24時間テレビの「みんなで達成したね!」感がやばい。

 母親が観ていたからふと目線を上げると、テレビでブルゾンちえみが走っていた。(あー、当日まで発表しないとか引っ張ってたけど、ブルゾンちえみになったんだ)と思った。24時間テレビのチャリティーマラソンの話である。実況の「右脚を時々叩いています。相当痛めているのか。それをかばって走るから、左にもちょっと影響が出ているようです」とかいうアナウンスを聞きながら不安定な格好で走るブルゾンの姿をちょっと眺めたら、(あー、これやばいやつだ)と感じたので、席を立った。

 今まで24時間テレビのマラソンにまったく興味がなかったので、ちらと眺めたこともなかったのだけれども、今回ちょっと見たら、このショーの本質が分かってしまったような気がした。要するに、「素人が、十分なトレーニングも経ずに長い距離をいきなり走って、体を痛めながら、ぼろぼろになりつつそれでも完走する姿、それを眺めて感動する」ショーってことだ。今回は当日まで誰が走るか発表しない、という前段階があったので、なおさら強くその要素を感じたのだろう。「高校球児が、肩なり肘なりを痛めながら、それを押して完投する姿、それを眺めて感動する」心情にも通じるものがあるんだろうな、と思った。

 わたしはスポーツはまったくやらないが、中学校から大学まで、社会人になってからもちょっと、合唱をやった。歌を舐めてはいけない。あれは、おそろしく肉体な運動であるのだ。

 短編小説「なつの感触」で少し描写したが(まあ、「なつの感触」はエロスがテーマなので、歌うことの描写は官能的方向に寄せてはある)、「歌うことは筋肉の運動だよ。体全体が楽器になって、音楽が生まれる」である。メカニズムとしては、息を吸って吐く呼吸運動が基にあり、その呼気を閉じ合わせた声帯の隙間を通すことによって、声帯を振動させ、声にする。呼気の安定的な供給とコントロール、そのための横隔膜のコントロール、共鳴腔の確保、声帯の締め加減のコントロール、そういった要素が歌を歌うためには不可欠であるので、歌い手は、体各部位の筋肉――主には腹斜筋、広背筋、大臀筋、首の後ろの筋肉など――を鍛えて動かし方を習得し、舌根や顎や肩や胸の力を抜くことを覚え、喉の奥や軟口蓋を拡げるやり方を習得する。そういった肉体的なトレーニングの上に、歌を歌うということは、成り立つ。

 ところがですな、その辺のアマチュアの合唱団では、そういったトレーニングを恒常的に積み重ねるスキルを持たないところが多い。音楽系の大学で声楽専攻の指導者や学生の多い合唱団などは別だが、大抵の団では、専門家の指導など月1回受けられれば多い方ではないだろうか。ボイストレーニングを受けても、数か月に1回程度、「さあ、気持ちよく声を出してみよう!」程度にとどまるような気がする。

 そういうところで素人指揮者が熱血かまして難曲に挑戦し出したりして、表現にこだわり出して「そうじゃない、もっとこう歌うんだ!」とかキレたりすると何が起こるか。喉を壊す人が続出するのである。特に、高音域を出さなければならないソプラノやテノールが喉を壊す。なぜなら、高音域を出すには、声帯をきゅっと引っ張って薄くしぴったりとくっつき合わせたところに、繊細に息を送り込むということをしなければならないので、中低音域を出す時より体の筋肉と声帯周辺の筋肉のコントロールがきちんとできてないと、きれいな高音は出ないのである。それができないのに「音程を安定させて」とか「ピアニッシモで保って」とかいうのは、そもそも無茶なのである。

 喉を壊すということは声帯に異常が生じているということなので、そうなると声をコントロールすることができなくなり、思うような歌唱はできなくなる。一時的なものならいいが、下手をすると、ポリープができたり、声帯をぴたっと閉じることができなくなったりする。そうなってしまうと、声はアウトだ。

 喉を壊す歌い手が出たら、おそらく周りの人は、「勿体ない!」と思うだろうし、トレーニング方法への疑問や喉の酷使などを疑うだろう。でも、スポーツって、そういうところが意外と美談になるよね。疲労骨折を繰り返すとか、筋肉疲労で断裂とか、「ハードトレーニングにはつきもの」くらいで済まされるような気がするし、それこそ「肩の故障を押して全イニング投げぬいた、結果もう野球はできなくなったが悔いはない!」みたいなのは、完全美談だろう。

 しかも、24時間テレビのマラソンは、完全に素人で、トレーニング不足だ。フルマラソンは42.195km、チャリティーマラソンは、調べてみたらどうやら平均100kmは走るみたいだ。フルマラソンに初心者が参加するのにどのくらいのトレーニングが必要なのかな、と思って調べてみたら、やっぱり5か月前くらいから、足腰の筋肉強化から始めるみたいだ。

 例えば、「24時間チャリティーソング」みたいなのがあって、歌手じゃないひとりの素人芸人なんかが、24時間メドレーで歌い続ける企画なんかがあったらどうだろう。もう、どんどん声が枯れてきて、高音とか完全に出なくなってきて、唾液に血が混じってきたりして、喉が痛くて咳き込んだりしつつ、それでも歌い続ける。「もうやめさせてあげて……!」と悲鳴くらい上がらないか。やっぱりスポーツってやばいな。

 というようなことを考えつつ、お風呂から上がって茶の間に立ち寄ってみたら、チャリティーマラソンはクライマックスを迎えていた。「負けないで、なんちゃらら」的なチアーアップソングが流れ、会場で待つ人たちの囲み映像でみんなが声を合わせる。あと1kmを切った、もう少し、もう少し、みんな待ってるよ、頑張って!的な盛り上げ。

 あっ、やばいわ。これ、歌でもできるわ。「24時間チャリティーソングメドレー」が佳境に入り、もう歌い手はふらふらで声もでない。そこで音声を切り替えて、歌い手が必死に歌う映像に、会場のみんなが声を合わせて同じ歌を歌っている音声をかぶせる。会場のみんなが(もしかすると涙を浮かべながら)声を揃える映像も挟み込む。中継で、被災地の小学生とかが同じ歌を合唱している画面に切り替えたりするとなお感動的。力を振り絞って歌いきる歌い手!声を合わせて励ます会場のみんな!全国の、被災地の小学生も応援している!クライマックス!最後の歌の、最後のいちフレーズ!うわあーーーーー!!!!凄い!!!!みんなの心がひとつになったね!!!!

 結論としては、「みんなで心をひとつにして、困難な挑戦をやり切ったね、達成したね!」と感動するメンタリティが一番やばいのではないか、というところに至った。感動する前に、少し冷静になろう。その「困難な挑戦の感動ストーリー」は、「矢面に立つ誰かの残酷ストーリー」なんじゃないか、と考え直してみたら、そうだな、全国の小学校の組体操神話も、終わるんじゃないだろうか。

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