ホラー小説「きっと、まだ夢の中」

夢の中で、これが現実ではないと気付くことが出来る。

襲いくる巨大カマキリに遂に追い付かれそうになった瞬間、あるいは何故か命綱もなしに高所を歩いていて、そこから足を滑らせそうになる瞬間。荒唐無稽な夢の中で危機的な状況に陥った時に不意に”気付き”がやってくるのだ。自分は今夢の中にいると。

しかし、これは夢の中で好き放題に闊歩できるような類いのものではない。夢の中で窮地に陥った瞬間に、これはただの夢に過ぎないと気付くことが出来るというだけのものだ。しかし、”気付き”を得ることさえ出来れば、巨人の手の中で握りつぶされる寸前だろうが、煮えたぎる油の中に今まさに突き落とされる前であろうが恐るるに足らない。夢で致死の痛みを味わった試しもない。覚めれば全て元通りだ。

だから、歪なフォルムの巨鳥に咥えられ、上空で離され、墜落させられた夢を見ていたにも関わらず、その日の覚醒も安堵感に満たされたものであった。

水底から水面へ向かうような浮遊感と共に酉島亮平は目を開けた。
寝室はいまだ薄暗く、壁にかかった時計は3時30分付近であることを告げている。ふと、隣を見れば、妻と息子は身じろぎ一つしていない。どうやら深い眠りの中にいるらしい。
ため息を一つ吐き、上半身を起こした。このまま起きているには微妙な時間だ。一眠りしなければ仕事に差し支えるだろう。
しかし、その前に水を飲まなければならない。喉が酷く渇いていた。

冷蔵庫には水が入っていなかった。妻が補充を忘れたのだろう。無造作に床に転がっていたペットボトルを掴み、苛立ちまぎれにキャップを乱暴に開けて、生ぬるい水をコップに満たした。

妻との間に亀裂が生まれたのはいつからだろうか。およそ1年程前、長時間労働の是正という名目の元、定時退社が半ば義務のようになってからだろうか。結局仕事自体は減ることはなく、残業代は無くなり、家で残務処理をする羽目になった。収入が減った上に、自宅で家事を手伝いもせずに、ただただ仏頂面でパソコンをカタカタいわせているように見える亮平の姿は、妻にとって如何ともしがたく腹立たしいものであるようだ。
家に居る時間は増えたのに、日によっては一家三人がしっかり顔を合わせるのは食事時だけということもある。そしてその食事時にも会話は少ない。妻との会話は最低限のものだし、先日5歳になった息子も、幼いながらに雰囲気を察してか最近は言葉が少ない。食卓ではテレビの音声だけが虚ろに響く。

あるいは5年程前、妻が息子を妊娠中していた頃、残業や飲み会などで家に帰るのが頻繁に遅くなっていた頃だろうか。具合が悪そうにしていたり、疲弊している妻を横目に見つつ、家庭を顧みることが少なかったように思える。
言い訳をするなら、当時急遽他部署に移ることになり、不慣れな仕事をこなしながら、ほとんど知らない同僚と良好な人間関係を築くことに必死だったのだ。それも妻と、生まれてくる子どものためだ。亮平はそう信じていた。今でも全てが間違ったことをしていたとは考えていない。しかし、後悔は残る。あの時、もっと歩み寄っていれば、家庭の形はもっと違うものになっていたはずだ。
思えばかつてはよく笑っていた妻が、頻繁に不機嫌そうな顔を見せるようになったのはその頃からではなかったか。

あるいは、あるいは…
我に返り時計を眺める。気が付けば時計の針は4時を少し回った時間を示していた。流石にこのまま起きていては仕事に差し障りがある。
ぬるい水を飲み干した。早く寝室に向かわなければならない。
ふと、自分の服の襟元に米粒がついているのに気が付いた。おそらく息子が食べこぼしたものがどこかでくっついたのだろう。思わずおかしくなって笑ってしまった。
ひとしきり笑い終わると、不意に名案が浮かんだ。今まで変な意地を張りすぎていたのかもしれない。今日から二人に歩み寄ろう。少々遅くなってしまったのかもしれないが、どうしようもなく手遅れということはないはずだ。全てのすれ違いの原因を自分のせいにしてしまってもいい。盛大に謝ろう。もう一度やり直すのだ。

