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「なにかと困る 磯貝プリント株式会社」第3話

3 また蓋がなくなりました

 翌朝、また蓋がなくなっていた。今度は僕が第一発見者だ。

「おはようさん」

 磯貝社長が給湯室に入ってきて、食器棚に向かう。

「おはようございます。コーヒーですか? 淹れますよ」
「いいって、いいって。それくらい自分でやるよ……って、ありゃ。また蓋がなくなったの?」
「またって、社長も知ってたんですか?」
「昨日、つかっちゃんから聞いたよ。実際になくなってるのを見たのは初めてだけどな」

 放置するようなこと言っていたのに、ちゃんと報告してくれたんだな、と感謝しかけて、いや、単に例のおしゃべり癖が出ただけだろうと思い直した。それでも、磯貝社長の耳に入っているなら話は早い。

「この件、どうにかしないとまずくないですか?」
「そうだなあ。一時的にせよ、口に入るものが蓋のない状態じゃあ、衛生上よくないだろうしなあ」

 はたしてそこが一番の問題なのかわからないが、ひとまず「ですよね!」と答えておく。ところが磯貝社長は、恐ろしいことを言った。

「今村ちゃんにでも相談してみるかー」
「いやいやいや、それはなしでしょう。たしかにラップの消費量が多いからといえば、真剣に取り組んでくれそうですが」
「だろ? 今村ちゃんのエコ意識はすごいからな。ほら、あの人、子供いるだろ?」
「はい。小学生でしたよね。女の子でしたっけ?」
「そうそう。その子が赤ん坊のころなんてよ、布おむつ使ってたんだぞ」
「え? いまどき?」
「だよなあ。昔はみんな布おむつだったけど、今じゃほとんど使わねえだろ」
「なんか、すごいですね」
「今村ちゃんって、すごいんだよ。ちょっと口うるさく感じるだろうけど、頑張り屋なんだよな。だから、この件も頼めば一生懸命調べてくれると……」

 話がつながったことに気づいて、僕は慌てて遮った。

「いやあ、でも、やっぱ今村さんはちょっと……」
「そうかあ? じゃあ、石井ちゃん、なんかわかったら教えてな」
「えっ! 僕ですか?」
「だって、みんなは通常業務があるだろ」

 それを言われてしまうと返す言葉がない。

「まあ、そうですね……」
「でさ、蓋を隠したやつがわかっても、本人を問い詰めるのは待ってくれや」
「なんでですか? 早くやめてもらわないと困るじゃないですか」
「そうなんだけどよ、なんか理由があるんじゃないかな。ただのいたずらなら、わざわざ元に戻すこともないと思うんだわ」
「たしかにそうですね」
「だろ? その理由を解決しないことには、蓋がなくならないことで、その人が困るかもしれないしな」
「……社長、いい人すぎませんか?」
「まあな! じゃあ、よろしくな、石井ちゃん!」

 淹れたてのコーヒー片手に去っていく磯貝社長の後ろ姿を見送って、『いい人』っていうのは皮肉だったんだけどな、と苦笑した。

 とりあえず、蓋のなくなった容れ物にラップをかけなければ。たしか大塚さんは戸棚にしまっていたよな、と記憶をたどる。
 戸棚を開けると、何本もあって驚いた。けれども、手に取ってみると、昨日専務が買ってきた二本を除いて、残りはすべて使用済みの空き箱だった。今村さんの目から隠しているのだろう。こんなに空き箱があったら、大量に使ったことがばれてしまう。今村さんがいないときを見計らってこっそり捨てるしかない。

 どうせまたすぐに蓋が戻されるんだろ、と思って、かなり適当にラップをかけていく。
 大塚さんは大した問題じゃなさそうに言っていたけど、やっぱりこんな面倒なことが続くのはごめんだ。社長になんとかしてもらうつもりが、カウンターくらって僕が犯人捜しをする羽目になってしまったし、ここは覚悟を決めて解決してしまおう。

 僕は廊下に出て、給湯室に近づく人がいないことを確認すると、事務所を見渡した。
 始業の九時まであと二十分。まだ人は少ない。みんなぎりぎりの出社だし、営業は客先に直行する場合もあるから、いつも通りの光景だ。いつもと違うのは、大塚さんがいないことくらいだ。僕より先に出社したようだが、朝イチで振り込みがあるため、すでに銀行へ向かったとの伝言メモがあった。
 営業の島で、磯貝専務と数人の従業員が打ち合わせとも雑談ともつかない話で盛り上がっている。そのうちの二人が、手にマグカップを持っている。給湯室の水切りかごにスプーンがあるから、インスタントコーヒーを自分で淹れたのだろう。
 ほかには、と飛び飛びに埋まっている席を眺めていく。朝食と思われるサンドイッチにかぶりついている女性事務員が机上にマグカップを置いているのが見えた。

 今朝、給湯室に入ったのはこの三人か。
 昨日は蓋が戻されていた。ということは、犯人は、昨日僕より後に帰った人か、今日僕より先に出社した人の仕業ということになる。

 始業前だというのに早くも大量の封入作業をしていた今村課長が顔を上げたので、慌てて給湯室に姿を隠した。不審に思われて蓋の紛失に気づかれたら面倒だ。
 階段を伝って、一階の作業場から印刷機の音が聞こえ始めた。起動するまでに時間がかかるから、先に電源を入れたところなのだろう。一階にもすでに何人かはいるということだ。給湯室は二階だが、一階の従業員もここを使っている。今朝も誰かが入ってきたかもしれない。

 これでは容疑者が多すぎる。しかも、蓋の紛失は今朝起こったとは限らないのだ。昨夜かもしれない。そうなるともうお手上げだ。
 動機がわかれば犯人が絞り込めるかもしれないが、いたずら以外の目的が思い浮かばない。いたずらだとしても、これだけの数の蓋を外して戻すなんて、手間がかかりすぎではないだろうか。そして、それで多少なりとも困るのは僕と大塚さんくらいなものだ。ほかの人が第一発見者になる日もあるかもしれないが、おそらくその人はまず大塚さんに声をかけるだろうし。

 ということは、犯人は、大塚さんに恨みがある? もしくは、僕に?
 まったくもって心当たりがない。大塚さんだってそうだろう。だが。
 僕は湿布を貼った左手を見る。
 営業部に迷惑をかけているのは確かだ。それで恨みを買っている? まさか。たとえ僕のことを恨んでいたとしても、営業の人たちは、こんなことをするほど暇じゃないはずだ。

 終業開始のチャイムが鳴った。
 僕は頭を振って、ひとまず仕事モードに切り替えた。


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