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なつの感触 -3-

 目を覚ますと快晴で、わたしたちは跳ね起きて海へ行く準備を始めた。

 わたしはおにぎりを幾つも握り、真理子は卵焼きを焼いて刻んだきうりを塩もみした。以前大家さんにもらった粕漬けも切った。それから水筒に冷たい麦茶を入れた。それらをみんな大判のハンカチに包み、手提げに入れた。それからわたしたちはふたりとも引き出しやら押し入れやらかきまわして、バスタオルと水着、ビーチサンダル、日焼け止め、必要と思われるものは何でも、自分のバッグに押し込んだ。

 途中で小ぶりの西瓜を買った。ふたりで食べ切れるくらいの小さなやつ。

「海で冷やそう」

 ビニール袋に入れてもらったそれを前後に大きく振りながら、駅まで歩いた。

 電車に乗ると、三十分ほどで海に着く。

 わたしたちは電車で海に行くのがすきだ。海が近づいてきた頃、電車はぐっとカーブする。その瞬間、目の前に大きく青い海が開けるのだ。遮るものの何もない全景に海は硝子のようにさあっと広がり、その上を高い空がどこまでも続いている。その光景ときたらいつ見たって素敵すぎて、わたしたちは何度見たって飽きもせずはしゃいでしまう。

 水はもっと冷たいかと思っていたら、案外温んでいて気持ちよかった。
 真理子は念入りに日焼け止めを擦り込む。日焼けした椿姫とか嫌でしょ、というのが彼女の主張だ。わたしたちは着替えをし、波打ち際に穴を掘って流されないように西瓜を仕込んだ。

「遊ぼう」

 わたしたちは海に駆け込んだ。わたしも真理子も泳ぎはあまり得意でなく、深いところは怖いので、足のつくところで遊んだ。波は穏やかで、わたしたちは緩やかにもみくちゃにされた。真理子がしきりと西瓜が流されないかを気にするのがおかしかった。

「お腹がすいたわ」

 波打ち際に立って真理子がそう言った。そういえば、太陽はとっくに真上を過ぎている。

「うん。お弁当にしよう」

 わたしたちは海から上がり、ついでに西瓜も引き上げて、海の家の端っこに腰掛けた。

 真理子はお弁当の包みを解いた。

「はい」

 ふたりで分けっこして食べる。おにぎり、お漬物、塩の味。

「潮の味がする」

 真理子が口を開けて潮風を受けているので、わたしも真似をする。

 急にわっと風が吹いて、お弁当を包んできたハンカチが飛んだ。慌ててふたりで押さえると、ハンカチの中でお互いの指が触れた。そのまま、わたしたちはふたりでハンカチを引き戻した。ハンカチは手提げの陰に収まり、その陰でわたしたちの指はからんでいた。

 わたしたちは黙って指をつないでいた。脇で、小さな男の子が騒いでおかあさんに叱られている。でも、この手には気づかない。誰も知らないわたしたちの小さな今。寄せては返す波、海風。時の凪いだような昼下がり。

 わたしの指先にくっきりと伝わる、真理子の指の形。ピアノを弾く、長い、少しがっしりした指の形。指先は熱を持って、その熱が体中をめぐる。

    オーテーテ ツーナイデー
    シーオーカーゼーフーケーバー

 真理子が下を向いて小さく歌った。わたしの方をちらっと見上げて目で笑った。

「ことりにもうさぎにもなりたくないわ。ずっと黙っていたい」
「わたしも」

 わたしたちはお互いの指をお互いの指で確かめ合いながら、長いこと座っていた。

 ふいに、真理子が顔をあげた。

「西瓜、温くなっちゃったんじゃない?」

 それがあまりにも唐突で真剣だったので、わたしたちは急におかしくなり、げらげら笑った。

 案の定、西瓜は温くなっていた。持ってきたのがペティナイフだったので、きれいに切れずに変な風に割れた。わたしたちは手や顔をべたべたにして食べ、その手や顔を海水で洗って、着替えをして家路に就いた。


