なつの感触 -2-
その日は朝から晴天で、溢れる朝の日差しの中、庭では真理子が洗濯物を干していた。普通の洗濯物の他に、今日は大物を洗濯するのだと言って、わたしのものも合わせてシーツが二枚、バスタオルが四枚、それからバスマットや流しの前に敷くラグなんかもある。ぱんと張られた白いシーツが日に透けて、真理子のシルエットを映し出す。真理子の体は柔らかい。真理子の動きはきれいだ。無駄のない、滑らかなリズム。わたしは畳にべったりと座って、部屋からそれを見ている。
干し物を終えて真理子が庭から部屋へ上がってきた。洗面所へバスケットを持って引っ込むと、はなうたが聞こえてくる。今日はレッスンのない日なのだ。
「ねえ、真理子さん。教えて」
わたしは洗面所の真理子に声をかけた。
「えー、何をー?」
のんびりした声が返ってくる。
「歌」
真理子は部屋に戻ってきた。
「歌う真理子を絵に描きたいんだけどね、よく分からないの。歌って何。歌うってどういうこと」
真理子はしばらくじっとわたしの顔を見て黙っていたが、やがて座ったままのわたしの腕を取って引っ張った。
「いいよ。やろう。教えてあげる」
わたしはよく分からないまま立ち上がった。
「可南ちゃんは歌を聴いたことがあるでしょ。歌詞を読んだこともあるでしょ。楽譜を見たこともあるでしょ。でも、歌ったことはないと思う。ほんとに歌ったことはないと思う」
真理子は真面目な目をしていた。
「わたしの知ってる歌はこれ。可南ちゃんがほんとに歌を描こうとするのなら、可南ちゃんにもそれを知って欲しい」
真理子の歌に対する思いを垣間見たような気がして、わたしは自分がひどくいい加減な覚悟で歌を描こうとしていたような気持ちになった。
けれど、真理子はわたしに向かって笑った。
「でも、歌ってとても楽しいものだから。楽しんでもらえればそれでいいの」
真理子は、じゃあ始めるね、と言った。
「歌うことは筋肉の運動だよ。体全体が楽器になって、音楽が生まれる。可南ちゃんに楽器の気持ちを味わわせてあげる。いい、可南ちゃん」
真理子はわたしの手を取って、わたしの体の前面に滑り込み、わたしのお腹に自分の背中をぴったりくっつけた。わたしの腕は真理子に導かれて彼女の胴体をぐるりと抱きかかえ、手の平は真理子の恥骨の上あたりを覆った。真理子は背中からわたしにすっぽりと包み込まれた。
肩甲骨、背骨、肋骨、骨盤、恥骨……。
真理子の骨格を初めて知った。これが真理子。体で感じる、これが真理子。
抱擁だった。向かい合って抱き合うよりももっと確かに、相手の体の奥まで入り込んでいく。研ぎ澄まされた抱擁。
真理子の匂いがする。
柔らかな筋肉。真理子が呼吸するたびに、胸が軽く上下する。耳元で反響する息づかい。胸に響く鼓動。髪の毛、うなじ。わたしは感じる、背中に押し付けた胸で、体に回した腕で、下腹部を覆う手の平で。
「息を吸うことと息を吐くことが始まりだよ。わたしはひとつの袋。空気を満たして、また送り出す、柔らかく動く袋なの」
真理子はゆっくりと深く息を吸った。真理子は弾力を持って膨らみ、わたしの腕の中は真理子で満ちた。真理子の筋肉は、柔らかく滑らかに動きながらわたしとひとつになろうとした。真理子の背面とわたしの前面が溶け合い、わたしは空気を満たす柔軟な袋の一部となった。
「吐くよ」
真理子は長く静かに息を吐いた。真理子はわたしと一緒にゆっくりと収縮した。
声がした。
「大きければ大きいほど、豊かな音を持つ楽器になれる。これからわたしの楽器を作るよ」
真理子がスゥと音を立てて息を吸い込むと、わたしたちは拡がった。真理子の背中の上部は、接したわたしの胸と共に、両側に大きく開いた。ぴんと張られた共鳴体、わたしたたちの豊かな楽器。
「ね、拡がったでしょう」
その声は、自分のもののように、いやそれ以上に、わたしの体の中で、渦を巻き、反響し、びりびりと鳴った。
「じゃあ、音を出すよ」
いろんな音ね、と言って振り向いたその顔は、子どものように楽しそうだった。
胸骨の上に手を当てて、と言って真理子は、わたしの手を鎖骨の真下に移動させた。彼女が出した音は、びりびりと響く強い低音で、彼女の胸全体が振動した。
