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【VOICE】Vol.128 #23 玄 理吾

――サッカーを始めたのは何歳で、きっかけは何でしたか?
 小学1年生の時に、西宮浜小学校にあったチームに入りました。きっかけは父がサッカーをやっていたことです。小学3年生からは西宮SS(サッカースクール)へ移りました。中学時代はFC Libre(リブレ)でプレーしますが、FC Libreにはスクールという形で小学4年生から通ってもいました。FCLibreでの経験が自分の土台になっています。

――FC Libreのスクールに通うようになったきっかけは何でしたか?
 西宮SSのチームメイトにFC Libreへ通っていた友達がいたことがきっかけです。小学生時代は技術やドリブルが伸びた時期でした。所属したチームでもFCLibreでも技術的な部分を伸ばす取り組みをしてくださっていました。

――中学進学時、そのままFC Libreを選択した理由は何でしたか?
 中学進学時点で、高校は静岡学園に進学したいと考えていました。静岡学園OBの方が2人、FC Libreでコーチとして教えてくれていたことも自分が静岡学園へ行きたいと思うようになったきっかけです。 
 静岡学園は技術を特徴としているチームでもあります。誰にも持っていないような技術を持って入学するのと、入学してから技術を身に付けていくのではスタートラインが違うと思っていました。なので、中学時代に技術的な力をつけたいと考えてFC Libreでプレーしました。

――技術が向上する一方で、同級生が少なくて試合をすることは難しかったそうですね。
 そうですね。中学校3年間で公式戦は1年生の時の2試合だけしか記録がありません。同級生は自分を含めて3人でした。上級生が10人くらいだったので1年生の時は試合ができていましたが、2年生以降は下級生を含めても人数が足りなくて公式戦には出られなかったです。練習が休みの水曜日以外は公園でひたすら練習をする日々でした。
 練習試合はありましたが、相手GKの出場していない選手を借りたり、FC Libreのスクールに所属している小学生が手伝いに来てくれたりしていました。

――公式戦を経験できない難しさは感じませんでしたか?
 正直、ありました。悩んだこともありました。「試合をしてなんぼや」と思った時期もありました。中学校の部活に参加しながらFC Libreにも通おうと考えたこともあり、学校の先生もそういうアドバイスをしてくれました。でも、最終的にはFCLibreだけでやりきりました。

――公園の練習という話がありましたが、想像する一般的な公園ですか?
 はい、普通の公園です。砂利で練習していました。転ぶと怪我するような(笑)。でも、練習がめちゃくちゃ楽しかったんです。コーンを置いたシンプルなドリブル練習とかじゃなく、ひと工夫、ふた工夫あって、楽しみながら技術が向上するような練習を監督が考えてくれていました。

――FC Libre出身で、プロ入りした近い年代の選手はいますか?
 韓国でプロになった先輩と、モンテネグロでプロになった先輩がいます。

――高校進学について。静岡学園入学を希望したとしても、簡単に入れるわけではないですよね?
 簡単には入れないですけど、サッカー推薦で静岡学園に入学したわけではありません。勉強をしっかりしました。受験のシステムを詳しく理解はしていなかったですけど、勉強ができないわけではなかったので(笑)。内申書みたいなものも必要ということで、今の入学の基準はわかりませんが、僕が受験した頃は5教科で18か、20か、あれば大丈夫だったはずです。例えば国・英・数・社・理の5教科の5段階評価が全部4だったら合計20というような意味です。

――平均評価『4』って、ハードル高いですよね?
 高いですよね。でも、あったんですよ。中学校の先生も静岡学園に行きたいって知ってくれていたから甘くつけてくれたんですかね(笑)

――せっかくなので得意だった教科も教えてください。
 間違いなく社会です! 理由は覚えるだけだったからです(笑)。とにかく答えを覚え続けていました!

