幽谷霧子『 縷・縷・屡・来』の感想
なんとなく霧子コミュが読みたいなと思ったので『縷・縷・屡・来』を読んでいこうと思う。トワコレの時に神々しさに惹かれて引いてみたけどまだ読んでなかった。せっかくなので読んでる最中に思ったことなどをこの記事に書いていく。
1話目:る、る、る、く
事務所で眠っている様子の霧子。なぜ事務所で寝ようとしているのかは不明だが、その前に夢風の映像が差し込まれている。結構幻想的な内容なんだろうか?
霧子は小さい頃から動物のブランケットを使っている模様。関係ないけど霧子がいろんな対象にさん付けしてると急に呼び捨てがくるんじゃないかと身構えてしまう。
霧子曰く、霧子がこのブランケットの町にいたらしい。幼児期にそういう自分だけの動物世界みたいなものを想像していたということだろうか?
「眠る」「始まる」「なる」の「る」を3つと「動く」の「く」で「るるるく」ってことで良いんだろうか?それぞれの先頭を持って来て「ねはなう」でも良さそうだけど後ろの方を持ってくるというのにも何か意味があるんだろうか?
ここで言っている「見えない」ということにはどういう意味を含ませているんだろうか?もちろん常識的に考えるとブランケットの絵が動き出すわけないから見えないわけだけど、ここでは霧子母とシャニPの差異が描かれているような気もする。ただその意図がよくわからない。
2話目:くる
冒頭でいきなり洞窟の背景が出てくる。これは1話目にも出てきた。るるくく町に関係あったりするんだろうか?
怖……!いきなり出てきたからちょっとゾワッとした。若干QB感がある。この後公園の場面に映りその時にまた一瞬だけこの目線がテレビの砂嵐のような背景とともに映る。
これは別のコミュであったりする話なんだろうか?
見てない時に動き出すブランケットの世界のように見えないお墓の下にも観測されてないがゆえに存在する世界があるというようなお話?
ふと思った話。「るるるく」の最初の「る」は1話目によると「眠る」の「る」で、このコミュの2~5話目のタイトルの末尾はそれぞれを合わせると「るるるく」となる。つまり2話目は「眠る」に対応していると言えそうである。
そんな第2話目で「眠る」という話が出てくるというのは意図的に出してきているように思える。眠るといっても永眠という意味だが。
[追記]
最後まで読んだけどそこまで2~5話目のタイトルに対応してないかもしれない。
やっぱりブランケットの動物の絵が動き出すという話に対応してそうだ。生物が永眠した後に始まる世界があるというそういう話なのだと思う。そして1話目によると「始まる」は「るるるく」の2つ目の「る」に対応している。
誰かに覚えててもらう時間がまた始まるとのことだけど、永眠してしまった存在が生まれ変わってまた始まるということなんだろうか?素朴な生命の流転の話をしているのかもしれない。
急に祈りの話をし始めたシャニPに答える霧子。正直よくわからなくなってきた。目を閉じてブランケットの動物たちが動き出すのを想像する行為と目を閉じて祈るという行為が対応しているということだろうか?
ブランケットの動物たちは目を閉じた瞬間に動き出すわけだから、目を閉じた瞬間に生まれているとも言えそうである。逆に言えば目を開けたときは生命が停止しているともいえるのかもしれない。
そう考えると道端に落ちていたセミの亡骸を見て目を閉じ、生命を感じるという見方もできるかもしれない。
ただ覚えておくという話が説明できてない気がするのであまりしっくりこないというのはある。今回のコミュ、難しすぎる……ただ考察しがいがあって面白い。
3話目:おぼえてる
幼少期に熱を出した霧子と現在病院に連れていかれたらしい霧子が描かれる。ここで霧子の母親がやたらと出てくるのでもしかするとシャニPと対比させているのかもしれない。
幽谷先生……!?
霧子の母親って医者だったりするのか?もう他のコミュで出ている話かもしれないけど自分としては初めて知った。自分の子にもかかわらずトリアージが考慮できるのは医療関係者っぽい。
2話目までは祈るという行為をする主体が目をつむる側だと思ってたけど、この話の場合はセリフからシャニPが祈っててくれたというような意味合いで言ってると思うので解釈が違ってたかもしれない。
シャニPや霧子の父がブランケットを持ってきたことによってブランケットの絵というものが動き出すんじゃないかという祈りの下地ができたということか?(これもしっくりこない)
4話目:いる
想像していたブランケットの世界のような光景がこの海に広がっているということだろうか?いまいち関連性がよくわからないというのがある。
アニメーションを見るにブランケットの動物たちに対応するのは具体的に存在する浜辺のカニや鳥たちというよりは海に潜ることで霧子が想像した海の中にいる世界の動物たちっぽい。
目をつむって祈るという行為が生命のない場所に生命を付与するということを描いているっぽい気がする。海の中に潜ったことで霧子はそこにいないはずの小鳥や沢山の生きているものを想像することができたということなのだろうか?
この霧子のアニメーションの絵自体に本当は霧子が写っていないということなんだろうか?そこにいないはずの霧子を感じるというのはブランケットの動物の絵に生命を感じるというのと同じ構図な気がする。
5話目:ゆく
ブランケットが傷んでしまいお別れの時間だと言う霧子。霧子の中ではもう動物たちの生命が感じられないほどボロボロに見えてしまうのかもしれない。
最後まで読んだ感想
たぶん理解できてないなぁと思う部分もあり、逆にいくつか理解できるところもあって読み応えのあるコミュだった。特に記憶の話がいまいち咀嚼できてない気がする。
若干オイサラバエルにも近いように思う。オイサラバエルの場合はミロのヴィーナスのように存在しない部分を補完するという余地が美しさにつながっているという美の面を強調してるけど、このコミュにおいては補完すること自体がいのちを与えているというような生命に着目した話だったように感じた。
透のコミュが好きなのでテイストが似ているこのコミュは非常に良かった。これを機に他の霧子コミュも読んでみようと思う。
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