前代未聞!? 珍ヴィパッサナー瞑想物語〈すべてのオッパイは無常である〉

 町ですれ違う女性すべてのオッパイが気になり、触ってみたい、できればエッチなこともしてみたいと、常にエロい妄想を抱いている男性(51歳、離婚歴あり)は、その異常とも思える自らの精神構造に悩んでいました。一歩間違えれば、連続痴漢の変質者に豹変して、すぐに逮捕されてしまうでしょう。
 その一方、念願かなってパートナーができたとしても、イザというときにED症状(中折れ、勃起不全)が現れてしまうようになりました。そして自信をなくして前戯をスタートできない(つまりオッパイを触れない)状況になり、セックスレスの道へ……。
 さらに彼を苦しめていたのは、明け方の4時ごろになるとギンギンに“息子”が元気になることでした。ああ、なんということでしょう。まるでヘレンケラーのような三重苦です。心と体のバランスを崩し、不自然にねじれてしまっているようです。

 そんな彼は、7年前に初めてヴィパッサナー瞑想の十日間コースを受けました。ヴィパッサナーは、ブッダが悟りを得た最後の瞑想法として知られています。2500年以上も前から続くインドの最も古い瞑想法のひとつで、人類すべてに共通する病のための普遍的な治療法、すなわち「生きる技」として指導されてきました。
 パーリ語で、ヴィは「ありのままに・明瞭に・客観的に」、パッサナーは「観察する・観る・心の目で見る」という意味。つまり、「ものごとをありのままに観察する」のが、ヴィパッサナー瞑想ということになります。
 また、このヴィパッサナー瞑想にはいくつかの流派のようなものがあり、彼が実践しているのは、インド人のS.N.ゴエンカ氏(1924~2013)が指導する方法です。インドを中心に世界各地に170か所の瞑想センターがあり、日本では京都と千葉でコースを受けることができます。

日本ヴィパッサナー協会 http://www.jp.dhamma.org/

 ゴータマ・シッダッタ(パーリ語読み。シッダルタはサンスクリット読み)は「人が生きるこの世界は、どのように成り立っているのか」という問題を考え続けました。あらゆる修業や瞑想方法を試したあとでも自分の中に心のにごり(苦悩)が消えないことに気づき、最後にたどり着いたヴィパッサナー瞑想で、すべての苦しみの原因を見つけ、ブッダ(悟った人)になったのです。

ヴィパッサナーは、誰にでもできる実践法です。すべての人たちが苦しみを抱えています。病に宗派がないように、その治療法にも宗派はありません。心に怒りが生まれたとき、その怒りに仏教徒の怒りやヒンズー教徒の怒り、キリスト教徒の怒りなどの違いはありません。怒りは怒りでしかありません。怒りによって心が動揺した時、その動揺にキリスト教やユダヤ教、イスラム教の違いはありません。病は普遍的なものですから、その治療法もまた普遍的なものでなければなりません。

ヴィパッサナーは、普遍的な治療法です。人びとの安らぎと調和を尊重するための規律を守ることに反対する人がいるでしょうか。心をコントロールする力を養うことに、誰が反対するでしょうか。自分自身の真実を観察することによって、否定的な感情から解放されることに、誰が反対するでしょうか。ヴィパッサナーは、普遍的な道なのです。(S.N.ゴエンカ)

 初めて十日間コースに参加した彼は、この瞑想法が役に立つことを理屈ではなく体験を通して理解しましたが、性に関する悩みについては、その妄想の大きさから、そう簡単には解決できることではないだろうと、問題を先送りしていました。

 翌年、もう一度十日間コースに参加したあとは、コースの手伝いをする奉仕での参加が何度か続きました。日々の瞑想ができず、2年前に3日間コースに参加したものの、あまり集中できなかったので、あらためて十日間コースを受けてみることにしたようです。今までは千葉のセンターに通っていたところ、心機一転、初心に戻るために京都のセンターに足を運ぶところから、この物語は始まります。

