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【VOICE】Vol.127 #6 内田 航平


――サッカーを始めたのは何歳で、きっかけは何でしたか?
埼玉県本庄市で生まれて、サッカーを始めたのは幼稚園の年少なので4歳くらいです。『すみれ幼稚園』という所に通っていたのですが、そこにサッカーチームがあったんですよ。
俺は幼稚園が嫌いでよく逃げていました(笑)。家が見えるくらいの距離に幼稚園があったので、逃走して家に帰っていました。理由は覚えてないですけど、なんか嫌いだったんですよね。みんなで一緒に撮った写真で、俺だけ馬鹿みたいに泣いていた写真も見たことがあります。みんなは部屋で授業を受けているのに、俺は幼稚園が嫌い過ぎて園長先生と外でお菓子を食べたり、ご飯を食べたりしていました。そんな時に園長先生から「幼稚園を好きになるように」みたいな感じだったと思うのですが、サッカーに誘ってくれました。

――変化はありましたか?
サッカーには夢中になりましたね。幼稚園同士の試合とか、大きな大会もあって、優勝したこともありました。

――Jリーグは開幕していましたよね?
していました。埼玉県なので浦和も大宮も知っていました。

――憧れた選手はいましたか?
いません。サッカーを観るのは特に興味があったわけではなく、冗談抜きにプロの試合を観に行ったことは1回しかありません。小学生の時、何かの大会の帰りに『日本対イラン』の試合をチームメイト全員で観に行った1回だけです。とにかくプレーするのが好きだったんです。

――小学校時代の『すみれFCジュニア』はどんなチームでしたか?
近所のチームで、楽しくやろうという集まりでした。でも、大会に出ると勝っちゃって、何となく優勝を目指していきましょうという感じになっていました。小学校5年生の時にはNTTカップという埼玉県の大きな大会で準優勝をしたこともあります。小学校6年生の時は最後に負けちゃいましたけど、全日の埼玉県大会でも決勝まで行きました。
『すみれFC』という名前はどの大会に行っても「弱そう」って思われていましたけど、試合をすると勝っちゃってましたね。

――中学校時代の『FCコルージャ』はどんなチームでしたか? 調べてみると名門と呼ばれそうなバックグラウンドでした。
名門・・・、そうですかぁ?

――プロ選手をたくさん輩出しているじゃないですか?
確かに小林祐三さん(現・サガン鳥栖のスポーツダイレクター)とか、新井章太くん(現・千葉)とか。オナイウ阿道(トゥールーズFC/フランス)は中学時代も高校時代も2歳違いで一緒にやってますね。

――やっぱり名門じゃないですか。『すみれFCジュニア』から『FCコルージャ』に加入した経緯は何ですか?
近所の友達や知り合いの人が行っていたというのは理由として大きかったです。中学になったら『FCコルージャ』に行くか、上手な子はセレクションを受けて浦和や大宮のアカデミーに行くみたいな感じでした。俺はJクラブに所属したいというような感覚はなかったので『FCコルージャ』に行きました。隣町にあったのでチャリ(自転車)で40分位でしたかね。

――遠っ!?
遠いっすよね。それに群馬県の浅間山から下りてきた風に向かう道なので、冬なんてチャリを漕いでも漕いでも進まなかったです。それで足が太くなっちゃいましたね(笑)。

――小・中の間にプレースタイルは確立されましたか?
いやー、ないっすね。勝ちたいという一心で、本当に好きでやっていただけだったので。
でも、小学生の時から細かく指導は受けました。『FCコルージャ』の所属で、『すみれFCジュニア』にも週1回とか、土日で、コーチに来てくれていた根岸さんという人がS級ライセンスを持っていたんですよ。地域では有名な方でした。今の小学生は教えられていることかもしれませんけど、当時の他の小学生には、教えられていないことを教えてもらっていました。今でいうと練習のオーガナイズみたいなものなんですけど、それを紙にバァーって書いたものを小学生の俺らに見せてくれる方でした。

