「去る女」として、感情移入してしまう、歌。

 彼氏のところに長めに滞在する時、この間からおうちでお留守番をするようになって(多分、お店で「うぇぇぇぇぇぇん!」をやらかしたから、それ以来の彼氏の配慮)、そういう時は youtube でいろいろ歌を流している。先日は RC succesion を聴いていて、オート機能でずっと流していたら、たまたま Timers に行きついた。Timers を聴くのは初めてだったので(えー、めっちゃ面白い)と思っていると、「Daydream believer」になって、(あ、この人たちの歌だったんだ)と思っているうちにあっという間に号泣した。このフィーリングに覚えがある、と首を捻ったら、あれだった。SEKAI NO OWARI の「眠り姫」。

 どちらの歌についても簡単に説明すると、「Daydream believer」は、「僕はずっと夢を見て安心してたけど、もう、彼女はどこにもいない」という歌で、「眠り姫」は、「ある朝僕が目を覚ますと、君はもうこの世にいないんだね」という歌である。Timers の「Daydream believer」は、おかあさんのことを歌った歌だそうだけれども、それをどのように受け取るかは聴く側に任されているとわたしは思うから、聴く側に任されたものとして、この稿は書く。

「眠り姫」で号泣していたのは、元夫と結婚して1年後くらいで、初めての家出をした後だった。初めてDVを経験したあたりで、混乱しすぎて、ある朝、市の健康診断を口実にしてまだ寝ている元夫を後に家を出、そのまま実家に行ってしまった。1週間くらいで自主的に戻ったけれども、その後自分の車の中で聴いては泣いていたのが「眠り姫」だ。ある朝突然いなくなった自分と、残された元夫を思うと、すごく泣けた。そして離婚後、彼氏と付き合いだす前までは、それが一時のことじゃなくて永遠のことになっちゃったじゃんか!と思って、また泣いた。そんな気持ちは「Daydream believer」を聴くまですっかり忘れていたのだけれども、また思い出した。

 どうしてなんだろう、わたしにはなぜか、自分がいつかはいなくなる女だという自己認識が、強烈にある。いつか、いなくなって、男を後に一人残す女だという自己イメージ。最後まで一緒にいないイメージ。後に、男がぽつんと残されるイメージ。それを思うと、すごく悲しい。「眠り姫」の「ある朝目を覚ますと君はいなくて、驚かそうと思って隠れてみても、君は探しに来ない」というシーンとか、「Daydream believer」の「ずっと一緒に暮らしてきたけど、朝目覚ましが鳴っても、日が暮れてテーブルに座っても、彼女がいない」というシーンとか、その、「あれ、いる筈なのに、いた筈なのに」と、ふとした時にその喪失に気付かされる、その男の姿が、たまらなく悲しい。そして、愛しかった男をそんな目に遭わす女で、確実に自分はあるような、気がする。

 元夫と彼氏の共通点は、「大きなおうちで前は妻と子どもと大勢で暮らしていたのに、今はその大きなおうちに一人」系の男であるというところである。「今は一人」になった経緯は異なるし、その「一人のおうち」に元の家族が永遠に喪失、か、今も出入りするか、という違いはあるし、まあ、どちらの男にも「今の女」がいる訳だけれども。でも、その男の過去の壮絶な喪失や、孤独や、永遠に続くものなどない無常感や、何かに欠けた感じ、そういうものが、たまらなく可哀そうに感じる。可哀そう、という感覚は、自分を上位に置いた感覚ではあるけれども。

 そしてなんでですかね、男って、安心してる。自分が何やっても、我が儘しても、甘えても、のびのびしても、好き勝手し始めても、女はにこにこといつまでも傍にいるものだと、子どもみたいに安心してる。こっちは、(あー、いつの日か、わたしはふらっといなくなっちゃうんだなあ……)と薄らぼんやり感じてるのに、そんなこと全く気付かない。そのあたりの安心っぷりが、また可哀そうになる。

 彼らの喪失の履歴に感じる切なさと、自分が去ってしまう予感と、どちらがにわとりでどちらが卵なのか分からないんだけれども、やっぱり「Daydream believer」を聴くと泣けてくる(「眠り姫」は、今は聴かない)。そしてそれでもなお、彼氏の寿命が終わるまでは一緒にいられたらいいのになあ、と、願っては、しまう。

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