彼女はわたしの手を取って、体のあらゆるところへ移動させた。のど、鼻、額、首の後ろ側、頭頂部――。手はいろいろな音を感じた。真理子の体はよく振動し、わたしの体は共振した。彼女と同じ、振動で。彼女と同じ、肉体で。わたしたちはひとつの袋として、同じ空気を吸った。わたしたちはひとつの楽器となって、同じ音で鳴った。
「じゃあ、最後にドラマーティコ・ソプラノ!」
彼女がことさら楽しそうに宣言した時、始めてからすでに一時間近い時間が経っていた。わたしたちはうっすら汗をかいていた。気温はゆっくり上昇し、庭の空気がゆらゆらしていた。
わたしは自分の匂いを感じた。真理子の匂いを感じた。真理子のうなじのほつれ毛を見た。この柔らかい生き物を抱きしめる不思議を思った。
一番しっかり抱きついててね、と彼女は言った。
「歌うってことを感じて欲しいの。わたしになって欲しいの」
わたしは改めて真理子を抱きしめた。ぴったりと、また、わたしたちがひとつの楽器となるように。
「では、いきます」
そう言って彼女は歌い出した。ひどく丁寧に、そっと壊れやすいものを扱うように、柔らかな高音部から始まったそれは、蝶々夫人のアリア『ある晴れた日に」だった。
彼女は歌った。やさしい夢を見るようなたっぷりとした導入部、ふと、哀しげにそしてやさしく囁くような調子へと変わる中間部。
真理子の体は驚くほど柔軟に、そして繊細に、動いた。ひどく気を配って出すひそやかな声から、体中に響く豊かな声まで、表現したい音楽を、体で作り出していた。
電流が流れたように唐突に、わたしは感じた。真理子が歌を目指す思いを。
真理子の中にある、ある衝動、表現への渇望。真理子は表現を可能とする楽器になるために、自分の体を確かめ、自分の響きを確かめ、自分の楽器へと近づいていく。そして到達するのだ。自分の歌。自分の音楽。今真理子が発しわたしが感じているもの、真理子の歌へ。
ふいに感情が席を切ったように溢れ出し、歌は終末部へ入った。
彼女は歌いこんだ。恋人を信じて待つ蝶々夫人の心を。どこまでも高まっていく感情を。そして、全身全霊を込めるような長い長い一声が、体中を満たし、部屋中を満たし、ふと途切れて、歌は終わった。
わたしは一瞬、歌が終わったのが分からなかった。真理子の歌は、まだわたしの体中で鳴っていた。彼女の体から溢れ出る歌、自分はそれを抱きしめているのかそれとも抱きしめられ包まれているのか、よく分からなかった。体中がびりびりと振動した。
わたしは歌を聴いたのではなかった。歌を体験したのだった。歌はわたしを揺るがした。もし許されるなら、わたしは歌ったのだだと言いたい。彼女を抱きしめて、彼女に包まれて、彼女と一緒にわたしも歌ったのだった。
震えて、しばらく腕がほどけなかった。真理子がそっとほどいてくれた。
「この歌を歌うとね、すっごく哀しくなるの。蝶々さんのことを思うと、涙が出そうになる。でも、本当のところ、わたしが蝶々さんを表現しきれているのかどうか、よく分からない」
わたしは何も言えなかった。
真理子のことを、凄いと思った。
わたしはスケッチをやめた。その代わり、ひとりで部屋で、あの、抱きしめた真理子の感触を何枚も何枚も絵にしようとしていた。うまくはいかなかった。柔らかさ、一体感、包まれ、感じた振動、共に体験した、歌。その感覚が、絵にならない。真理子。抱擁。思いは最初に戻る。ぐるぐる、途切れない輪。
「最近可南子さんはわたしを無視している」
夕ご飯の時、突然真理子が言った。見ればお茶碗を左手の丸みにのせたまま、唇を尖らせている。拗ねている時の、真理子の癖だ。
「してないよ」
「してる」
「してない」
「だってさ、だってさ」
真理子は箸でお茶碗の中身を突く。わたしを見ない。
「最近、スケッチしないじゃない」
ふっと自分の中で何かがほぐれた。口元が緩みそうになった。
「なんかね、うまくいかないんだよ。どうやって描いたらいいか試行錯誤してるの」
「そう……」
真理子はおとなしくご飯を食べた。
夕食後、縁側に座って薄明るい夜の庭を眺めた。
夏の夜はすきだ。空気が涼しくて、虫なんかが鳴いて、静かなのに、それぞれの家ではご飯を食べたり茶碗を洗ったり、TVを見たりしているような生活の気配がする。
はるはあけぼの、なつはよる。