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 2016年10月11日からコースが始まるのだが、少し早めに行って雰囲気に慣れておこうと思い、8日の午後にセンターに着いた。これから3日間は、AT(アシスタント指導者)ワークショップがあり、その期間は奉仕の仕事をさせてもらう予定だ。
 翌日は、宿泊棟の工事の一部であるペンキ塗りをしたものの、あとは運営に関わるメンバーの話し合いに参加させてもらった。11日にATワークショップが終わり、一度、丹波篠山の市街地に出てメールをチェックして、気持ちをリセットして、今度は生徒としてセンターに戻った。

 カーン、カーン、カーン

 午前4時、起床を告げる鉦の音では起きられずに、目覚ましのバイブレーションで起きる。いびきや物音が気になって眠れないので、耳栓をして寝ているのだ。

 十日間のスケジュールは次のようになっている。
  午前4時:起床
  午前4時30分〜6時30分:ホールまたは自分の部屋で瞑想
  午前6時30分〜8時:朝食と休憩
  午前8時〜9時:ホールにてグループ瞑想
  午前9時〜11時:ホールまたは自分の部屋で瞑想
  午前11時〜12時:昼食
  午後12時〜1時: 休憩および指導者への質問
  午後1時〜2時30分: ホールまたは自分の部屋で瞑想
  午後2時30分〜3時30分: ホールにてグループ瞑想
  午後3時30分〜5時: ホールまたは自分の部屋で瞑想
  午後5時〜6時: ティータイム
  午後6時〜7時: ホールにてグループ瞑想
  午後7時〜8時15分: 講話
  午後8時15分〜9時: ホールにてグループ瞑想
  午後9時〜9時30分: ホールにて質問
  午後9時30分: 就寝

 コース中は「聖なる沈黙」が守られ、ほかの人たちと話すことは禁止され、目を合わせたり、ジェスチャーをしたり、身体の接触も避けるように気をつけなければいけない。これは自分自身を見つめ、修業に集中するために欠かせないルールになっている。

〈今日が初日だけど、3日前にセンターに来てATワークショップの奉仕をしていたせいか、考え事があまり浮かばずに、呼吸に集中できているぞ。自宅ではまったく坐れていなかったのに、先生たち10数名といっしょにグループ瞑想をしたときに、1時間が苦にならなかったのは、きっと先生たちのメッター(愛と慈しみの気持ち)が強かったのだろう。休憩時間になって、いろいろ考えたいことを思い浮かべようとしても、頭がからっぽになったように何も出てこない。〉

 食事の時間と少しの休憩時間を除くと、1日10時間はじっと動かずに瞑想していることになる。最初の3日間は呼吸を観察する「アーナパーナ」を行ない、考え事が浮かばないように集中する。鼻の穴に入ってくる息と出て行く息に意識を向けなければいけないのだが、すぐに考え事が始まってしまい、普通はなかなか集中できない。
 心は常に過去のことや未来のことを考え、現在を生きることができない。脈絡なく次から次へと妄想が始まり、しかもそのひとつずつが完結しないままということも少なくない。そんな人が現実の社会にいたら、それは狂っていると思われるはずだ。
 考え事をしているのに気づいたら、そこで意識を呼吸に戻し、また妄想が始まったら、再び呼吸に戻る……ということを繰り返していくうちに、しだいに「いまここ」に集中できるようになってくる。

〈2日目の朝になると、今度は考え事が浮かんできて集中できなくなってきた。そういえば、過去2回のコースに参加したときに、瞑想がうまくいっている、これは調子いいぞ、と有頂天になるとダメだった。新しい生徒は鼻の周辺の感覚に意識を向けるのだが、2度目以降の古い生徒の場合は、呼吸に集中すれば感覚はあまり気にしなくていいようなので、とにかく呼吸に集中することだけを目指す。考え事が浮かんだら「それは休憩時間に」と言い聞かせてみよう。ようやく3日目の午後から、少し集中できるようになってきた。〉