――“内田航平少年”は理解できましたか?
「はあ!? サッカーってそういうものじゃないじゃん」って思ってました(笑)。それに、小学生の頃ってゲーム形式をたくさんしたりするものじゃないですか。でも、ゲーム形式はなくて、技術的なボールタッチの練習とか、首を振る練習とかをやっていました。俺は固定概念が強い子どもだったので「いやいや、こんなの意味ないでしょ!」と思いながら「サッカーやろうよ!」って思っていました(笑)。“ゲームでしょ、ゲーム!”みたいな。でも、今振り返ると、その時に教えてもらっていたことが、その後にすごく活きているんだろうなって思います。
中学時代は週5回練習していましたが、中学時代もどこかの曜日で根岸さんに教えてもらっていました。中学では技術的な部分を特に厳しく要求されました。コーチによってゲーム形式が多い方もいましたけど、根岸さんが来られた時は細かな技術の練習を中心にしていたのを覚えています。

――サッカーの概念や基礎を多く学んだのですね。
そうですね。でも、ゲーム形式が無いから、その練習日には来ない友だちも多かったです(笑)。俺は全部行きましたけどね! 暇だったので(笑)。
中学時代、俺たちの年代は、そんな風に不真面目なやつがたくさんいました。だから面白かったのは面白かったんですけどね。「テスト期間なので行きませーん」とか言って平気で休むやつばかりで、3~5人くらいで練習したこともあります。けど、強かったんですよ。

――サッカーに真摯じゃない(苦笑)。
真逆っすね(笑)。でも、強かったんですよ。

――高校は『正智深谷高等学校』に進学されますが、他にも選択肢はあったんですか?
いや、無かったです。中学3年生の時に声をかけてもらって行きました。同じチームの先輩が正智深谷高校1年生の頃から活躍したこともあって「お前も来い。特待生で呼ぶから」と言ってもらえて、俺は“特待生”に釣られて行きました(笑)。

――有名な高校ですか?
当時はインターハイに1回だけ行ったくらいでした。ドリブラーの金子昌広くん(現・奈良)がいた時にインターハイに行ったんですよ。その時に学校の名前がちょっと有名になったくらいでしたかね。同時期に『FCコルージャ』の方が外部コーチになったこともあって、コルージャから正智深谷に行く選手が増えたと思います。そこから少しずつ強くなっていった感じがします。

――高校時代の誇れる記録はありますか?
無いです!
俺が高校2年生の時に1つ上の世代と一緒に出場していて、その年の選手権で埼玉県大会決勝まで勝ち進んで0-6でやられたのが俺の高校時代のMAXです。でも、その試合には2年生が7くらい出場して決勝まで進んでいました。だから俺たちが3年生になる頃の来年は「正智深谷が最強だ!」って言われていました。確かにポテンシャルは高かったと思います。でも、さっきも言ったように不真面目なやつがめちゃくちゃ多くて、気分でやっちゃう選手も多くて、チームにならないですし、頑張らなければいけないところで頑張ることもできませんでした。関東大会の予選は1回戦で負けましたし、インターハイは県予選ベスト16くらい、選手権は県予選ベスト8で負けました。

――現在と比較すると想像できません。めちゃくちゃふざけるけど、ビシッと締めるところを締めるのが“内田航平”のイメージなので。
やるところとやらないところのオンとオフをはっきりつけられるようになったのは、この世界に入ってからかもしれません。小・中・高もサッカーになるとガッと入り込むタイプではありましたけど、それを周りの人にどうやって伝えるとか、チームメイトをやる気にさせるような能力は無かったです。今もあるとは言い切れませんけど、当時もっとあれば良かったのになぁという後悔はあります。

