適度な距離で、よってたかってやさしい。「せかいいちのねこ」「いらないねこ」。

 甥っ子の2歳の誕生日がくるので、その4歳になるお姉ちゃんの分も含めて、お誕生日プレゼントに絵本をあげようと思った。ヒグチユウコさんの本はちょっと気になっていたので、(2冊だから……あ、続き物だからちょうどいいや)と思って、「せかいいちのねこ」と「いらないねこ」をアマゾンで注文した。

 届いた後、未読だったので、(じゃあ、まず読もう!)と思って読んだら号泣して、その上(これはどう考えても大人の絵本だ)という気がして、2歳と4歳にはまだ早いと思ったので、結局自分のものにすることにした。彼らには、高校生くらいになったら譲ろうかなと思っている。

 その後何度読んでも号泣してしまうので、久しぶりに「濡れタオル、最強!」をする羽目になったのだが(※離婚直前~直後に編み出した技。朝まで泣いてても、濡れタオルで冷やしまくれば、出勤前に回復する)、なんでこう泣いてしまうのだろう、主人公のニャンコに同化しているのかそれとも自分にないものとして泣けるのか、いまだに不思議な読後感だ。

 これからこの2編のものがたりについて語ろうと思うが、ストーリーについてはそれほど言及しないけれども、ディティールについてはそこそこ触れると思う。なので、本編を読むまでディティールを知りたくない方は、ここでストップしてください。

 なにが泣けるかといって、まず、ニャンコのビジュアルが泣けるのだ。ニャンコはぬいぐるみのねこで、ぬいぐるみとして見るとかなりリアル造形のぬいぐるみであるのだが、その目の上からおでこに伸びる2本の縫い目、だらりと垂れたひげ、しわしわの目蓋に挟まれたちょっと悲しそうなまなざし、リアルなのに、本物じゃない、その造形。そしてニャンコは、本物のねこたちが簡単に抱き上げられるほど、ちいさい。ちいさくて頼りなく、おぼつかない存在としてのニャンコ。そんなニャンコが泣き虫で、そのしわしわの目からすぐに涙をこぼすもんだから、こっちもその顔を見ているだけで泣けてしまう。

 そんなニャンコは、本物のねこになりたいと願って旅に出かけ、また一方では、捨てられたこねこを助けて「おとうさん」になる。いちずで、いじらしく、あたたかで、切ない動機。

 ニャンコの周りのひとたちが、また、やさしくあたたかい。ニャンコの同胞のぬいぐるみたち(たことかへびとか、アノマロとか)はニャンコの思いを全面的に応援するし、ニャンコが旅先で出会う本物のねこたちも、決してニャンコの気持ちを否定しない。ニャンコがぬいぐるみであることを貶めもしないし、自分たちが本物のねこであることを見せつけたりもしないし、本物のねこになりたいニャンコの願いを嗤ったりもしなければ、ニャンコが「おとうさん」になることを咎めたりもしないのだ。ただ、受け入れ、できることで助けてくれる。

 関係性の距離感、という点では、ニャンコと同じ家に住んでいるいじわるなねこ、がとてもいい。ニャンコは初め、そのねこのことを、いじわるでらんぼうなのに飼い主のおかあさんにすごくかわいがられていてずるい、と思っているのだが(その子どもっぽい一方的さがまた微笑ましいのだが)、旅の終わりに、実はものすごく頼りになっていつでも助けてくれる存在だと分かる。わたしがいじわるなねこをすごくいいな、と思うところは、ニャンコの持ち主である男の子のことを、「おかあさんの息子」と呼ぶところだ。ねこの飼い主は大体すべからく「おとうさん」「おかあさん」あるいは「パパ」「ママ」であるのだが(とわたしは思っているが)、いじわるなねこが一義的に関係性を持っているのは「おかあさん」でありニャンコの持ち主たる男の子は「その息子」、おかあさんの息子であるからといってなれなれしくするのでもなく、かといって敬遠して嫌うのでもない、近くも遠くもない「おかあさんの息子」という認識と距離感の正しさ、適度さ、そういうところが、とても好きだ。策略として、「子ねこみたいな顔」をしたり、「いつもの声とぜんぜんちがって」甘えた鳴き声を出したりして、助けられているのにニャンコが(ドン引き)みたいな顔をするところもいい。

 押す方向にも引っ張る方向にも過剰に干渉しようとしない、適度な距離を保って限りなくあたたかくやさしいこの登場人物たち。これは、ねこだからこその在り様なのだろうか。ぬいぐるみであるニャンコも、本物のねこたちも、それぞれの在り方を否定することもなく、否定されることもなく、だからといって、変化することを否定することもなく、否定されることもなく、弱さも、強さも、やさしさも、ちょっとした利己的さも、矯められずに、生きる。

 やっぱりわたしは、ニャンコを自分に引き寄せているのでも、ニャンコみたいになりたいと思っているのでもなさそうだ。この、適度な距離感で、それぞれが限りなくよってたかってやさしく、どんなにちいさく頼りなくおぼつかない存在でも、その弱さと強さをそのまま抱えながら生きていける世界が、とても好きなのだと思う。

 でもなぜ、そのとても好きだと思う世界を眺めていると、泣けてくるのだろうか。そこのところは、まだやっぱり、分からない。自分の涙のメカニズムが言語化できない。察しない彼氏に「トーコちゃん、どうして泣くノー?」と訊かれても、理由の説明は難しそうだなあ。

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