4日目。古い生徒は、朝からヴィパッサナー(体の感覚を観察する瞑想)に入る。朝4時半から6時半まで、これまでと同じように感覚が流れ始めた。このまま進めば、順調にヴィパッサナーができそうだ。

〈そういえば、EDに悩まされるようになったのはいつごろからかなぁ。5年くらい前からかなぁ。その前につきあっていたGさんとは普通にできていた。何がきっかけだったんだろうか?
 そうそう。最初に同棲したMさんのオッパイを触ったときは、その柔らかさに感激したっけ。そのあとのTさんとは温泉の貸切露天風呂に入ってあんなこともしたっけ。振り返ると、Tさんがいちばん大きいオッパイだったな。彼女、今はどこで何をしてるのかな。元気にしてるかな。
 EDになってから、違う人ならできるのではないかと思って、しばらく風俗や出会い系で試したこともあったけど、ちゃんとできたりできなかったり(9割はダメ)で、その違いがぜんぜんわからなくて、さらに悩みが増えてしまった。ものすごくタイプの女性が目の前にいても、ピクリともしないことがあって、なんとももったいないことをした。そのうえ、相手の女性に「私に魅力がないんですね」と言われてしまうし……。
 あ、そうだ。そういえばHさんの前にAさんともつきあってたんだ。彼女とは、別れ話をして泣かせてしまって、カウンターのお店で居心地が悪かったな。
 旅先で出会ってしばらく遠距離恋愛だった年下のFさんには、セックスって気持ちいいんだねと言われて嬉しかったな。彼女のオッパイの触り心地は……〉

 カーン、カーン、カーン

 はっ!
 なんでこんなことを考えてたんだろう。今は瞑想の修行に来ているというのに。考え事をしていることに気づいたら呼吸に戻るはずが、それさえもできずに2時間もオッパイの記憶の旅に出てしまった(反省)。

 午後の瞑想もまったく集中できず、脳内エロモードになってしまい、オッパイのことばかり考えてしまう。いったいどうしたのだろうか?
 これまでのコースで、過去の出来事の思いが沸きあがってきてから、痛みの感覚が浮かんでくるという声を何度も聞いた。もしかして、ずっとふたをしていた性の問題に取り組むのだろうか? 「それはやめようよ、大変だよ」と自分に言い聞かせる。

 夜の講話が始まった。

 心は、意識、認識、感覚、反応という四つの部分からなっています。感覚器官が何かに接触したときに意識され、そのあとで認識され、どう感じるか判断し、実際に行動に移すのです。
 この一瞬の「すき」「きらい」という反応が、大きな渇望、大きな嫌悪へとふくらんでゆきます。心に縛りを結びはじめます。実を結ぶ種、結果をもたらす行為、それがサンカーラ(反応)です。人は、一瞬一瞬、この種をまきつづけています。「すき」「きらい」と反応・反発しつづけています。渇望し、嫌悪しつづけています。そして、苦しみます。
 ヴィパッサナー瞑想を修業すると、顕在意識と潜在意識の間にある壁が壊れて、心がどんな反応をしているのか観察することができるようになります。表面意識では何も感じていなくても、体の感覚器官が接触することで、必ず心は反応し、感覚が現れているのです。
 ブッダはこう言います。ある反応は水面に描いた線のようなもので、描いたとたんに消えてしまう。ある反応は砂浜に描いた線のようなもので、朝に描いても夕方には潮や風で消されてしまう。ある反応はノミとカナヅチで岩に刻み込んだ線のようなもので、やがて岩が浸食されれば消えてしまう。しかし岩に刻まれた線が消えるまで長い年月がかかってしまう。
 すべては過ぎ去ってゆくし、変化するものだということを理解し、どんな感覚に直面してもほほえむことができるようになれば、心の反応のさざ波はすぐに消えるでしょう。盲目的に反応して執着心を岩に刻んでしまうと、その傷を癒すことはなかなかできません。