――プロを目指すニオイが漂ってこないのですが・・・(笑)。
そうでしょうね! 無いんですもん、プロに行きたいと考えたことが。

――その延長で、高卒でプロ入りできた経緯を聞かせてください。
プロを初めて意識したのは高校3年生の夏です。
「大宮のスカウトが試合を見に来てたよ」って話を聞いた時に、頑張ればプロって行けるのかなぁって初めて意識したくらいでした。それと同時期に水戸から練習参加の話がありました。高校の監督に呼ばれて「水戸が高卒のボランチを探している。高校生を練習参加で見てみたいって言ってくれている。お前も1回行ってこい」って言われて、俺は「行きたくないなぁ~」って思っていたんですけど行きました(笑)。
練習参加の初日が練習試合でした。その練習試合に45分位出たのかなぁ。得点を取ったような記憶があります。俺は攻撃をウリにしていたボランチだったんですけど、ガツガツボールを取りに行って、前にパスを出して受けて、みたいにやっていたら得点を取れちゃったような記憶があります。次の日、練習に行くと当時水戸の監督だった柱谷哲二監督に呼ばれて「獲得するから帰っていいよ」って言われました(笑)。
行く前は1~2日の練習参加って聞いていて、哲さん(柱谷監督)と初めて話した時に「1週間くらい参加してみるか」って言われて聞いていた話と違うなってなって、ふたを開けてみたら練習試合の翌日に「獲得するから帰っていいよ。けがをされると高校の監督にも怒られちゃうから」という流れで帰ることになって・・・。「えっ!?」ってなってました。1回の練習試合で獲得するって言われたら誰でも「えっ!?」ってなるでしょ。
高校に帰ると「どうだった?」って聞かれて、俺が「獲得するって言われたんですけど・・・」って言うじゃないですか。そりゃ、全員が「えっ!? すげー!」ってなりますよね。でも、俺からしたら「すげー!」じゃなくて、「はいっ??」って感じでしたけどね。理解できるわけないでしょ(笑)。親の反応もいい感じではなかったので。

――過去の取材時に聞いていた話だと、堅実なご家庭なんですよね?
そうです。父親は公務員ですし、兄弟も公務員のような家系ですから。俺自身も返事は保留していましたが、水戸の社長やGMが高校までわざわざ来てくれて「獲得したいです」って言ってくれていました。でも、プロ入りする怖さの方が大きかったですし、大学に進学できる話もいただいていたので進学を考えていました。ただ、その後に何かきっかけがあったというわけではないんですけど、最終的に秋頃にプロ入りを決めました。

――特殊な経緯のプロ選手もいるんですね。
俺は異例中の異例だと思います。聞いたことないでしょ。みんな小さい頃からプロになりたくてとか、以前から評価されていて練習参加を経てプロ入りとかでしょ。俺は、マジで何も無い状態からでしたから(笑)。

――プロ入り後、ギャップはなかったですか?
「ちょっと頑張れば大丈夫っしょ」くらいの感覚でした。J2のレベルは低いと勝手に思っていました。
でも、実際に行ってみると全然違いました。体の作りも全然違っていて戦えなかったですし、技術的にもめちゃくちゃ上手でした。「俺は無理だな」って思いました。ロメロ・フランク(現・鹿児島)とか、強くて上手くて驚かされましたね。
同期には鈴木雄斗(現・磐田)がいましたけど、横浜FMユース出身で、プロの練習にも慣れていたので練習もすんなりできていました。でも、俺はわからないことばかりでした。ビルドアップと言われても「はいっ?? ビルドアップって何ですか?」って感じでしたから。守備も「ゾーンで、ブロックで、この人がこう動いたらこの人が中を締めるんだよ」とか言われても「はいっ??」って感じでした。いろいろ言われるから練習試合は出場したくなかったです。そんな1年目でした、ずっと。