 わたしの中で、何かが生まれそうだった。初め淡い形のない色彩だったそれは、ゆっくりとゆっくりと日を追って、次第に形になり始めた。

 真理子がいつものようにトレーニングを始めた時、わたしは何か一曲歌ってくれないかと頼んだ。いいよ、と真理子は言って、少し考え、軽くスカートをつまむ仕草をして、ステージ上のお辞儀をした。

「では、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル作、『オンブラ・マイ・フ』」

 歌い出した彼女の、声の暖かな柔らかさに浸り、顔一面に溢れる喜びを見た。

 わたしは、自分の中に満ちてくる思いをはっきりと知った。

 わたし、真理子がすきだ。

 それだけ。わたしにとっては音も、歌も、真理子なのだ。他の誰でもない、真理子が、わたしの中に音の意味、歌の意味を作り出すのだ。

 わたしは自分の描こうとしているものが分かった。わたしの歌が分かった。

 気付くと、歌は静かに終わるところだった。

 わたしは下唇を噛んだ。下を向いた。それから真理子を見て、

「ありがとう」

と言った。真理子は、へんな可南ちゃん、あらたまって、と笑い、自分のトレーニングに戻っていった。


 次の日、わたしは真理子に、

「絵を描き始めようと思うの」

と告げた。もう、八月も終わるところだった。

「課題の提出まであと一か月くらいだから、帰ってきたり帰ってこなかったりするかもしれない」
「うん」
「完成したらご馳走作って」
「うん。可南ちゃん」
「ん?」
「頑張ってね」
「うん」

 わたしは、今まで数えきれないほど描いた、まるで落書きのような真理子のスケッチを持って、学校の門をくぐった。

 実習室では追い込みの学生たちがすばやく筆を動かしている。こもる油絵の具の匂い。わたしみたいにカンバスの真っ白い学生は、誰もいなかった。

「お、井上、描けるようになった?」

 学生の群れの中から、村上くんが声をかけてよこした。

「うん、これからが大変だけど。――あ、いい感じにできたね」

 彼の母子像は、ほぼ完成していた。落ち着いた色調で、程よく抽象化されて、なんだか聖母マリア様とイエス・キリストみたい、と思った。

「まあね。あと仕上げ。じゃ、井上頑張って」

 村上くんに手を振って、自分のカンバスに向かう。画材を取り出し、鉛筆で軽くあたりをつけていく。たくさんのスケッチと、今まで目に焼き付けてきた真理子の姿と、腕に指に残る真理子の感触。絵が、できていく。

 鉛筆を動かしながら思う、この筆がわたしの楽器。このカンバスがわたしの舞台。描こう、真理子にもらってわたしに生まれた音楽を、わたしの中にある歌を。

 それからの約一か月、わたしは怒涛の制作期間に入った。周りのみんなはもう仕上げの段階だったから、間に合わせるためにおそろしいスピードで描いた。一か月の殆どを実習室で過ごし、うちへ帰るのは、お風呂に入るのと着替えを取りに戻るくらいだった。真理子の顔を殆ど見ない。そんな一か月。

 それでもわたしは描いた。課題だったからじゃない。わたしの歌をカンバスの上に浮かび上がらせるために。

 絵が出来上がったのは、夏休みの終わる三日前だった。いい出来なのか、不出来なのか、自分では全然分からなかった。ともかく全部描いた、そう思った。

 うちに戻ると、真理子がいた。おかえり、と言われた。どんなにすぐ学校に戻ることになっていても、会えば彼女は必ず言った。おかえり。

「絵ができたの」

 真理子はぱっと笑った。

「おめでとう。どんな絵?」
「見に来てほしい」

 そう言うと、真理子はうなずいた。
「うん」

 ふたりで学校に行った。夕暮れの実習室。同級生たちの絵はとっくに出来上がっていたから、誰もいない。ふたりだけの実習室。

「これ」

 まだ油も乾ききっていない。

 濃い、深い青がカンバスを埋めている。中央に、白い歌う人。青に伝わり、青を振るわせていく、歌の響き、歌の波。歌う人の背後から、影のようにそっと抱きしめる人物。そして、おててつないでや、蝶々夫人や、オンブラ・マイ・フや、真理子がトレーニングの時出す声、音、わたしが見て、聴いて、感じてきたものが、歌う人のまわりを取り巻いている。真理子のために描いた、ある、タペストリ。