何かから解放されたような晴れやかな気分で、ゴミ箱に捨てようと服に付いた米粒を掴む。しかし、米粒らしからぬ妙な弾力がある感触と、手の中で蠢くような動きに驚き、思わず手を振るう。
米粒はどこへ飛んだのか、周囲には見当たらない。
悪夢のせいで知らず知らずの内に気が張っているのかもしれない。米粒が勝手に動き出すはずもない。
高揚した気分に少々水を差されたような気がしつつも寝室の戸を開けた。

妻と息子は先ほどと寸分違わず同じ体勢で寝ているように見えた。息子は寝相が悪いので少し違和感がある。
隣に横たわろうとしたところで、ふとおかしなことに気付く。二人の寝息が聞こえない。
薄暗闇に目を凝らすと、二人とも微動だにしていないのが見てとれた。いくら深い眠りの中にあるといっても、全く動かないのは異常だ。呼吸をしている限りは、少なくとも胸部は動くはずだ。
嫌な予感に突き動かされて、妻の口元に耳を寄せる。耳が妻の顔面に触れ、そのぞっとするほどの冷たさに背筋が凍る。
息を、していない。
同じく身じろぎ一つしていない息子に今更ながらに気付き、ふらつきながらも近づく。息子も呼吸をしている様子は見受けられない。
二人とも最近はほとんど見ることのなかったような穏やかな顔で、幸福な夢にまどろんでいるかのように、死んでいる。

救急車を呼ばなければ。いや、その前に応急処置だ。しかし、何をすればいいのか。こんなことなら講習をもう少し真面目に受けていればよかった。
まとまらない思考の中で、誰かに助けを求めようと、傍らに落ちていたスマートフォンを拾いあげた。

その瞬間は、いつも意識の間隙を縫って唐突に訪れる。
雷撃に打たれるような、それはある種の”気付き”だ。
そう、これは夢の中だ。

腰が抜けたようにしゃがみ込み安堵する。
馴染みの感覚が全ての破滅からの回避が確約されたことを主張している。
握りこんだままになっていたスマートフォンからけたたましい音が響き始める。おそらく現実のアラーム音が夢に伝播しているのだ。
後は、目覚めを待つだけだ。

水底から水面へ向かうような浮遊感が、今回も亮平を覚醒に導いた。



目覚めると、寝ぼけ眼のまま即座にアラームを止める。
辺りを見回すとリビングのソファで丸くなっていることに気付いた。体の節々が痛む。かなり窮屈な体勢で寝ていたようである。夢見が悪くもなるはずだ。
しかし、嫌な夢だった。それに悪夢から目覚めても悪夢が続くというのは初体験である。ストレスが溜まっているのかもしれない。
これも夢でなければいいのだけど、などと独り言ちて、へらへら笑いながら立ち上がる。どこか気分が浮わついている。
何故自分がソファで寝てたのか思い出せないが、アラームは7時にセットしている。そろそろ二人も起こした方がいいだろう。

リビングから寝室まで近づくにつれ、周囲に酷い悪臭が漂っていることに気付いた。
いや、厳密に言うと気付いたというのは正しくない。ただ、それを意識に上らせることを何故か拒んでいただけで、起きた瞬間から鼻をつくような臭気は薄く、されど確実に広がっていたのだ。

鼻を袖で覆いながら、寝室まで辿りついた。
そこに何が有るのかを、寝室の扉が目に入った時には思い出していた。
6日前の話だ。その日、ひょんなことから妻との口論が始まった。理由はとてもささいなことだ。寝室で亮平が仕事をしている最中に、妻が晩御飯が出来たのを扉越しに伝えてきたのに対して返事をしなかったのだ。
それが妻の怒りに火を点けたのであろう。扉を開けて罵倒を繰り返す姿に亮平も怒りを抑えきれずに罵倒し返し、後は売り言葉に買い言葉で口論はエスカレートしていった。
普段なら喧嘩をするにしても、息子に聞こえないようにするくらいの分別は持ち合わせていたのだが、その日は声を荒げ過ぎたのか、いつの間にか息子が近寄ってきてしまったのだ。
おそらく、日頃から妻に聞かされていたのだろう。母親と言い争う父親を見た息子は憐れむような眼をしながら拙い声で、安月給で無能なお父さんが悪いんだからお母さんに怒られているんでしょ、謝った方がいいよと言った。そしてそれを聞いて、勝ち誇るように頷きながら歯をむき出して自分に笑いかける妻を見た瞬間、亮平の思考は白く染まったのだ。
そこから先の記憶は曖昧だ。
ただ気付けば妻と息子は折り重なるようにして倒れ伏していた。慌てて二人を抱き起した亮平は、二人が浮かべる苦悶の表情とその首に残る赤い手の跡から、二度と覚めない眠りに堕ちたことを察した。

