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わたしは40歳で大人になった気がする。

 子供って不自由だ。大人の方が、ずっといろんなことができて、未来が開け、自由に楽しく生きられているような気がする。例えばこんな気持ち。

子どもというものがいつも生きにくいものであるように、わたしの子ども時代も、生きにくいものだった。実際、30を過ぎた今の方が、ずっと生きやすい。例えばカフェの店員に笑顔を見せてありがとうと言う、そういった風に。子ども時代のわたしはいつも舌がもつれていたし、手足は強張っていた。生きていくやりかたが、分からなかったのだ。(『歪んだ旅』より)

 これを書いたのは絶賛メンヘラ渦中の30代半ばのことだったので、おそろしく陰鬱なトーンの小説に仕上がっているが、陰鬱な渦中にあってもそれでも、子供時代よりはずっと生きやすいと思っていた。

 子供の頃って、凄く世界が狭い。知識も少ない。物事に対処する方法も知らないし、自分の知らない広い遠い世界まで、想定が及ばない。イメージできない。わたしは目鼻立ちをつけられない漠然としたイメージと、具体化するための実行スキルの不足にもどかしさを覚えるタイプだったので、子供の頃はとても閉塞感を感じていた。

 20代になっても、ふと我に返って将来に目をやったら、凄く行き詰った。生まれてから成長し、学校を出て「いっぱしの」大人になるルートが単線的にしかイメージできなかったので、上に積み上げ、どんどん狭くなり、深化し特化するイメージだったので、その単線ルートを外れることがうまくイメージできなかった。実際の歩みは単線ルートを外れまくっていたので、もう深い閉ざされた森の中を迷走するような気持ちだった。

 わたしが突然目が開いて、それまで身に着けてきたいろいろなスキルが意味を持ち花開き何にでも手が出せるようになったのは、結婚して離婚した後、40歳からだったな、という気がする。えっ、ハタチ成人のかける倍かよ。20年間森の中かよ。

 例えば結婚して、ペーパードライバーから飛び込んだ車屋の世界は、右も左も分からなければ車を動かすのも覚束ない、といった具合だったけれども、あの頃超絶忙しさの渦中にあって駆け続けて、振り返ったり噛み砕いたり飲み込んだりする余裕のなかった体験や知識は、車屋と結婚生活を卒業してから、ことあるごとに(ああ、そういうことだったのか!)と再発見して定着して体系化して、勿論整備のプロに肩を並べる、とかそんなレベルまでは到底到達していないんだけど、車の登録もメンテナンスも構造も、大体の概要の全体像がわたしの中に結ばれたから、今では自分の必要な判断のために概要全体像にひょいっと手が伸ばせる。車のことに限らず、すべてに渡ってそんな感じ。おそらく20代から30代に渡る期間は、わたしの中の準備期間というか助走期間だったのだろうと思う。

 広告代理店の勤務経験で最も長かったのはバックオフィスで、総務というか庶務というか秘書というか事務というか、一番専門性のない、担当のいない仕事は全部やるみたいなこぼれた落穂を拾いまくるような仕事をずっとしていたのだけれど、振り返るとあの仕事に就いていて本当に良かった。いつの間にか、仕事が動く組織が動くということの、やはり大体の概要の全体像が自分の中に備わっていたからだ。車屋の奥さんというポジションもそれに磨きをかけたと思うのだけど、あの経験はやはり、のちに自治体で事業をいっこ動かしたり独立してフリーランスになってひとりで仕事をしたりするための、大事な筋肉と神経になったような気がする。

 そして結婚して離婚する前のわたしは、自分のことを特殊な「個」と感じていたので、汎用性なく自分の特殊性を極めていかなければならないような切迫感も感じていたので、結婚して離婚して、突然自分と世の中の女性たちの抱える問題が繋がったような感じは、突然自分が社会と繋がったような感じは、突然自分が社会の中に確かに立っていることに気付いたような感じは、本当に生まれ変わったような清々しい気持ちだった。多分わたしは、40歳で初めて、社会の中に大人として生み落とされたのだ。子供時代長すぎか。

 大人になるとは、自分のやりたいことを、現実のものにしていくための、力を持つということなのではないかと思う。見る力も、知る力も、繋がる力も、行動する力も。子供が無限の可能性に満ちている、というのは、単にまだ何も描いていない真っ白なカンバスか捏ねていない粘土のような状態であるだけで、絵具を塗りたくったりごりごり捏ねしだいたりするための力は、つまりそういった意味での可能性は、大人になってから獲得するものなのではないか。それに粘土って、形を作る前によっくよっく捏ねないといけないんだよ。

 今のわたしは、自分のいる場所が分かる。自分のやりたいことも、行きたいところも、どうやったらそこに行けるのかも見当がつく。仕事ができる。人と話せる。県内どこへでも自力で運転できる。多分県外も行けそう。20代のうちに頭角を現さなければ終わりだ、と思っていたけど、40を越えてライターになった。超絶恋愛もしたし、もうムリ、と思っていた歌も再開したし、来春からは師事したいと思っていた大学院の先生のゼミに参加する。まだまだいろんなことができる。そしてよく考えたら、多分人生あと半分以上残っているから、全然、始めるのに遅くないし。

 40歳で大人になった、と書いたが、わたしは自分のことを最近、あっ、ネオテニー(幼形成熟)ってやつなんだな、と思う。柔軟性や適応力など幼体の性質を残したまま成体になることを、そう呼ぶそうだ。大人になる、ということを「完成形になる」こと、と捉えるなら、わたしはいまだ大人ではないのだろう。でもわたしはむしろ若い時の方が可塑性に乏しかったし(まだ十分捏ねていない粘土のように)、今明らかに若い時よりも様々な力をつけているので、もはや子供ではないと思う。

 わたしは甥っ子や姪っ子(弟の子たちは保育園児、姉の子たちは小学生)と遊ぶのが大好きだし、ガチで一緒にはしゃげるのだが、それでもちゃんと大人だから、危険を回避したりとか、できる。はしゃぎながら、大人の目配りはできる。そういう形に進化した自分の「大人」が、気に入っている。

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 一夜明けて、これを追記しよう。

 読み返して、割とおんなじ内容のことを書いてたな、と思ったけど、

わたしは書くことを通して、若い女子に「エンジョイ!」と言い続けたいのだ。(・・・中略・・・)「人生、後半戦から!」それは本当だから、楽しく自分をエンジョイして生きていって欲しいと思うのだ。

 この通りよ。人生後半戦からだったし、若い女子の方が若い男子よりまだ、早く成熟しなきゃ!と急き立てられる状況はあると思っているのだけど(どうだろう。若い男子の方が、スロースターターでも許容してもらいやすいなと感じるのだが)、人生およそ100年あるんだよ。少なくともわたしは、90年以上は生きそう。長ぇよ。

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カバーイラストは、「みんなのフォトギャラリー」より、nonsoon さんのイラストを使わせていただきました。ありがとうございマス!

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英語で記事をポストする、っていう目標、全然実行できてないじゃんね。

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