カスタム

 彼女の胸は豊かに盛り上がり、かがむと開いた襟元からくっきりとした谷間が見え、クラスの男子たちは「鼻血が出る」だの「顔を埋めてえ」だの言い合っていたが、冗談でも本人に言ったことはなかった。
 彼女の眉はすっきりと整えられしなやかに反った睫毛はマスカラで染められて、肉感的な唇はグロスに濡れ楕円形に磨かれた爪はいつもエナメルに光っていたが、低めのゆったりとした声で「若い時はねぇ。素顔が一番きれいなものよ」と言われると、どんな濃いポイントメイクをしている女子でも、素直に「……はぁい」と言った。
 彼女の両の耳朶にはあわせて三個のピアスがはまっており、噂によればヘソピンまでしているということだったが、誰もそれを確かめることも咎めることもせず、真似することもなかった。
 彼女は女性教師の中で唯一煙草を吸い、授業の合間などに職員室のベランダで独り細い煙草を燻らしているのをよく見かけたが、そんな時の彼女に声をかける者はいなかった。
 彼女の周りには、独特の雰囲気が漂っていた。
 彼女は誰とも、生徒とも同僚の教師とも、つるみはしなかった。
 彼女はいつも、独りだった。

 僕はその頃美術を勉強したかったのだが、もっと実学的な学部の大学をと望む両親に当然のように反対されて、ひどく気だるい気持ちで毎日を過ごしていた。流されるように授業を受けて、流されるように模試を受けて、流されるように偏差値の判定をもらった。
 僕はだるかった。
 僕は鬱陶しかった。
 僕は独りになりたかった。
 彼女に興味を抱いたのはそんな頃だ。
 それは興味というより、流れる毎日の中のある引っ掛かり、のようなものだった。
 学校の中の全てが同じ速さで流れていく中、彼女だけがひとつの中州のように、止まっているように見えた。僕は立ち止まって彼女を観察したいと思った。

 機会は偶然に訪れる。
 夏休みだった。僕は世界史の出来が非常に悪くていつもひどい点を取っていたため、補講を受けることになった。担当の教師は彼女で、生徒は僕ひとりだった。
 妙な補講だった。正確に言えば講義ではなかった。彼女は僕に歴史に題材をとった小説や漫画を渡し、ただ、それを読ませた。そして自分は教卓の上で、何か違う本のページを繰っていた。
 外は明るく太陽が輝き、蝉のジーワジーワ鳴く声がした。テニス部のボールがラケットに当たる音、水泳部の水音やピーという笛の音、合唱部の微かな歌声、それらがとてもとても遠くに聞こえ、僕らの教室は水に浸ったようにひんやりとし、そして静かだった。
 僕が一冊読み終わると補講も終わりだった。最後に彼女は僕にあらすじを言わせる。登場人物がどのように動いたか、出来事はどのように展開したか、そして歴史はどのように動いたのか。それを言わせると彼女はいいとも悪いとも言わず、
「じゃあ、また明日」
と言って教室を出て行くのだった。

 彼女が見ている本は、いつも同じ本のようだった。大きくて、しっかりとした布張りの装丁で、カラー写真がふんだんに使われているように見えた。僕は、その本が気になってしょうがなかった。
 ある日、補講が終わってじゃあまた明日、と歩きかけた彼女に、僕は声をかけた。
「――先生」
 一瞬無視されるかと思ったが、彼女は振り返り何、という顔をした。
「――その本、何なんですか」
 彼女は意外にも僕に本を示した。
「ナイフの本よ。見てみる?」
 僕は気圧されるようにはい、と答えた。
 受け取るとその本はずっしりと重く、触れたページは厚みがあってエッジが鋭かった。
「カスタムナイフよ。手で作るの。そこに載っているのは、有名な作家の作品よ」
 開いたページにあったのは、ナイフの写真だった。優雅な曲線を持つ刃が精巧な彫刻を施した柄にはまり、刃の側面にはミュシャを思わせるような唐草様の模様が浮かび上がっていた。それは息を飲むほどにうつくしかった。僕はページを次へ、次へとめくった。初めて見たこのうつくしいナイフに、僕は心を奪われた。
 ふと我に返って彼女を見上げると、彼女は唇に笑いを浮かべて僕を見ていた。
「先生、なんでこんな本を――」
 口からこんな言葉が漏れた。すると彼女は、
「作ってるのよ、わたし」
とあっさり答えた。
 作ってる――。何かがかちりと音を立ててはまるような気がした。そしてナイフを見、彼女を見、そのうつくしさに一瞬寒気がした。
 僕はおそらく呆然とした顔をしていたのだろう。彼女は喉の奥で少し笑って、
「本物、見たい?まだ途中だけど」
と言った。僕は夢遊病のように、はい、と答え、彼女は僕の手から本を取って教室を出て行った。

