初期衝動と言葉について

気づいたら、11月になっていた。

個人的な感覚では、まだ9月ぐらいなのだ。このままだと、瞬きをしたら12月なって、欠伸をしたら年が明けているかもしれない。年が明けてしまったら、数え年で20歳になる。20歳という年齢は僕のなかでとても大きい(17歳と同じぐらいに)。

マクロな視点に立つと、非常に年月のスピードが速いのだけれど、ミクロな視点に立ってみるとそうでもない。なにもない無為な毎日ではなかったのだ。たくさんの人との刺激的な出会いがあったし、いい本を何冊も読んだ。

けれど、振り返ると荒原が広がっているようなのだ。

有意義な時間はあったけれど、そうでない時間がほとんどであった気がする。そもそも有意義とはどういうことを言うのだろう。その時間が有意義か無意義かを決めるのはいつなのだろう。

僕がすべての記憶を保持している人間だったとして、確実に有意義だと判断できる経験があったとしよう。けれど、実際の僕は忘れっぽいので、それを忘れてしまう。有意義だと判断できる基準をあとから得たとしても、僕はそれを有意義と判断することができない。忘れてしまっているからだ。そういうことは多分、実際に起きてしまっている。

そのことが僕はひどく寂しく、悲しい。

だから、それを感じた当時の僕が有意義だと思ったことを忘れないうちに形にしておきたい。

それが僕がこの〈note〉で文章を書く理由だ。

だからこれは本来、他人に見せるものでない備忘録だ。けれど、僕はこれを他人には一種の私小説として読んでもらいたくもある。

そして今、僕はあることを思いついた。言葉は〈空っぽの入れもの〉でしかない。たとえば、この文章は僕が考えたことを基に書いている。しかし、朝になれば、あるいは文章を書き終えて歯みがきを始めるころにはその思考は確実に劣化してしまう。

僕が完全にその思考を忘れてしまったとき、残るのはこの文章という〈入れもの〉だけだ。言葉から個人的な意味は失われている。

この思考を完全に忘れた僕が、この文章を改めて読んだとき、同じ思考をするという可能性はほとんどない。たとえば、この文章を書いたあと、誰かにこの理屈を木っ端微塵に論破されたとしよう。そんな僕がこの文章を改めて読んだとき、僕はそれを書いた僕を愚かだと思うだろう。

これは極端な例だけれど、確実に言えるのは、これを書いている、この瞬間の僕とそのあとの僕は同一ではないということだ。さらに飛躍すれば、厳密には今の僕とそのあとの僕は他人であるとさえ言える。そして、同一でない僕がこの文章という〈入れもの〉を見たときに見出すものは異なってしまう。

つまり、これを書き終えた僕が読んだこの文章は、すでに別の人間の私小説として変化してしまうのだ。

僕は少しばかり期待している。僕にとってこの文章が別の人間の私小説になって、そこに書かれた〈僕〉になにかを感じるということを。

僕はもともと、こんな話をするつもりはなかった。書いている途中で、ふと思いついた理屈を書いたのだ。

こういう偶然性が、この文章にはふさわしい。




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