 真理子はじっと見ていた。

「シャガールみたいだね」
「そうかもしれない」
「タイトルは?」
「『うたうひと』」

 しばらく、間があいた。ぽつりと真理子が言った。

「……歌うって、こんな風に表現できるのね。初めて、歌を知ったような気持ち」
「うん……」

「あれは、可南ちゃん?」

 真理子は歌う人の背後の人物を指した。

「ううん。あれは――歌の守り神」
「そう。守られてるのね」

 真理子は振り向いて言った。

「もう一度、あの時みたいに、してみてくれない」

 冗談を言っているのかと思ったけれど、真理子は笑っていなかった。

「……いいよ」

 わたしは真理子の背後に立ち、そっと体に腕をまわした。手は、真理子のお腹のあたりで軽く組んだ。その上に、真理子が手を重ねた。

 ふと、真理子が呟いた。

「わたし、歌でやっていけると思う……?」

 当り前じゃない、そう言おうとして、言葉が喉で絞まった。違う、多分、きっと、わたしは守り神じゃなくて――

「……真理子の歌、すきだよ。真理子の歌があったから、この絵ができた……」
「うん……」

 真理子はそれ以上何も言わず、わたしも何も言わなかった。夕暮れが少し濃くなった。だんだんと暗くなっていく実習室の中、わたしたちは抱き合っていた。いつまでも、こうやって、腕の中に真理子を抱えていられたら。でも、そんな時間は今も、腕の中からこぼれ落ちていく。

「おいしいもの買って帰らなくちゃね」

 急にぱっと振り向いて真理子が言った。その顔はいつものように笑っている。

「うん、絵と歌の、お祝いね」

 鼻の奥が痛く、でも笑う。真理子、あなたは外国へ、そう、きっとイタリアへ行くのだろう。でも今は。わたしたちは帰るのだ。ふたりで、ふたりのうちへ。わたしと真理子の、ふたりのうちへ――。

「先生、できた」

 生徒の声でふと我に返る。急に蝉の声がジージーと聞こえ出す。そうだ。わたしは中学校の美術教師。今は二年生の授業で、課題は『友人の顔』のクロッキーだった。

 生徒は教卓の前に立ち、制服の襟をぱたぱたさせて、わたしの言葉を待っている。

 ふと、こんな言葉が出た。

「――田中くんは――夏って、すき?」
「はあ?何言ってんの、先生」

 生徒はあきれ顔になる。そっか。わたしはかすかに苦笑い。絵を受け取り席に帰す。

 もう一度だけ、空を見上げる。

 この空の下、遠くにいる人のこと。彼女はあの日の夢を果たして、会わなくなってもう何年になるだろう。数年に一度届く、夏の光に溢れた写真の葉書。でも、あの夏の日の青空が、今も彼女の心に残っているのかは、わたしは知らない。

 美術室は再び静かになり、鉛筆が紙にこすれる軽い音しか聞こえない。

 もう二度とあんな季節はないとしても。

 わたしは美術室に目を戻す。薄い影に浸されて、生徒たちが無心に鉛筆を動かす美術室。

「さあ、そろそろ時間よ。できたかな」

 わたしは声を張り上げた。

                              <終わり>

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2002年、新潮社、第1回「女による女のためのR-18文学賞」最終候補作となった作品「なつの感触」の修正版です。
R-18文学賞に応募した後何度も改稿を重ねているので、これは、応募時の原稿ではありません。いくつものバージョンがあったのですが、データも紛失し、プリントアウトも断捨離時に一切捨てたので、手元には、2009年に個人誌として発行したバージョンだけが残っていました。
今回は、そのバージョンをもとに、少しだけ手を加えて掲載しています。
トータル原稿用紙50枚ほどなので、3回に分けて掲載しました。
今回改めて書いてみて、選評でご指摘いただいた話の中の無駄や、自分の中ではっきりしていなかった部分が理解できました。文体や書き方、構成も、今ではずいぶん変わったなあと思いました。
すごくすきな作品でしたが、多分もうこういった作品は、書けないし書かないでしょう。やっと卒業できた気がします。

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