〈なるほど。今日は妄想ばかりしていたついでに、心の流れをオッパイで例えてみることにしよう。まず感覚器官(目)が女性を「意識」すると、自分の好みのオッパイかそうでないかを「認識」し、好みの場合、心地よい「感覚」が体に起こる。そして、触りたいけど触れないという「反応」が生まれ、サンカーラ(渇望)が刻まれてきた、というわけだ。
 約10年間、毎日ものすごい数のオッパイを触りたいサンカーラを岩山に刻んできたようだ。自分自身にあきれると同時に、その岩山の大きさを想像すると、絶望的になってしまう。〉

 欲望にはキリがない。例えば、貧乏な村に住む人が、友人が立派な家を建てたことをうらやましがる。自分も大きな家を建てたいとがんばって仕事をして、立派な家を手にするが、部屋はがらんとしていて、友人が持っているような立派な家具がない。またがんばって働き、家具を手にすると、今度は友人のベンツがうらやましくなる。自分が乗っているのは軽自動車なのだ。
 こうやって、渇望・欲望の連鎖にはキリがない。原因があって結果があり、その結果がまた原因になって次の結果を生み、それが繰り返される。オッパイを触りたいという欲望(執着)も、同じようにキリがないのである。

 翌日の講話は、パンニャー(智慧)の話だった。

 執着はなぜ起こるのか? ブッダは、それが「好き」「嫌い」という反応・反発によることに気づきました。心の反応のひとつひとつが、意識の流れに勢いをつけます。意識は反応という原動力によって流れつづけるのです。
 それでは、この反応はなぜ起こるのでしょうか。ブッダの眼には明らかに見えました、それが無知ゆえに起こるということが。人は、自分がしていることに気がついていません。自分が反応・反発していることに気がついていないのです。反応・反発をつづけるかぎり、無知であるかぎり、人は苦悩しつづけます。
 ブッダは苦悩の起こる過程を探ってゆき、ついに、その根本原因は無知であることをつきとめました。自分という存在に執着していたら、苦しみはいつまでも消えません。好きなことや嫌いなことに反応し続けることで、それが雪だるまのように大きくなり、やがて自分を苦しめることになるのです。
 新しい反応(サンカーラ)を生むことをやめるとき、自然に古い反応が心の表面に浮かびあがり、同時に体には感覚が現れてきます。そのとき、心が反応しなければ、それは消えてゆきます。するとまた、別の古い反応が浮かびあがってきますが、平静に観察していることでそれも消えていきます。
 反応・反発を続ける限り、無知である限り、人は苦悩し続けます。この世にあるものすべては常に変化するものであり、一瞬といえども同じものは存在しません。すべてのものが一瞬のうちに生成・消滅しながら、この世界は成り立っています。
 例えば、自分の体だと思っているのに、自分の意志や願いとはかかわりなく、たえず変化し、衰えていきます。人間の細胞は、毎日数千億個が死んで、新しく生まれ変わっているからです。また、川で顔を3回洗ったときに、同じ川で顔を洗っていると思っていますが、川は常に流れているため、まったく違う川で顔を洗っているのです。

〈なるほど! つまりオッパイを3回もむ間にも、そのオッパイは違うものになっているのだ! 美しいと思っているオッパイも、やがて年老いて弾力は失われ、重力に負けて垂れ下がるだろう。すべてのオッパイは無常である! 変化している、変化している、アニッチャー(無常)なのだ。
 だから美しいオッパイに執着しないで、すべてのオッパイは無常であると理解して、オッパイを触りたいという妄想をやめなければいけない。……というところまで理解できたが、次の段階の体験を通して理解する領域となると、いったいどんなことなのだろうか? 身体の感覚を観察し、そこから体感として納得できることが、はたして起こるのだろうか?〉

