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初めましてTHE FINAL〜茶畑よ永遠に〜

「**さんの理想のお茶ってどんな物ですか?」
と、一緒に揉んでいたベテラン農家兼お茶師に聞いた事があります。
なぜそんな事を言ったのか。はっきりとは覚えていないのですが、おそらく私はこう続けた気がします。
「僕には全然分からないんです。」

当時、茶工場に入って10年程経ったでしょうか。一応は製茶のキモである蒸し(むしというよりふかし、と呼びたい)から後工程まで全ての操作や判断を1人で決定する様になってはいました。
そして、茶商さんからの要求と現場からの実感に乖離を感じ始めた頃だったとも思います。
「〜だから**して」に対して**すればより〜なってしまうはず、だとか「とにかく〜して」にはこの原葉でこれ以上〜すれば##になってしまう、だとか。
お茶を揉んでいる(製茶する事自体をを揉むと言います)自分が思う核心的な、これぞこの原葉を最大限活かす設定だと思った物は「中途半端」の一言で片付けられてしまいました。蒸しに半端もク○もあるかい‼︎と叫びたい日々。
それまで茶商さん→販売担当と下ってくる要望に対して出来る限り高次元で応えよう。それだけがモチベーションだった、茶という対象自体では無く仕事としてどう要求に応えるかだけを考えてきた自分に、初めて茶に対する自我が湧いてきたのかもしれません。

「そんな事はね、もう40年近くやっているけどなんとなくしか分からないよ。まして健二君はまだまだ見つけられないと思う。それが当たり前だよ」
と、そんな風に答えてもらった気がします。

理想のお茶、本当に良いお茶とは?

そんな思いが萌芽し始めてきたのです。

初めまして


初めまして2nd

の続きです。初めましてをなんで長々書くか?って自分でも思いますがw、私が今自分達でお茶を作ろうとする動機は以前勤めていた大きな茶工場での体験が基です。
あの時何も違和感や疑問を感じていなければ、私は今頃あの工場のちょっと上に収まっているか、もしくは飽きて違う事をしていたと思います。少なくても絶対に家を継ごうなどと思わなかったでしょう。
お茶を作りたい、お茶自体が大好き、という動機では無いのが自分でも情け無い気がしますが、まあきっかけは何でも良いでしょう。今後何を出来るか、です(よね?)。

茶師になりたい。
そう告げた事を茶工場の皆さんが喜んでくれました。当時茶況は少しずつですが明確に下降線を辿りだし、また農家という存在が僕の上の世代ではイマイチカッコ悪く映り、そして何と言って”ちゃんとした所に就職“すべきだという声がこの辺でも大きくなっていました。当時はもう、若い人が従事する事では無くなりつつあったのです。
農業は不安定な要素が大きいですからね。お茶も博打要素が多々あり、忙しい時はやたらと忙しく暇な時は何もやる事が無い。
とにかく若い、それも茶工場に入って揉む人材は希少になりつつあった時です。それは歓迎されますよね。

さて、当時の茶工場での私の1日。
早朝出社し早速荷造り。丸一日掛けて出来た荒茶を大海(ダイカイ)と呼ばれる紙袋に詰めていきます。一個30キロ。それを多い時に40ずつ総数100本近く。
その当時工場にフォークリフト有りませんでした。私も皆さんも若かった…
荷造りを終えたら一瞬製茶機械を見回ります。とは言えメインオペの茶師がいるのでまだ僕は本当に見るくらい。
それでは2トン車のエンジンを掛けましょう。先ずはJAに。一旦戻って直接取引している各茶商さんに。当時10件程配達に行ってたと思います。
配達から戻れば農家さんが茶を搬入し始める頃。荷受けのバイトさん達だけでは追いつかないのでヘルプに周ります。一息つく頃にはシフトの時間が終了。
…あれ?全然揉んでないやw。当時は茶師というよりも雑用がメインです。でもとても充実していましたね。そして少しずつですが製茶機の操作もする様になり、「思った通りコレはなかなか面白いぞ」、と感じる様にもなりました。

なんと言っても当時は農家さんも若かった。その当時の工場の人達と今でもお付き合いがあります。逆に言えば地元だとその当時の面子から殆ど変わっていないんです。その後茶業に入ってきた人は両手で数えられるんじゃないかしら。
とにかく皆さん活気があり、笑顔も怒号も飛び交っていました。とても楽しかったのはよく覚えています。

色々あってその工場を出て当時新設された茶工場に移りました。そこでは「雑用はさせない。工場から一歩も出るな」。そう、製茶マシーンとして育成宣言をされました。
当時もはや新設の工場など考え難くなっていた茶況で、後発という事もあって色々な製法要求された事もあり、その体験は今思えばとても貴重です。
何より大事なのは、当時はまだ”失敗“出来た事です。
落ちてきたとは言え今からすればまだまだお茶は売れました。新設という事もあって茶商さんも大目に見てくれた点も多かった。今あの時のあのお茶を持って行けば引き取り拒否されたでしょう。
失敗を出来た、という点は私にとって本当に財産です。
同時に、この頃から茶に対する要求が変わり始めてきました。前の工場では肥料がたっぷり入ったお茶をしっかりと、本当にしっかりと赤くなるまで蒸した。
その様なお茶は好みの違いはあれど確かに”旨かった“。
新しい工場で少し経った頃、茶商さんの要求が「何よりも水色」となってきました。鮮やかな緑色の抽出液、いえそれは本当は破砕した茶葉のオリなのですが、とにかく鮮やかな緑色であれと求められる様になった。

最初の方に書いた事に戻るのですが、茶は蒸す程に赤くなります。それをもっと青くしたいからもっと蒸せだとか、それでも形状は残せだとか、このくらい蒸すのが最大限にこの葉の特徴を活かせる、と思った物は中途半端だとか。
その様な声を頂く様になり始めたのです。
茶自体に殊更の拘りが無く、要求に対してどう応えるか?という職人的な意欲だけがモチベーションだと、そう思っていました。
ですが、ずっとこの様な声に晒されて、気がつけば自分の心の中に少しずつですが「本当に最適な製茶とはなんだろう」という気持ちが芽生えてきました。 
長年やってきて気がつけばしっかりと自分の中に、茶に対する思いが出来ていたんです。

しばらくモヤモヤしていました。が自分はあくまで農家の皆さんのお茶を出来るだけ高く売れる様にするのが役割。茶に自己を投影するなどもっての外。
そんな事して売れないのでは問題外ですからね。
モヤモヤするのは職業としての宿命だと、そう思って自分を抑えよう。そう決意。

「お義父さんがやっている事があなたの考えの延長に在る事なんじゃないの?」
と妻が言うのは、そんな時でした。


ここまで長々と書いてしまいましたが、全く家の、鈴木茶苑の事を考えずにきた私が初めて家を意識する様になるまでです。
流石にこの辺で“初めまして”は終わろうと思います。
なぜ家で茶をやっていこうと思ったか?どんな理想を描くのか?は今現在やっている事や作った物とリンクしながら書かせて頂こうと思います。

駄文ですがよろしければ今後もお付き合い下さい。

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