水母 -Jelly fish- 【奇妙味小品集より】

 朝、何か水っぽい夢から目が覚めると、自分は大きなくらげになっているらしかった。カーテンの隙間から日が差していた。その日は自分の体を透かして布団に光の文様を作り、それがいかにもくらげらしかった。枕元の時計を見ると8時を回っていた。急いで会社へ行かなければならない時間であった。

 体は膜状で妙にすかすかとし、ふわふわと心もとなかった。布団に押し拉げられるような気分がした。こんな布団からは早いところ這い出さなくてはならない。掛け布団と敷布団の間の僅かな隙間を縫うようにして、やっと布団の外に逃れ出た。

 顔が洗えるかどうか不安であったが、丁度長い触手が2本伸び、手のように使えるらしかった。タオルを使い洗面所の鏡をつくづく見ると、やはりくらげであった。その時になって、やっとどこが顔だか分からないことに気付いた。今洗った部分は一体どこだったのだろうか、もう分からない。恐らく傘の部分だろうとは思うが、そこが顔なのかどうかはまた分からない。化粧などはすべきなのだろうか、成る程化粧品類は箱に収まってそこにあるが、今までどうやって化粧をしていたのか、分からなくなっていた。

 部屋に戻って床を見ると、脱ぎ散らした洋服がだらしなく横たわっている。ふと、昨夜の酔態を思い出したような気がした。だから成る程水っぽい夢など見たのだろうと思った。触手で触ってみたが、着方を忘れていた。覚えているにしろ、このくらげの体では纏いようもないと思った。

 結句、素顔の裸で外に出ることになるが、くらげであるからどっちにしろ構う人などいまい。それよりは遅刻をしないことの方が先決である。

 外に出た。2本の長い触手以外は短いものが生えているきりなので、どうやって歩いたらよいか迷った。体のあちこちを動かしてみた挙句、傘の端っこのひらひらした部分を波のようにふわふわさせて、空気に乗って移動すればいいのだということが分かった。そうしてみれば体は軽く、空を泳いで快適であった。

 地下鉄に乗り、最寄の駅で下りる頃には、たくさんの線から下りる人々が合流して、太い流れができていた。一様に不干渉で、不活発で、不機嫌な表情は、個々の特徴を消してひとつのうねりとなった。汚れた海だった。

 いつか見た、東京湾。緑色に、澱んで、濁った水の面に、捨てられたビニール袋のようにゆらりゆらりと、くらげが漂っていた。深く、浅く。捨てられた、ごみのように。そんなものを自分はいつ、見たのだろう。思い出せない分からない。ただ、確かにいつか見た。こんな風に、くらげになる前に。

 会社に着いたが、誰も挨拶をしなかった。自分が透明だからかもしれないと思った。

 デスクに向かい、ノートパソコンの電源を入れて、表示されたパスワードの請求に、入力する言葉を忘れていることに気付いた。これまで毎日同じ言葉を叩き込んでいたということが嘘のようだった。しばらく椅子に腰掛けたままぼんやりと考えて、ようやく、最後が「12」という数字であったことを思い出した。試みに、「kurage12」と入力してみた。驚いたことにパソコンは反応した。体が液状化するような嫌な気分がした。

 黙りこくって仕事を始めた。大した仕事がある訳ではない。顧客のリストを淡々と入力していくだけである。

 オフィスのそちこちで、音がする。電話の音、呼び声、話し声と笑い声。誰も自分を呼ばない。誰も自分に話しかけない。コーヒーを飲もうと思った。給湯室に向かって歩く、その真正面から歩いてくる者がいた。まるでこちらを見ない。まるでよけようとしない。ぶつかる、と思ったら、その者の歩く風圧で体がふわりと浮いて、その者はまるで何事もなかったかのように歩き去って行った。コーヒーは苦いばかりだった。自分がますます透明になっていっているような気持ちがした。

 席に戻ると、誰かが誰かに自分を指さして何か言っていた。しかしその言葉はまるで要領を得ず獣語のようで、何と言っているのか分からない。しかも誰かが誰かに言うだけで、自分に伝えられる訳ではないようである。よくよく見れば、それは自分を指さしているのではなくて、自分のデスクを指さしているのであった。自分はいよいよ透明が増すような気持ちがして、一心にパソコンの画面を見つめて、根を詰めて仕事をした。根を詰めれば詰めるだけ、ふと気が遠くなる瞬間が度々訪れた。

 やがて、昼の暖かい日差しが差し入った。春なのであった。日は自分の体を透かしてデスクを明るく照らした。朝の透かし方とは比べ物にならないくらい、それは透明なのであった。自分は遂に悟った。

 誰彼が、三々五々と昼食に立ち始めた。自分はその中で静かに座っていた。自分はくらげなのだ。透明になって誰も知らない、くらげなのだ。おそらくそれは、ずっとずっと以前から決まっていたことで、自分がそれを知らなかっただけなのだろう。

 日は暖かだった。それはそれは暖かだった。

 自分は席を立った。窓をそっと開けた。23階の眺めは安らかに高かった。自分は窓を乗り越えた。短い触手が窓枠をつと離れた。ふわりふわりと落ちた。空気の抵抗を受けて、落下傘のように柔らかく落ちた。そのまま行くかと思ったが、どの階を過ぎる頃からか、急に体の重みを感じ始めた。


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パブーに置いてあった過去作品なのですが、パブーの閉鎖に伴い引き上げたのと、1週間ぶりに体調不良から抜け出たので記念にアップ。PMS怖い!月経困難症の薬飲み始めたのに!今回どん底だったよ!

どん底といえば、この作品も救いようのないどん底な感じの作品ですが、まあ、あの頃絶賛メンがヘラってたので。という軽い言い方じゃなくて普通に精神が疾患でしたが、今はこんなじゃないです。あの頃勤めてた会社はいい会社でしたが、やっぱり①その前のブラック企業の呪い②勤め人が合わなかった③東京が合わなかった、のトリプルだったと思います。

特に③は、「トーコは東京に山が無いといふ」と申し述べておきます。現在、車で走りながら南下して、平野がちになってくるだけで落ち着かなくなるほどなので、関東平野はつらいです。

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この作品は、こちらのCDの「そとくらげ」という曲の、いい感じに言うと、インスパイア源、みたいな感じに使っていただきました。もうかれこれ10年近く前のことなのですが、イバラキさんお元気なのでしょうか。ご覧になってたら是非ご連絡ください。


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菊池とおこ

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