 パンニャー(智慧)には、三つの段階があるという。最初はだれかの話を聞いたり、本を読んだりして得る一般的な智恵や知識。次に、得た知識を自分の頭で考えて理解する段階。そして最後に、ヴィパッサナーによって自分の身体で理解する本物の智慧を得る段階にたどり着く。
 例えば、病気になって医者に行ったときに、薬の処方せんを書いてもらう。医者を信頼しているので、家に帰ってから処方せんの言葉を読み返してみた。これが第一段階。次に、処方せんに何が書いてあるか詳しく説明してもらう。なぜその薬が必要なのか、どのように作用するのかを聞いて理解する。これが第二段階。最後に、その薬を飲んで、病気が治る。薬を飲まないで、頭で理解したままでは解決にならないのである。

 みなさんはこのコースに、薬を飲むためにやってきました。
 自分自身の智慧を育むためにやってきました。
 薬を飲みなさい。自身で体験しなさい。
 そして、真実を理解するのです。

 6日目。最初の数日は先の長さを感じさせたが、早くも後半になってしまった。現在、建物の増築工事のため男性用の庭スペースが狭くて、あまり落ち着けないので外に出ていない。外に出ると、隣の庭を歩いている女性が気になってしまうこともある。ついつい、オッパイビームを発射してしまうのだ。
 そんなわけで、休憩時間のほとんどは部屋にこもって布団に潜り込んでいたのだが、ATの先生に様子を聞かれるときの女性の小さな声でさえ、妄想がふくらんでしまうようになってしまった。

 そして午後の瞑想時間になってから、左のお尻に硬くて鈍い感覚が現れてきた。グループ瞑想の時間にさざ波のような軽い感覚に変わり、チクリとした小さい痛みが浮き出てきたあとで、堅いしこりは消えたようだった。その後、お尻の下に岩盤のような堅い厚みを感じるようになった。

〈左のお尻の下に、大きな岩のようなものがある感じだ。それを観察していると、岩の塊が右のほうにゆっくり移動していき、蓋が開くように右ひざ方向に消えていった。その後、骨盤の真下がじわじわと熱くなってきて、そのエリアがどんどん広がっていく。熱い、熱い。まるで、火山のマグマがゆっくりとあふれ出てくるようだ。
 もしかして、これが「オッパイ魔王」の正体なのもしれない。けれども、先端が少し見えただけで、その下に広がっている質量の大きさを感じさせる。お尻の下のマグマはどんどんあふれ、やがて瞑想ホール全体を覆うほどになった。そしてそれがゆっくりと消滅していき、オッパイをもみたいサンカーラは消えてしまった……というドラマチックな展開を期待したものの、それほど広範囲に広がらず、インドの祭りや日本の山車のような集団が左ひざの先の方向に向かって、楽しそうに去っていった。もしかして、あれはオッパイ祭りの集団だったのだろうか?〉

 その後、右の尻にピンポン玉くらいの痛みが浮かんできたのだが、そろそろ瞑想時間が終わる。休憩時間もそのまま観察しようと思ったが、道のりが長そうなので、夕方のティータイムで食堂に向かう。
 女性用の食堂は1階にあり、男性用は2階に分かれている。いちばん端の窓から女性宿舎の入口がちらっと見えるので、試しにその席に座って、これまで避けてきた女性の姿をちらっと見てみることにした。

〈おや、女性を見ても、今までのように妄想がふくらまないぞ。それなら試しに、オッパイを凝視してみよう。オッパイビーム発射!(女性参加者のみなさんすみません)