――中学時代に静岡学園高校と接点はありましたか?
 練習参加をしたことがあります。1度練習参加をして、その後は関西遠征がある度に練習試合へ参加するような形で接点がありました。ここに入ったら絶対に上手くなると思いました。間違いなかったです。

――入学を希望した際のご家族はどんな反応でしたか? また、入学後は思い描いていた通りでしたか?
 家族に相談はあまりしていなくて、自分が決めたことに親も賛成してくれた感じです。
 思い描いていた1年目だったかについては全然違いました(笑)。静岡学園に来ている選手の全員が1年生からトップチームで出場する気満々だったと思いますし、僕もそうでした! でも、実際は1年生だけのカテゴリーでも試合に出場できなくて、補欠でBチームの試合に出るような感じでした。めちゃくちゃ悔しかったです。でも、中学時代に練習してきた技術は高校に入学してからも自信を持っていて負ける気はしませんでした。

――周囲からはどんな評価でしたか?
 どうなんでしょう。聞いたことはないですけど、小学生時代に同じスクールへ通っていた1人を除けば自分のことを知っているチームメイトは誰もいませんでした。名前の知れている選手が多かったですし、名前は知らなくても有名なチームから来たという選手ばかりだった中で、僕は中学時代のことを誰にも知られていなかったです。

――全体で何人くらい所属していましたか?
 ひと学年100人位いたので、全学年では300人位だったと思います。

――トップチームに絡み始めたのはいつ頃ですか?
 1年生の終盤、少しだけ上のカテゴリーでプレーできるようになりました。CチームやBチームに上がったり下がったりしながら、2年生でAチームに上がったり、時期によってカテゴリーを行ったり来たりしていました。

――影響を与えてくれた方はいましたか?
 どのコーチにもお世話になりましたが、特に1年生から指導してくれた北川慶コーチです。自分の武器は技術だけでしたが、その方からサッカーを教えてもらいました。
 特に覚えているのは関西遠征です。1年生の時にブラジル遠征と関西遠征があって、金銭的なことも含めてどちらの遠征に行くかは自分たちで決める時がありました。僕は関西遠征へ行ったのですが、その時に担当してくださったのが北川コーチでした。その遠征が自分にとって分岐点だったように思います。
 何か1つのことを教えてもらったというよりも、サッカーという大きな考え方を教えてもらって成長を実感した遠征になりました。例えば、試合の流れ、ポジショニング、受けた時・・・など、いろいろなサッカーの考え方を教えてもらいました。

――中学時代に人数が少なくて公式戦をした経験が乏しかった話をうかがいましたが、高校に入学してから連携面や組織的なプレーで苦労したことはありましたか?
 11人でやったからといって苦労したことは特になかったですね。中学時代から11人でのサッカーをイメージをしながら練習をしてきていたので。それよりも、1年生の時は全員が自分のアピールに必死で、11人いてもパスはこないです(笑)。そういう話も中学時代の監督から聞いてはいました。なので驚きはしなかったですが「いやいや、嘘でしょ?」とは思っていました。でも、本当でしたね(笑)。全員、自陣からドリブルしていきます! 僕はパスをしながら崩したりしたいなぁとか思っていましたけど、ワンツーを求めてパスを出したら返ってこない経験をしたこともあります(笑)。逆に面白かったですけどね。でも、そうやって自分のやりたいことを伝え合いながら互いを理解し合えたことは逆に良かったとその後に思いました。

――3年生では完全に主力になりましたか?
 ちょっと外されたこともありましたが“完全に”って言ってもらっていいっすかね! “完全”でお願いします!

――既成事実を作りましたね(笑)。最も印象に残っている試合は何ですか?
 プレミアリーグ参入戦(高円宮杯JFA U-18サッカープレミアリーグ2021プレーオフ)です。愛媛FC U-18と対戦したのですが僕はベンチスタートでした。試合展開は2-0でリードしましたが追いつかれてしまって、その後は確実に逆転される流れになりました。その時に「出るぞ!」って言われて途中出場しました。その時の自分のプレーが良くて、最終的に勝つこともできました。
 印象に残っている一番の理由は、自分で言うのもなんですけど「その試合の流れを自分が変えた」と思える試合をできたからです。“流れを変えるってこういうことなんや”って実感しました。

――徳島ヴォルティスとの接点や練習参加の経緯などについて聞かせてください。
 スカウトの方が来てくれていても、選手たちには「どこのチームの誰が来てるぞー」みたいなことはまったく知らされない学校でした。
なので、後から聞いた話になりますが、高校2年生の時に静岡県で開催されていた試合を強化部の方が観に来てくれていて、その時に自分が出場していて内容も良かったことが最初のきっかけになったという話を聞きました。
 徳島への練習参加は、ある日の練習が終わった時に監督から「玄!」って呼ばれて話を聞きに行ったら「徳島が練習参加でお前のことを呼んでいる。来週行ってこい」みたいな感じで急に言われました。ほんまに唐突でした(笑)。実際に練習参加したのは3年生でしたが、最初のきっかけは2年生の時だったそうです。

