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オタクの面白いはあてにならない場合があるという話と『動物化するポストモダン』を読んだ感想(2023年5月7日の日記)

オタクの面白いはあてにならない場合がある

オタクが言う「面白い」というのはあまり信用ならないと思っている。なぜならオタクが面白いと思う作品は楽しむために前提となるお約束が多すぎて面白さがタコツボ化している場合があるからだ。

これはアニメや漫画だけでなくあらゆる業界に起こりがちな現象だと思う。なのでここで言っている「オタク」というのは1つの界隈にどっぷり浸かってる人を指す。

面白さというのはタコツボ化しやすい。自分の面白さが無意識のうちに他者にも通じるだろうという錯覚が起こってしまうのである。もちろんその分野のオタク同士であれば通じるのだが、オタク以外の人には通じない場合は多々あってしまう。

というかあらゆる面白さがタコツボの大小はあれどタコツボ化しているとも言えそうな気がする。万人に通じる面白さというものなんて基本的にないのかもしれない。

だが多くの人に通じやすい面白さはあると思っていて他人に面白さを伝える場合はそこを多少なりとも意識する必要はあるとは思う。そこまでして他人にヒットしやすい作品を考える必要があるのかというのはあると思うがどういったものが多くの人に通じやすいのか、その傾向を考えてみるのは面白いと思う。

あと1つ言っておくと文脈が多くなった方がオタク的な面白さは増すというのもあると思う。ほとんどの人に通じないマニアックなネタで盛り上がった方が面白い。局所的な共感の方が多くの人に刺さる共感よりも刺激が強い。ただそれが局所的であるいうことについては自覚したほうが相手に伝わりやすいのではないかという話である(この局所性は内面化しやすい)。

『動物化するポストモダン』を読んだ感想

ツイッターでアニメの感想とかを見ているとたまに「データベース消費」という用語が流れてくる。どうやら元ネタは東浩紀の『動物化するポストモダン』らしく気になったので読んでみた。今回はその本を読んだ感想を書いていこうと思う。

正直な話、納得できない部分が多かった。その理由としては「大きな物語」という概念がいまいち理解できなかったからである。

本書では従来の作品の特徴である「大きな物語」とポストモダンにおける作品の特徴である「小さな物語と大きな非物語の二重構造」という対比が提唱される。自分はこの対比がよくわからない。というのもそこまできっちりと判別可能なのかという疑問があるからである。

アニメやゲームは従来の文学や演劇などにおいてもデータベース消費的なことってされている。萌え要素ではないが、熱くなる要素とか英雄的なよくある描写はデータベース消費的と言えるだろう。個人的にこういったデータベース消費的な要素は単なる作劇技術だと思っている。

キャラクターをツンデレとかお嬢様など記号的に解釈するというのがデータベース消費だと言えるが、あらゆる人間の認識が記号(言語)を介さないと不可能だとも思うので最初の段階においてそういう記号以外で物語やキャラクターを認識するのって無理なんじゃないかと思う。

人が他人を認識する場合も最初の段階だと「良い人そう」とか「ちょっと怖そうな人だな……」といった風に記号化すると思う。そこからその人を知るにつれて解像度が上がっていく。キャラクターや物語を見る場合もそれと同じで最初は記号で認識するがそのあとに様々な描写によって解像度が上がり記号以上の存在になると思う。

なのでどんな対象に対してもデータベース消費的な見方をしてしまう面があるのではないだろうか。それこそがオタク的なコンテンツの特徴と本書では言っていると思うが人間の認識構造がそうなっているだけな気がしてしまう。単純に「大きな物語」という概念を理解しきれてないだけなのかもしれないが、そういう意味で本書の内容のほとんどがあまり納得できなかったというのがある。

ただ理論としては面白くはありこの分野に興味はもったのでサブカル論的なやつも読みたくはなってきた。

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