 おお、心の変化が何も起こらない。これはひょっとすると……。〉

 カーン、カーン、カーン

 第2ラウンドのゴングが鳴り、オッパイ魔王との戦いに挑むものの、なかなか続きが始まらない。

〈やっぱりそう簡単にはいかないか。手ごわい相手なのはわかっている。山頂にちょっと傷をつけて、手負いの状態になったオッパイ魔王は引っ込んでしまったのかもしれない。まさに今、オッパイ山の頂にちょこんと坐って瞑想しているようだ。〉

 そのまま1時間が過ぎ、夜の講話が始まった。

 心と身体の現象を観察するにつれて、しだいに反応することを止めはじめます。無知から抜け出しはじめます。反応という習慣は無知から生まれます。自分自身の内の真実、現実を観察したことのない人は、その奥深いところで何が起こっているのかを知りません。渇望や嫌悪がなぜ起こるのかを知りません。そして、それが自分を苦しませている原因なのだということも知りません。
 ゴータマ・シッダッタは渇望と嫌悪の原因をつきとめ、それを感覚という、問題の根元の部分から滅することにより解脱に至りました。そしてそののちは、自分の経験を通して成し得たことを、ほかの人々に説き続けました。
 自身の内に現れているすべての感覚に気づき、それに対して平静さを保つとき、そこに反応はありません。そのとき、人は苦しみから自由であることに気がつくでしょう。

 すべてのサンカーラは無常であると、
 智慧を持って観るとき、人は苦悩から離れる。
 これこそが浄化の道である。
 ダンマパダ 二七七

 身体の構造のすべては、四つの要素とそれぞれの性質からなるカラーパというもので構成されています。物質の極小の単位であるカラーパ(微粒子・素粒子)は、土(重さ)、水(結合)、空気(動き)、火(温度)の性質があり、もしもカラーパが火の要素を強くもって現れるならば、熱さや冷たさの感覚が起こるでしょう。

〈もしかして、マグマのような熱さは、オッパイをもみたいという情熱(火)のカラーパだったのだろうか。寝るときに、“息子”に話しかけてみる。今まで、すまなかったな。夜中に元気になるのではなく、イザというときに頼むと思ったけど、こんなに常に発情していたら、いつが本番かわからないし、そうやって深夜に発散しないと体がもたないので、君も仕方なかったんだね。「まったくそのとおりだよ」という返事が聞こえたようだった。〉

 翌日、骨盤からわき出てくるマグマの続きを観察したいと思うが、感覚は思ったとおりに出てこない。本来なら、どんな感覚が現れても、それに意味をつける必要はなく、ただただ客観的に観察するのが、ヴィパッサナーの目的である。何かの苦しみに対応する感覚を探してはいけないのだ。現れてほしい感覚を求めると、それが現れないときに苦しみに変わる。執着することなく、区別することなく、ただ観察していれば、その結果として、何かの苦悩が消えていることに、あるときふと気づくのだ。
 感覚は一瞬一瞬、身体の内側に生まれている。表面意識はそれに気づいていないが、無意識の心はそれを感じとっていて、好んだり嫌ったり、反応している。平静であるように心を育てれば、盲目的に反応する心のクセはなくなっていく。人生を本当に変えたいと思うならば、身体の感覚を観察することを通して、心の平静さを育てなければならない。それを身につけさえするならば、調和のとれた幸福な人生を過ごすことができるだろう。

 8日目。今までに2回、十日間コースに参加して、両方とも詳細な瞑想日記を書いてきた。今回、性の悩みに向き合うことになったことも、もしかしたらオープンにしてみんなに笑ってもらったほうがいいのではないかと思い始める。コースから帰ったあとのことが浮かんできた。

