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ひろく思ってゆるく考える

意見の否定を人格の否定と混同してしまう人がとても多い気がする。

最近それは、「熱の分散度」と「言語化のハードル」が関係しているのではないか思うようになった。
 

熱の分散度


ここでいう熱は、「好き」とか「偏愛」とかいう言葉でも置き換えられる。

熱の分散度というのは、自分が持っている熱の総量に対して、熱を注ぐ対象がどれだけあるかということ。その対象はある思想かもしれないし、好きなアーティスト・作品かもしれないし、愛するスポーツかもしれない。世の中のすべてが熱を注ぐ対象になりうる。

自分が持っている熱の総量100のうち、90をあるアイドルに注ぐ人がいるとする。
多分そうなると、そのアイドルにはその人自身がほとんど否応なく投影されてしまう。だからそのアイドルを否定されることは「それに熱を注ぐ自分」を否定されるのにほぼ等しいのではないか。だからYoutubeのコメント欄でよく見る「否定的なコメントするなら見るな!」云々の地獄論争が起きるのではないか。

そういう人たちに「意見の否定と人格の否定は違うんだよ」という正論を言っても、きっとその人たちにとってそれは正論を正論と思う余裕がなくなるほどの強いショックなのだ。

逆に、100の熱を1ずつ100の対象に分散させている人は、そのうちの1つを否定されるような意見に出会ったところで屁でもない。だからそれをわざわざ自分の人格否定に結び付けることもない。

そもそも、人が1つの対象に多くの熱を注ぎたくなってしまうのは、「自分よりもそれを好きな人が存在すること」が嫌だからじゃないだろうか。

みんな「好き」の強さを競い合っている。

そんなことする必要本当はないのに。という話は前のnoteでしたので、ここでは割愛して次の「言語化のハードル」の話に移ろう。

言語化のハードル


これは自分の考えを言葉にすることの主観的なハードルがどれだけ高いかということ。

考えを言葉にして外に出す機会がふだんから多い人は、頭の中にある漠然とした考えに言葉で輪郭を与えるという行為を何の気なく行える。
でも、そうでもない人にとっては、思考を言語化して外に出すのはけっこう骨が折れる作業だ。

誰しも、何か選択を求められたとき、つい「なんでもいいよ」と答えてしまった経験があるのではないだろうか。そしてそれが本当はなんでもよくはなかった、という経験も。

自分の頭の中には何かしらの志向があるのだけれど、それは雲のように漠然としていて掴みがたい。だからつい「なんでもいい」と片付けてしまう。

選択にはエネルギーを使うのだ。

そしてある程度の思考のまとまりを文章にするというのは、こうした選択の連続だ。ひとつひとつの思考にどう言葉を与えるかの選択があり、それをどう並べるかの選択がある。それが幾百幾千と連なる。

だから、言葉にするのはそもそもがめんどくさい。ふだんからそういう機会がない人にとってはよりいっそうに。

そんな人が高いハードルを越えてなんとか発した言葉には、その苦労分だけの愛着が生まれる。それを否定されれば、発言者にとってはその苦労も含めて否定されたような気持ちになるのではないか。

つまり、結局は一つ目と同じ話で、言語化の苦労ゆえに自分の発言が”熱を注ぐ対象”になってしまうのだ。

ひろく思ってゆるく考える


もっと色んなものを簡単に好きになって、また自分の考えを適当に言葉にしていけば、熱は分散して言語化のハードルも下がるから、自分の意見が否定されてもちょっとやそっとじゃ傷つかなくなるんじゃないか。

そういう意味で、「ひろく思ってゆるく考える」という姿勢は、世界をもうすこし円く滑らかに、そして平和にしてくれるんじゃないか。

なんてことを結論めいたものとして出そうと思ったけれど、「好きなものを増やして考えることに慣れろ」って、結局は「大人になれ」って言っているのとほとんど変わらないような気がしてきた。

・ ・ ・ ・ ・

ぼく自身熱を注ぐ対象が多いということと、noteを始めて文章を外に出す量が激増してから考えを否定されることへの抵抗感が減った、という経験から感じていたことをなんとなく言葉にしてみました。

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