生活のなかの芸術

札幌大通地下ギャラリーの500m美術館に行ってきた。その感想を書こうと思う。ただし、作品それぞれの感想というよりは空間そのものに対する感想だ。

場所は地下鉄大通駅とバスセンター前駅の間の通路だ。そこにさまざまな作品が展示されている。テーマは「最初にロゴス(言葉)ありき」。

僕がこの展示に興味を持ったのは、好きな詩人である文月悠光さんの作品が展示されていると知ったからだ。調べてみると、テーマも僕好みのものだった。

いざ行ってみると、無機質な地下通路に芸術としての言葉があふれていることが印象的だった。こういう場所の言葉は広告がほとんどだからだ。

多くの人が歩きながら、ときには立ち止まって作品を観ていた。横目でちらっと観る人もいれば、作品の正面に立ってじっくり眺めている人もいた。若い人やご老人、なかには興味津々といった様子で観ている小さな男の子もいた。

直接的に関わっている人たちを除けば、芸術作品や詩歌に日常的に触れている人は少ないと思う(少なくとも僕の周囲はそうだ)。しかし、この500m美術館ではそのような人たちも気軽に芸術に触れることができる。しかも、もともとこの場所はただの通路で、本質的にはただの歩く場所だ。そこに気軽に(しかも無料で)観ることができる作品を展示することは、芸術を生活のなかに置くことだと考える。

芸術がすべて高尚なものである必要はないと考える。むしろ、入館料を払って非日常的に鑑賞する作品より、生活のなかにたしかに存在するこれらの作品の方が、ある面では確実に素晴らしいものであるとすら思う(非日常的に触れる芸術も素晴らしいものであることには違いないが)。

はじめ、僕はあえて立ち止まらずに人の流れにのって歩きながら鑑賞してみた。そういう鑑賞方法がここでは想定されていると思ったからだ。すると、興味深い現象が起きた。

歩きながらだと一度にすべての言葉を読むことはできない。しかし、観ているとふっ、と浮かび上がってくる言葉があるのだ。意識の一段階上に上がってくるような感覚だ。その言葉はしばらく僕のなかに残っていた。多分、その言葉は鑑賞したときの自分の琴線に触れたのだと思う。

この通路を歩いて、作品に触れた人を想像した。彼ら彼女たちは会社や学校、あるいは友人、恋人のもとに向かって歩いている最中、ふと目に留まった言葉を抱いて目的地に向かう。しかも、毎回目に留まる言葉は違うかもしれない。そのときの自分の琴線に触れた、磨かれた言葉を胸にさして歩みを続ける。その言葉によって、それからの時間が少しだけでも良いものに変わるかもしれない。それを僕はとても美しいものだと思った。

さらに、書き手の側からすると、紙面に書かれていない言葉の表現も興味深かった。どう表現するかではなく、言葉を表現する方法、それ自体にアート性を付与するというのは文学の可能性を示唆しているように思えた。

最終的に、僕はこの通路を2往復した。はじめは歩きながら、次は一つひとつゆっくりと。明日観たら、また違って感じるのだろうなと思った。

多分、これからも500m美術館ではさまざまなテーマで展示が行われるだろう。この道を普段、僕はほとんど通ることがない。できれば、この芸術感生活の一部として鑑賞したかったというのが僕の思いである。

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