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いやホントに、私達はどう生きるか、なんですよ

お盆も過ぎました。今週、じゃなくてもう先週か、から私は家業ではなく外に働きに出ています。
兼業農家では最も多いかもしれない建設関係の仕事です。
初日から幹線道路の草刈りです。家業でもそれ以外でも草と戦うとは。なんの因果でしょう。
でも、ここでの草刈りは結構好きな仕事です。分かりやすくスピーディーに結果が見えますから。
建設系の仕事って、進捗に時間が掛かるケースが多く、まだまだその点に馴染めていなかったりします。

と言いますのも、元々私は冬場の稼業は舗装屋、つまり道路のアスファルト舗装を専門に施行する所にばかり居ました。
道路の基礎土工は普通の建設屋さんが行いますが、実際に車や人が通る黒い表面のアスファルト部分は専門の舗装屋が行うケースが大多数です。
まあ建設系には違いありませんが、地道に少しずつ作業を積み重ねていく印象の建設屋さんに比べると、舗装は1日で一気に何千平米と施工してしまうのです。
何ヶ月何年単位の仕事も多い建設業に比べ一日単位の仕事も多い舗装屋だとスピード感は相当違うと、一応両方体験した私は思っています。

以前の記事で書いた様に茶工場で働く事になった私ですが、茶工場の操業はこの辺りでは4月中旬以降から当時は10月中旬。今お世話になっているのは碾茶(抹茶の荒茶)工場でもう少し遅くて10月いっぱい〜11月初旬くらいまでです。
つまり、冬場は仕事がありません。
畑も、もちろんやる事はなんやかんやありますが春から秋にかけて、に比べると圧倒的に仕事量は有りません。
そしてお金も欲しいのです。とても。切実に。
「お茶を続ける為にこれをやっている」と、全く違う業種の仕事をしている人も居ました。それって結構多いと思います。

私はと言えば、春から秋は茶工場で充実した日々を送っておりましたが、やはり冬場は何かしなければならない訳です。
年中仕事が無い稼業では仕方ないと一度一般企業に就職を図ったりしましたが、何となく茶工場に戻ってしまいました。
幾つか仕事を替えましたが、ある時先輩茶農家でもある知人が誘ってくれたのが舗装屋でした。
そして気がつくと15年程やっておりました。知人は割と直ぐに辞めたのに。

何が良かったのかと言えば、当時20歳前後の小僧としては結構良く思えた給料ももちろん大きかったです。
舗装屋ってこの辺りだと秋〜年度末までしか仕事が無く、逆に言えばその半年間で一年分稼ぐんです。当時の会社はめちゃくちゃで、17時に現場が終わってそこから次の現場とか当たり前でした。今だから言えるけど年始から3月中盤まで休み全く無かったとか。
でもそれも社会体験が無い私は結構楽しめてしまったり。もちろん良い事では無いですが、お金が貯まるのはとても嬉しかったです。茶工場と同じく自分の力で稼ぐという実感を感じさせてくれたのです。
でも、なんと言っても日替わり週替わりで現場を替えて、様々な地域を転々とするこの仕事が若い自分には性に合いました。飽きないんですよね。今日はコッチの現場、明日は全然代わってアッチ。当時はスマホも無くてPCで印刷した地図、下手すると交差点や看板等目印だけ記された手描きのショボい地図一枚で行った事も無い土地に行きましたからね。
行ってみたら様子が違うとか、話が通っていなくて先方に怒られるとか、乗った事も無い奴が行ける!と言うので大型トラックで行って本当にギリギリなんとかだとか。
若い自分にはとても刺激的で楽しかったのです。
あと当時同僚に言われましたが、半年で居なくなる自分は気楽で良いと。確かに多少嫌になっても離れる事が決まっているし、なまじ時間がある閑散期は色々人間関係が表出していたのかもしれません。忙しければそんな事もそうは言ってられないですからね。
社員と期間従事者では当然背負うものが違いますし、私は比較的良い面だけ見ている事が出来たのかもしれません。それは今現在もですが。

最初に居た舗装屋。そこが倒産したと聞いたのは、そちらの繁忙期は既に終わって茶業の方に戻ってしばらく経ち、夏の茶園管理作業に追われる日々の最中でした。
その夜、私は会社に行きました。
当時よく乗っていた、社内で一番好きだった重機回送車の荷台に座ってしばらくぼーっとしてしまいました。
ほぼ冬場だけでしたが、10年以上そこにお世話になっていました。もちろん悲しかったですが、その時は茶園の仕事が忙しかったせいもあってかあまり実感が湧かなかった。
蒸し暑い夜だった。星がよく見えた気がします。広い荷台に寝っ転がったかもしれません。
とても好きな車でした。古いけど乗り易くて、専属という訳でも無いけれど出来る範囲で綺麗にしたり整備をしたり。一瞬引き取りたいと思ったりしましたが、個人で大型車所有だなんて当時の自分には想像出来なかった。今思えば結構使い道有った気もするんですが。
当時会社で飼っていた猫が寄ってきました。とても人懐っこい猫でした。当時住んでいた環境では飼う事も出来ず同僚、もう元ですが、彼に頼むしか無かった。
安っぽい社屋も、舗装屋を知っている人なら分かってもらえるけれどどれもこれも汚い車達も道具も、全て愛着が有った。それももう触れる事は無くなってしまった。
何も、何一つも出来ないというのはとても哀しい事だと痛感しました。

兼業という点には様々な観点から意見が有ると思います。今の自分としては正直もっと茶園に居たいですし、実際やるべき事ばかりです。
茶農家として半端というか熱が足りないと言われても仕方ないかもしれません。
ただ、自分が茶工場にずっと関われたのは、そしてそこから一歩踏み出し家を継ごうと思える様になったのは、農閑期に安定して仕事が有って、茶に従事している間ずっと待ち続けてくれたこれらの職場が有ったからなのは間違いありません。
家を継ぐという事は家庭を持つ私にとってとてもリスキーでした。他の仕事が有るとか、それに対して一定のスキルを得られたと言う点は、リスクヘッジの面で金銭的にも心理的にもとても大きかったです。
日本の季節的な環境下で一作物をメインに据えた場合だと兼業が自然な形態だとも思います。無理に品目を増やして半端になってしまえば意味が無い気もしますし。
現在、主に行政は農家そのものを大規模化して少数の専業農家に絞っていきたい、という方向性だと思います。それも一つのやり方です。公共投資も集中し易い面も大きいでしょう。
ですが私がやりたい様な、個性的なお茶を多数お客さんに提示する、という形態にはそぐわないものです。
当苑もこれ以上規模を拡大するつもりはありません。
作りたい形で作れなくなりますし、それでは私自身が何の為に茶農家になったのか分からなくなってしまいます。甘ったれた考えなのかもしれませんが。
一方でもっともっと茶に浸りたいのも正直な気持ちです。出来ればずっと茶畑に居たい。
かつては製茶のみに興味があって畑にさして関心がありませんでしたが、今ではむしろ茶畑を保ちたいという一心です。その為にも良い製品を作らなければなりませんが。

農家と経営は当然切っても切れる関係ではありません。
茶農家として目指す境地は、良い製品を作る事でも画期的な手法を開発したり用いる事でも無く、経営を継続する事だと、ここ最近強く感じています。
これから先も私は迷い続けるでしょう。
今後もずっと茶畑に立ち続ける為に、今この瞬間本当に為すべき事とは何か、と。

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