〈いやあ、この前の瞑想はすごくてさぁ。すごく恥ずかしいことだけど、思いきって公開しちゃったよ。そう言うと、瞑想レポートを読んだ友人たちは、そのバカバカしさに笑いつつも楽しんでくれたようだった。EDの悩みについても、少し理解してくれたみたいだった。
 とあるワークショップに参加している女性たちが集まって、「で、このなかで誰のオッパイがいちばんいいの!」と詰め寄ってきた。「そうよ、言ってみなさいよ〜」と、ほかの女性たちも僕をからかう。僕は「え〜、本当に選んでいいんですか〜」とへらへら笑いながら、誰が1位か考えている。
 「CさんとMさんが僅差で争ってるんですが、1位はMさんに決めました!」と僕が言うと女性たちは盛り上がり、「Mさん、せっかく選ばれたんだから、ちょっと触らせてあげなさいよ」とそそのかしている。僕はさらに鼻の下を伸ばし、「い、いいんですか〜」と彼女に近づいていく……。〉

 カーン、カーン、カーン

 はっ!
 気がついたら脳内「オッパイ選手権」を開催してしまった。友人女性のみなさん、すみません。もう、完全に自分をコントロールできなくなっている。

 この夜の講話で「種の話」があった。種を蒔くと、やがて実を結ぶ。その実の中には、同じ性質を持った種がたくさん入っている。そしてそのひとつひとつの種がまた芽を出し、大きく育ってさらに実をつける。自然界には、このように増える営みがある。同じように、人は無知ゆえに「サンカーラ」という種を蒔いてしまう。そのときに肥沃な土地があれば、サンカーラは芽を出し、新しいサンカーラが実を結ぶ。そうやって、その人の苦悩は増え続けていくのだ。

〈日々の妄想でオッパイをもみたいサンカーラの種を蒔き続けて、その結果として同じ性質のものが実を結ぶとしたら……。もしかしたら、EDの症状も深夜の勃起も、このサンカーラの果実かもしれない。オッパイをもみたいけどもめない、エッチをしたいけど勃起しない、勃起しているけど相手がいない。このどれもが「もどかしさ」という気持ちで共通している。オッパイ選手権の妄想も、実現しないことの刺激を求めていたのかも?〉

 ヘレンケラーの三重苦のように、精神と肉体がねじれてしまったのは、積み重なった妄想が原因だったのだ。買い物依存症のように、商品を手にすることが目的ではなく、たんに「買うこと」に刺激を求めてしまうように、無意識のうちに「もどかしさ」を求めていたのかもしれない。ならば、「オッパイをもみたい」という日々の妄想をやめればいい。

〈そうはいっても、思いが浮かんでしまうのは、なかなかやめられそうにない。この妄想を鎮めるためには、いったいどうすればいいのだろうか? 翌日、先生に(遠回しに)質問したら「思いは止められません。でもそのときの感覚を客観的に観察することで、その思いもやがて浮かばなくなってくるはずです」と言われた。それには毎日の瞑想が欠かせない。日々の妄想でオッパイをもみたいサンカーラを増やしたら、なるべくその日のうちにその身体の感覚を観察して、クリーニングしておくことが大事なのだ。〉

 ヴィパッサナー瞑想は「心の洗濯」といわれている。体が汚れたらシャワーを浴びる。服が汚れたら洗濯する。お腹がすいたらご飯を食べる。けれども、心が汚れてもほとんどの人は何もしないし、心に栄養を与える方法もわからない。無意識のうちに汚れた心をきれいにして、心に栄養を与えるのが、この瞑想の目的なのだ。

 僕にとって性の悩みは手ごわいけれども、苦しみの原因にようやくたどり着くことができたのは大きな収穫で、まさに十日間の「心の手術」だった。これから朝に1時間、夕に1時間の瞑想を欠かさないようにしよう。今まで日々の瞑想を続けられなかったけれども、今度は平気かもしれない。そう思いながら、朝露に濡れるセンターの庭に素足で立っていた。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
幸せであれ、幸せであれ、幸せであれ。

(完)

挿絵/マシマタケシ


ヴィパッサナー瞑想に興味のある方は、以下のサイトをご覧ください。

ブッダの瞑想法 − 十日間の心の手術
http://vipassana.jp/



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