――個の能力や理解度が不足していると実感した中でどうやって順応していったのですか?
必死だったので1年目で多くのことを覚えました。何とかしようと練習から必死こきました。練習が終わると全部使い果たしていました。チームメイトは追加の練習をやっていたりもしましたけど、俺にそんな余裕はまったく無かったです。
試合には出場できなかったですけど、1年間続けた頃に慣れはしました。2年目のある時期にボランチ全員が怪我とか胃腸炎とかで離脱して、誰もいなくなった時に「内田しかいねぇな。使うか!」ってなりました。そこから・・・、3連勝っす(笑)。今でも覚えています! 別に俺が何かをしたわけではなくて、言われたことをしていただけなんですけどね。「俺は持っている!」と思いました(笑)。そこから出場させてもらえる機会が増えて、プロってこんな感じなんだって肌で感じさせてもらいながら充実した2年目になりました。そんな経験もあって、3年目は開幕から出たいという欲もちょっと出てきましたね。

ⒸJ.LEAGUE

――水戸を経て徳島に加入した選手の話は、これまでもたくさん聞かせてもらいました。例えば岩尾憲選手(現・浦和)、田向泰輝選手、白井永地選手、岸本武流選手(現・清水)など、みなさん苦労話をたくさん聞かせてくれました。でも、内田選手は同じ苦労話でもちょっと毛色が異なるのと、何かよくわかりませんが楽しそうに話してくれますね(笑)。
そこも俺は異例だったからじゃないですかね。俺は哲さんに入れてもらった背景があるので、哲さんからの目はエグかったです。めちゃめちゃ厳しかったです。今でも忘れていません。フィジカルメニューで走る練習があった時に、最後尾で走っていると「何でお前が一番後ろなんだ」ってめちゃくちゃ怒られました。決められたタイムに間に合っていなかったわけではないんですよ。でも、当時は俺も若かったから、今みたいに考えながら頑張って練習をやれていたわけではないし、気分が良ければやるし、疲れてたらあまりやれないし、そういうのが目についたんだと思います。1回、哲さんが本気で怒って呼び出されたことがありました。1対1で本当に厳しく指導されました。本当に怖かったです。ミス1つ取っても俺にはめちゃくちゃ厳しくて怖かったですね。

――結果、その経験がなければ現在の“内田航平”は存在しないわけですよね?
そう思います。プレーの基盤、守備の考え方、サッカーを学ばせてくれたのは水戸です。それに、ハングリー精神もそうです。いろんな人が「ハングリー精神」って言葉にしますけど、本当にハングリーな環境を経験していないと出せないと思います。だから自分の経験としてあって良かったと思っています。

――出場機会を掴み始め、その先の未来については考えていましたか?
出場したいという欲だけでやっていたので特にはなかったです。例えば移籍を考えたこともなかったですし、移籍したいと思ったこともなかったです。でも、哲さんが解任されて、ガヤさん(西ヶ谷隆之監督)が監督になった時から考え方に少しずつ変化がありました。
ガヤさんは本格的にボランチとして起用してくれて、ポジションのことをより考えるようになりました。当時は憲くんとダブルボランチを組んでいましたが、俺はこういう役割だなと考えるようにもなっていきました。ガヤさんにも言われたんですよ。「お前はプレースタイルを確立しないと駄目だ」って。“何だろうなぁ~?”って考えた時に、上手い選手なんていくらでもいるから“俺はボールを刈り取るところかな”って考えるようになっていきました。
その時、チームメイトに石神幸征選手がいたんですけど、俺が知る限りではボール奪取能力で一番すごいと思ったのはあの人です。本当に速くて、強くて。守備の寄せ方だったり、ボールの奪い方を真似しながら、そのプレースタイルを目指すようになりました。
もともとは攻撃選手としてプロ入りしていたので、哲さんからは「ロメロ・フランクみたいになれ」って言われていました。でも、俺の中ではちょっと違うなぁって思うようになっていました。フランクみたいな上手さは無いと思っていました。なぁなぁな部分もありましたが、そんな時にガヤさんからハッキリと言われて変わりました。今もやっている守備のガシャリを覚えたって感じです。そのプレースタイルを目指していた時に、2015年リオデジャネイロ五輪の日本代表候補に招集されました。それも自信になって「このスタイルを貫いていけばいいんだな。これだな!」って自分の中で思えるようになりました。これで生きていこうってなりました。

