見ている。アナウンスが入り電車はゆっくりと動き出し、窓の外の景色は徐々に徐々に速く、通り過ぎていく。山がちの景色が続いている。海はいつまでたっても着かないような気がする。

 そんなぎりぎりの我慢が頂点に達する時、電車は大きくカーブを描いて、その瞬間、目の前に大きく青い海が開ける。遮るものの何もない全景に海は硝子のようにさあっと広がり、その上を高い空がどこまでも続いている。海。あたしたちの心は、大きく満たされる。

 小さな駅であたしたちは降りる。海水浴場ではない駅だ。だけれども、波打ち際まで降りていける。あたしたちはそこで海を見る。泳ぐでもなく、遊ぶでもなく、ただ海を見る。

 海辺に下りるにはコンクリートの堤を乗り越えなければならず、それには少し体力と筋力が要った。ヒサヒトは先に登り、あたしに手を伸ばした。けれど、あたしは決してそれにつかまりはしなかった。あたしとヒサヒトは、そうあるべきではなかったからだ。今になって思う。もし、あの時ヒサヒトの手につかまっていたなら、今のあたしは違うあたしになっていたかしら、と。考えても詮無いことを。

 荒寂れた海だった。波の勢いも強かった。流木がごろごろしていた。あたしたちは、押し黙ったり、興奮して何かを叫びあったり、並んで座ってひとことふたこと呟き合ったり、そんなことをしながら、海を見ていた。

 荒寂れた海は、あたしたちの心にどこか似ていた。あと一年足らずで卒業しなくてはならなくて、もう猶予の期間はなくて、否応なしに社会へ押し出されようとしていて、焦り、不安、じりじりとした苛立ち、そんなものを、あたしたちは海の中に見ていた。

 ヒサヒトが呟いたことがある。ミサト、投身自殺でもしない?やめてよ。あたしは言った。ここでふたりで投身自殺なんかしたら、心中だと思われちゃうじゃない。そうだよな。ヒサヒトはくすりと笑った。心中ってガラじゃないな。そうだよ。ガラじゃないよ。

 あの頃のあたしたちは、何か大きなものに呑み込まれそうで、それが嫌で、あらがい、全身で拒否し、でも無力だった。あんなに何度も海を見に行ったのは、その無力さを噛み締めるためだったのかもしれない。

 何の力もない、21歳のふたり。

「今」に行き詰ると、あたしはその頃のことを思い出す。無力で、潔癖だった頃のこと。焦り、不安で、苛立ちながら、でも生きていた。尊いものをそっと眺めるように、あたしはその頃のことを思い出す。そして、「今」に向かい合う力を得る。

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カバーフォトは、「みんなのフォトギャラリー」より、沢登 達也 / piece of cake, inc. さんの写真を使わせていただきました。ありがとうございマス!

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