 次の日の補講が終わると、彼女は教室を出て行く代わりに僕の席まで歩いて来、柔らかそうな布をくるくると開いて、中に包まれたナイフを見せてくれた。
 まだ途中、と彼女が言ったとおり、ナイフはまだナイフの形の金属片で、彼女に見せてもらった本の精巧な完成品に比べると、まるで、素顔を無防備に晒しているように見えた。
「――これ、切れるんですか?」
 僕が訊くと、
「ううん、まだ刃をつけてないから」
と彼女は答えた。
「刃、ですか?」
「そう。これはただ金属板を切り抜いただけのものだから、手を当てても切れないわ。これをどんどん研いで焼いて磨いてエッジを鋭くして、切れるようにするの」
 僕はじっとそれを見た。まだ、切れないナイフ。まだ何も、できないナイフ。僕と一緒で、まだ何も――。
「じゃあ、刃を付けたら――人も、切れるんですか」
 なぜこんなことを言ってしまったのか、自分でもよく分からない。気付くと、彼女が冷たく僕を見ていた。
「切れるわよ。――でもね、切ったら二度と、繋がらないのよ」
 僕ははっとし、後悔し、小さくはい、と呟いた。
 しばらく蝉の声ばかりが聞こえた。
「もういい?」
と彼女が沈黙を破り、ナイフを布にくるみ始めた。
「あの――」
 僕は焦ったように口を開いた。
 何?そう言うように彼女が僕を見る。
「先生は何で、教師になろうと思ったんですか?」
 彼女は窓の外に視線を移し、そしてまた僕を見た。
「歴史がすきだったから」
「歴史が――」
「そう。歴史っていうのは、人間のカスタマイズの連続でしょ。それを眺めるのがとても面白かったから。それだけよ」
「でも、教師じゃなくたっていいじゃないですか」
 彼女は、ゆっくりと笑った。
「あなたたちだって、歴史じゃないの。一種の、カスタムナイフじゃないの」
 一種の、カスタムナイフ――。
 僕はその言葉を何度も頭の中で繰り返した。繰り返すばかりで、ぼんやりと突っ立っていた。
 じゃあまた明日、と言って、彼女は教室を出て行った。

 それから僕は、人間のカスタマイズを眺めるのが面白い、という彼女の言葉が気になって、いつしかあれほど苦手だった世界史が自分に滲み込んでくるようになり、結局史学系の学部に進学した。それほど実学的でもない学部だったが、両親も美術よりはまだ、と許してくれた。
 卒業式の日、式を終えて彼女の元に挨拶に行くと、ベランダで煙草をふかしていた彼女は、はい、とポケットから僕に小さな包みをくれた。
 家に帰り包みを開いてみると、あの日見せてくれたナイフの完成品だった。そっと刃に指を当ててみると、切れなかった。刃だけ、未完成のままだったのだ。
 あなたたちだって、一種のカスタムナイフじゃないの。
 彼女の笑いが見えるような気がした。

(2005年発表「カスタム」一部修正)

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昔の自サイトで発表した作品です。
その頃、カスタムナイフを作っている友人がいまして(彼女のやっていたのは、ハンドルのスクリムショウだったようです)、彼女をモデルに書きました。
作中に出てくる、「刃の側面にミュシャを思わせるような唐草様の模様が浮かび上がっている」ナイフは、ダマスカス鋼という金属を使ったものです。「唐草様」と表現しましたけれども、必ずしも唐草模様じゃありません。「そんな感じで綺麗だなあ」と、当時のわたしが印象深かったのです。

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