若い女子に「エンジョイ!」って言いたいから書く。

 先日書いた稿、『「女」を「男」に変換すると、そのおかしさに気がつく表現が、ある。』が、投稿から11日で、これまでの稿で最高のビューを数え、スキの数も一番となりました。ありがとうございます!

 最初(なぜ!?)と思ったが、ノートの「おすすめ」にピックアップされていたことが分かり、その後に「コンテンツ会議」にも取り上げていただいたので(金曜日の投稿で、その週の「コンテンツ会議」には入らなかったので、いーよもう、と軽く拗ねていた)、またちょっとビューが伸びた。それらノート運営のおかげで、多くの方が目に留めてくださったのだと思う。

 しかし、以前「おすすめ」や「コンテンツ会議」にピックアップしていただいたいくつかの稿より、すごく短期間でたくさんのビューがついた。その勢いに不意を突かれたが、同時に、(ああ、こういう「男性像」「女性像」みたいな話、※つまり、ジェンダー観、というテーマだが、今ものすごく関心が集まっているんだな)と実感した。

 わたしの書くものは大体、助平なものを除いて(いや、助平なものも実は根底にはそういう思いがあるんですが!)、ジェンダー観に絡んだものが多い。「男とは」「女とは」といった思い込み、それによる生きづらさ、そういったことがわたしの基本的な関心事だ。こういった自分の目線が、多くの人々と共有しているものであるのだ、という実感を持てたことは、とても心強いものだったが、実は結婚と離婚を経るまで、それらの問題にはおよそ無頓着だった。なぜかというと、「女であることの不利益」を全く被ることなく成長したからだ。

 以前の稿でちょこちょこと言及しているように、「女子枠」ではなく育ってすくすくと旧帝大に入ってしまった。勿論女子学生比率は低かったのだが、全くマイノリティ感もアウェイ感も感じたことがなかった。サークルでリーダー役もやったし、男子寮が男女混合寮に変わる過渡期の寮に暮らしたこともある。卒業して入った会社は、男女もれなくブラックな労働環境ではあったが男女差別はなかったし、当時は昨年の電通の事件みたいに「女子力」などという言葉もなかった。転職した東京の会社は医薬系の小さな広告代理店だったが、高学歴のリケジョがごろごろいて(修士だの博士だのいっぱいいた)おそろしく活躍しており、社内では男性社員をどうやって増やすか頭を悩ませていた。わたしはバックオフィスのサポート業務に当たっていたが、サポート職が編集職より下に見られることもなく、会社はプレイヤーもサポーターも等しく評価していた。

 初めてぶつかった「女であることの不利益」が、結婚である。DVはまさに、性別を理由としたパワーの偏りによるハラスメントだったと思うが、それ以外にも、一緒に働いているのに家事はこちら持ちの不思議とか、ストレス含め夫のケアは妻担当の不思議とか、売り上げを稼ぎ出す俺だけが稼いでいるのであってサポート業務の一切を押さえる嫁の働きはノーカウントの理不尽とか、いろいろ経験したことのない体験にぶち当たった。一番最後に(家を逃げだす3日前くらい)ぶち切れたわたしから飛び出した言葉が、「何をやっても何をやってもやってないって責められるのは、もうたくさんなの!!!」だったのは、今思うと印象的だ(大体、多くは女性が担うケアやサポートを中心とした無償労働は、やって当然と見なされるものなのだ)。

 そういうことが、わたしだけの問題じゃなくて、日本の、もっと言うと世界の女性が抱えている問題であること、さらには、女性だけではなく男性をも生きづらくさせている現状があること、子どもの成長過程や社会化の過程、働き方、キャリア形成、結婚、子育て、家庭生活、あらゆるシーンに潜んでいること、そういうことは、離婚後に、砂地が水を飲み込む勢いでじゃーーーーーー!!!っと勉強して、分かるようになった。

 結婚する前まで、つまり、執筆を一時中断する前まで、わたしの関心事は「わたしの生きづらさ」だった。わたしの関心は常に自分の中に向かい、意識は奥へ奥へと潜っていった。でも、自分という限りある資源は、その内部だけで完結していたら、空っぽになってしまった。だから、書けなくなった。今のわたしの関心事は、「社会の生きづらさ」だ。自分が外に繋がった感覚がある。関心は菌が菌糸を伸ばすように、外へ外へ拡がっていく。面白いことは、気になることは、考えたくなることは、外にいっぱいある。

「生きづらさ」を問題として書く行為をする時、やり方は大きく分けてふたつあると思う。ひとつは、その「生きづらい」現状を炙り出し、可視化することだ。そういうアプローチをとる作家さんは、大きな作品であれ小さな作品であれ、最近増えてきたと思う。みんながなんとなく感じていたけど声を挙げられなかった違和感、それを描き出し浮かび上がらせる作家さん。それで初めて息苦しかった人たちが、「そうだよね!わたしもそう思ってた!」と言えるようになる。でも、やり方はもうひとつあると思う。

 わたしがやりたいのは、「あのね、こう生きたらハッピーじゃん?」と提示してみせること。「そっちじゃなくて、こっちに舵切ったらいいじゃん?」と言うこと。それは単純に、息苦しいことを描くのは作業として苦しいというか、楽しいことを書く方が楽しいというか、そういう理由なんだけれども、執筆再開して最初に書いた原稿で、(煎じ詰めて言えば)「結婚生活こんなに苦しかった」を描写するより、「離婚したらこんなめっちゃハッピーじゃん!」に焦点当てて書いた方が面白かったので、そういう方向で行くことにした。あと、息苦しい時代を自分はある程度抜けたな、という思いもある。そして、「いい年になって、晩婚した挙句DVに遭って、離婚までする羽目にまでなった」みたいな、取りよう語りようによってはおそろしく悲惨なドキュメンタリールポでも書けそうなストーリーなのに、当の本人はすごくハッピーである実例な訳だから、「ご高齢女子でも、離婚しても、人生めっちゃ楽しい!」を描くことって、若い女子に課せられた所謂「呪い」を解くことにも繋がるんじゃないかな、とも思っている。

 わたしは書くことを通して、若い女子に「エンジョイ!」と言い続けたいのだ。女であることを後ろめたく思う必要はない。年を取ることに身を切られる必要はない。離婚しても人生終わる必要はない。「人生、後半戦から!」それは本当だから、楽しく自分をエンジョイして生きていって欲しいと思うのだ。

「なんで女子だけ?男子だって、生きづらいんだよー!」という声もおありだろうと思う。それはなんでかっていうと、わたしは男子より女子が好きだからです。助平ですけど女子が好きなんです。女子っぽく育ってないけど、女子が好きなんです。わたしは女であることで嫌な思いをしたことがないけど、女によって嫌な思いをさせられたこともない。「女子は陰湿」とか「嫉妬深い」とか「女子のマウンティング」とか「女はとかく群れるから嫌」とか、経験したことがない(「トーコさん、一緒におトイレ行こー♡」と大学の後輩に誘われたことはあるけど)。だから、女子が好きです。男子は、男性の先輩にエンパワーメントしてもらうといいと思う。男性学とか、二村ヒトシ監督の著書も好きだけど、ブログ「ぼくののうみそ」は男子を開放してくれそうな文章だなー、と、昨日思った。わたしも爆笑しました。

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