――練習参加時はダニエルポヤトス監督(現・G大阪)が指揮を執っていて、クラブのカテゴリーはJ1リーグに所属していた時でした。どのような感想を持ちましたか?
 どういうサッカーをするのかは試合を観ていたのでわかっていました。でも、練習参加して「やっぱりいいチームやな!」と思いました。ボールを繋ぎながら面白いサッカーをしていて、ここなら成長できると感じました。確実に。

――2022シーズンのプロ初年度についてはどんな感想を持っていますか? 影響を受けた人はいましたか?
 悔しい試合を経験したこともありましたし、コロナ禍のシーズンも経験して、難しいシーズンではありました。でも、同時に成長も実感しました。
 影響を受けたのは高校の先輩でもある渡井理己選手(ポルトガル1部のボアヴィスタFCに期限付き移籍中)です。間違いなくいい影響をもらいました。

――渡井選手は言葉数としては少ないタイプですが、印象に残っている言葉はありますか?
 ないっすね(笑)。言葉とかじゃないんです! まさくん(渡井)は言葉で語るタイプじゃなくて、プレーで示してくれました。
 ポジションが同じだったので負けられなかったですし、絶対にポジションを奪ってやろうと思っていました。ポジショニング、ボールの受け方、持ち方、運び方など、まさくんを観ながらずっと勉強しました。その後に海外移籍しましたが、自分も海外を目標にしているので、その姿にも影響を受けました。自分もより強く海外へ行きたいと思うようになりました。

――“言葉で語るタイプではなくプレーで示してくれました”は抜群の切り返し(笑)。ピンチをチャンスに変える好プレーですね。
 流れを変えられましたね(笑)。

――いつ頃から海外志向ですか? どこの国に行ってみたいですか?
 何となくですが、海外のプレー動画などを見ながら初めて思ったのは中学時代です。プロ入りしてからその想いはより強くなりました。
 ずっとバルサ(FCバルセロナ/スペイン)が好きなので、やっぱりスペインへ行きたいです。今、好きな選手もペドリ(バルセロナFC)です。頑張らないといけないですね!

――目標とする選手像はありますか?
 チームを助けられる選手、試合を決定付けられる選手。ゴールなどはわかりやすい結果ですけど、得点だけじゃなくて「そこにいてくれるだけで助かる」みたいに言われる選手になりたいです。

――ご自身の人生にもかかわる話として日本国籍を取得したと発表がありました。どんな心境ですか?
 特別に実感はありません。韓国籍だったからと言って自分に不都合があったわけではありませんが、国籍を変えることによって自分のサッカー人生がより良い方向に進むために決断をしました。国籍を変えたからには日本代表にもなりたいと思いますし、それはこれからの自分次第だと思っています。

――高校時代はボランチを主戦場にしてきましたが、ポジションにこだわりはありますか?
 昨シーズンからインテリオールでプレーするようになって、今は前線のポジションが大好きで楽しいっす! 攻撃でも守備でも全部に関われるポジションだと実感したからです。ボランチでも同じことではありますけど、インテリオールがより攻撃的なポジションで、守備でも多くを求められるので、チームのカギを握っているポジションだと思ったからです。ボールの受け方、連携、タイミングも含めて、めっちゃ頭を使わないといけないので大変なポジションだともわかりましたが、それが余計に楽しいっすね!

――自分自身で思うストロングポイントは何ですか?
 高校時代からそうですが、簡単にボールを失わない長所がプロになってからも活きていると思っています。でも、それだけではなくて、プロになってから新たないい部分が芽生えてきているような感覚もあります。まだ大きく成長はしていませんが、芽生えてきている感覚は確かにあります。こういうことができるようになってきているという感じで、その「なってきている」という感じが今ですね。自覚があります。

――いつか背番号『8』を背負う未来もあるのではないかと楽しみにもしています。
 ははは(笑)。個人的には『14』がいいです。

――学生時代の背番号とも違いますよね?
 学生時代は『8』でした。

――何の番号ですか? 誰かの『14』ですか?
 ・・・、ヨハンクライフっす! 父親の大好きな選手がクライフで、俺も好きになっちゃいました。