――プレースタイルが確立し、世代別代表候補にも招集され、次はどんな目標を立てましたか?
とにかく球際やボール奪取にこだわって上を目指そうという感じでした。

ⒸJFA

――その後、徳島からオファーがあった時はどう感じましたか?
嬉しかったですよ。自分が確立させようとしてきた「ボールを奪うところをやってほしい」という内容のオファーだったので。でも、徳島に来てみると水戸とはサッカーの内容が180度違ったので難しさにぶつかりました。プロ初年度と同じ難しさを経験した徳島の1年目でした。
プレースタイルもこのままでいいのかなと自問自答もしました。ボールを奪うところはそれでいいけど、徳島というチームスタイルの中でそれだけだと合わないよなと思ったのが正直な感想でした。だから、どういう風にしていけばいいのかなぁとずっと考えていました。

――本職のボランチでやりたかったでしょうけど、CBにコンバートされ始めた事実とは自分の中でどう擦り合わせましたか?
CBは練習で人がいないからやったのが始めでした。ボランチほどプレッシャーを受けるわけではないので余裕を持って運べたり、プレッシャーが少ないのでいいパスを出せたりもしていたのでいい感触はありました。球際に行ける能力はCBでも活かせたとは思います。でも、やっていたというよりは、やらされていた感覚に近かったです。それに、出場はできていなかったので面白くはなかったです。結局はサブの控えみたいな立ち位置でした。
変化があったのは2年目に、ヘッドコーチのモウ(本名はアベル。愛称がモウ)が来たことでした。あの人が「すごくいい選手だ」って言ってくれて、リカルド(ロドリゲス監督)も使ってくれるようになりました。そこから「俺もCBとして頑張ろう」という風な気持ちになっていきました。

――19年のJ1参入プレーオフ、20年のJ1昇格。いい時間を過ごした2年間はどんな振り返りをできますか?
ただただ必死でした。CBの経験はゼロみたいなものだったので。19年は試合に絡んでいたという位の感覚しかありませんし、20年は出場させてもらってはいましたけどチャンさん(石井秀典)やかみくん(現・川崎の上福元直人)のような周りの選手にずっと助けられてプレーをしていました。その中でCBとしていろんなことを吸収しながら必死でした。自分の良さは出せていたと思いますけど、周りの選手に動かしてもらっていました。

――そういう時期も経て「6シーズンも過ごさせてもらって、徳島に還元したいという想いも強くなってきました。昔はこんな想いを持つタイプではありませんでした」(内田)と今春の取材時に話をされていましたよね。
昨年、選手が入れ替わった中で若い選手も多くて、自分が徳島に来た1年目みたいな感覚で困っているように見えました。言ってあげないとできないだろうなと思いながらやっているうちに、自分自身もしっかりプレーしなければいけないという想いが強くなっていきました。
それに、20年に昇格した時はめちゃくちゃ嬉しかったですし、活躍できた部分もありましたけど、自分の中では足りていないというか、満足感はなくて、憲くんやチャンさんがいたから昇格できた感じがしていました。自分が輪の中心にいたかったというわけではないですけど、貢献できていたかと考えた時にはそうではなかったように思います。
そういう経験もして、今度は自分が憲くんやチャンさんのような立場で昇格したいという想いが出てきたと思います。昨年はたくさんの試合に出場させてもらっていた中で、特にそう感じていました。最終的に6位以内に入ることはできませんでしたけど、貢献したいという感情で最後までずっとプレーできていました。

――この先、目標や夢はありますか? 
CBとしてはもっと成長したいです。できることとできないことはハッキリしてきていて、CBとしては身長が高くないので違うとこで補うことであったり、得意なところをもっと伸ばしたいと思っています。年齢や経験も考えて、安定した試合運びをできる選手になっていきたいとも思っています。あとは、もう一度ボランチでやったらどうなるのかなぁって考えたりも最近はしますね。