この記憶が嘘であることを必死に願いながら、半ば衝動的に寝室の扉を開ける。
果たしてそこには妻と息子の屍が転がっていた。死体はかなり腐敗が進行しており、そこから元の姿を想起するのはすでに難しい。加えて死体には無数の蛆がたかり、変色したシーツに零れ落ちた蛆が蠢くのが、いやに白く目立って見える。まるで米粒のようだ。

ピンポーン。
突如鳴り響いたチャイムに狼狽え、膝から下の力が抜け、崩れ落ちるようにして床に手をつく。手のひらで蛆を複数匹潰したことを、ぐちゃっとした感触が伝えてきている。幸運にも圧死から免れた蛆が、指と指の隙間で蠢いている。だがそんなことに頓着する余裕はない。
ふらふらと立ち上がり、ドアホンに向かう。この状況では居留守を使う方が良いのではないかといったことを考える思考を巡らせる余地はなかった。
もはや、危機からただただ逃れる獣のように、寝室から逃げ出したかっただけだ。

これは夢に違いない。そうぶつぶつ呟きながら這いずるように移動し、リビングにあるドアホンたどり着く。チャイムはその間、鳴り続けていた。
無理矢理にでも心を少し落ち着け、受話器を取り上げる。

「どのようなご用件でしょうか、こんなに朝早くから」
「どうも警察の者ですが、早朝より申し訳ありません。少しお時間頂いてもよろしいですか?」
モニター画面には、50絡みの男が警察手帳を顔の横に掲げて立つ姿が映っていた。画面の端にはちらちらと別人の服が見え隠れしている。他にも何人か控えているのかもしれない。
「酉島亮平さんですよね、あなた。申し訳ないんですが、あなたの奥様の、えーと茜さんがパートをずっと無断欠勤しているのを気にされた方がおられまして。電話にも反応が無いし、どうやらご自宅まで様子も見に来ていたみたいですが、中に誰かいる気配があるのに、暫くチャイムを鳴らしても何の反応も無かったとのことでして、それで通報されたみたいなんですよ」
家に来られたのは昨日のことになるんですが、誰か来ていたのご存知でしたかと続ける男に何も返せない。記憶が酷く曖昧だ。
あるいはこの記憶のあやふやさこそが、これが夢である証拠ではないか。
「私どももその確認に一応参った次第でして、奥様どうされたんですか?」
「・・・体調を崩してまして」
「電話も出れないほどですか? 失礼ですが病院には行かれたので?」
「いいえ、その本人が行くのを嫌がってるのですよ」
それは大変ですねえ、などと返しながらも男は亮平の返答に納得している様子は微塵も見受けられない。
「息子さんもおられると聞いてますが、奥様がその調子では大変ですね。どうやら幼稚園にもここ何日か行ってないそうですが」
口ごもる亮平の様子に頓着せず、続ける。
「話は変わりますが、酷い臭いですねぇ。生ゴミ出せてないんですか? ここら辺は、今日が生ごみの日みたいですけど、早朝よりお騒がせしているお詫びにお手伝いしましょうか?」
「いや、それはその申し訳ないですし・・・」
「なあ、酉島さん。二人とも死んでるんじゃあないのか?」
不意に差し込まれた疑問に、目の前が暗くなる。男はすでに何かを確信しているのだろう。誤魔化すことは不可能そうだ。もはや亮平の口から漏れるのは、あぁとかうぅとかのうめき声だけだ。
「とりあえず、鍵を開けてもらえませんか? 無理なら押し入ることになりますよ」

亮平はうめきながら、頭を抱え床にへたり込む。
追い込まれ、混乱しきった中で残されたのはたった一つの希望だ。
すでに現状、破滅寸前の致命的な状況と言っていいだろう。
これが夢の中ならば、今すぐにでもいっそ暴力的と言ってもいい、あの”気付き”がやってくるはずだ。
家に上がり込んだ何人かの足音が聞こえる。

何も恐れることはない。
きっと、まだ夢の中にいるのだ。
亮平はいまかいまかと待ち続けている。
おそらくいつまでも。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?