こんなふうに、歌はナントカ、真理子はナントカ、と言い切ってしまえればいいのに。あの時分かったと思ったのに、いざ掴もうとするとするりと逃げてぼやけてしまう。ため息が出る。
いつまでも座っていると、お風呂から上がった真理子がとなりに来て座った。
「歌って、分かった?」
「よく分かんない……」
「分かんなかったか……」
「うん、あのね、歌が分かんなかったんじゃなくて、分かったか分かんなかったか、分かんなくなってるの……。うまく絵にできないんだ」
真理子は小さな声を立てて笑った。
「ちょっとさむい」
体育座りをしていたわたしに、真理子が寄り添った。わたしの腕に真理子の腕がくっついた。くっついた腕はほんのり温かかった。わたしたちはそのまま、夏の夜を眺めていた。
翌日からわたしは、スケッチを再開した。
真理子の形を写し取ろうとしていたのではなかった。真理子から広がるもの、振動、響き、あの日真理子を抱きしめてわたしの感じ取ったもの、それを試作できたらと思った。
真理子は手で筋肉の拡がりや伝わる振動を確かめつつ、発声を繰り返している。ただの肉体がよく鳴る楽器へと変貌していく様。真理子という音の中心とその響きの拡がり。
わたしはあまり形に注意を払わなかった。水彩で、様々な色を使って、フリーに何枚も描いた。何枚も描いて、何枚も描いて、とうとう疲れてやめた。
スケッチブックを開いたまま、筆をばけつにつっこみ、足を投げ出して真理子を眺める。真理子はトレーニングを中断しない。
ふと思いついて、水を筆に含ませて、真理子の脚をすっとなでた。
「いやあ!」
真理子は甲高い声を出して足を引っ込めた。それが面白くて、腕、首筋、頬、額からはなすじ、肌の出ている部分をどんどんなでていった。
真理子はきゃあきゃあ悲鳴を上げてよけながら、けらけらと笑い出した。
「やめて、やめて可南ちゃん、くすぐったい」
真理子のTシャツはとっぷり濡れてしまった。
「あーあ、もう、着替えなきゃ」
彼女は全然恨みごとっぽくなく恨みごとを言い、濡れたTシャツを思い切りよく脱いだ。胸を、水の雫がつーっと伝った。
「見えるよ」
「誰も覗いたりしないよ」
真理子はあっけらかんと言う。
「体拭かなきゃ」
バスタオルを探しながら真理子は振り向いて、
「でも、絵に描かれる気持ちがなんとなく分かったような気持ち」
と言って笑った。
夜寝ていると、隣の部屋から真理子が、
「そっちに行っていい?」
と布団を引っ張ってきた。どっちにしろふすまを一枚隔てているだけの部屋で、ベッドもなく、特に夏はふすまも開けっ放しなのだから、同じ部屋で寝ているようなものなのだが、彼女は布団をわたしの布団の隣につけると、また横になった。
「今日、ちょっと面白かった」
「え?」
「可南ちゃんに筆でいっぱい塗られたでしょ。面白かった」
「そう?」
「うん。歌ばっかり歌っていると、どんどん、知らないものは知らないままになっていくような気がする。肌ざわりとか、匂いとか、味とか……」
「ふうん」
「濡れてみるのもいいものね」
「明日……」
わたしは言った。
「え?」
「明日海に行こうよ」
「海?」
「うん。そして、西瓜を食べよう」
潮の匂い、波の寄せて返す力、日差し、西瓜のしゃりしゃりした食感、薄甘さ、わたしたちが絵を描いたり歌を歌ったりしている間においてきたものが、そこにあるような気がした。そういったもので遊んでみるのもいいと思った。
「うん……」
そしてわたしたちは眠った。
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2002年、新潮社、第1回「女による女のためのR-18文学賞」最終候補作となった作品「なつの感触」の修正版です。
R-18文学賞に応募した後何度も改稿を重ねているので、これは、応募時の原稿ではありません。いくつものバージョンがあったのですが、データも紛失し、プリントアウトも断捨離時に一切捨てたので、手元には、2009年に個人誌として発行したバージョンだけが残っていました。
今回は、そのバージョンをもとに、少しだけ手を加えて掲載しています。
トータル原稿用紙50枚ほどなので、3回に分けて掲載します。
アマゾンギフト券を使わないので、どうぞサポートはおやめいただくか、或いは1,000円以上で応援くださいませ。我が儘恐縮です。