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大坂なおみの聖火リレー最終ランナー起用から考える日本社会の現在と未来

大坂なおみさんを聖火リレーの最終ランナーで起用してよかったか。
彼女の起用を前向きに捉えたい自分と、彼女の起用はただマイノリティの(多様性の記号としての)消費にすぎないのではないかと言う自分が、この問いをめぐって果てしない論争を心の中で繰り広げている。
そして、後者の自分が途方もない問いを一つ挙げる。
この社会は彼女を聖火リレーの最終ランナーに起用するのに値する社会なのか。

大坂なおみさんが聖火リレーの最終ランナーとなったことに対して、多くのメディアは彼女を「多様性の象徴」としてとりあげている。

しかし、この社会は果たして「多様性」という言葉に十分に向き合ってきただろうか。

SNS上では彼女の日本人性を問う声を数多く見かける。彼女は一言も日本語を話せないのに、彼女の振る舞いが日本人らしくない、ある時には黒人なのにある時には日本人なのはなんでなの、そういった声を見てきた。
まず「日本人」という言葉を用いるときに、国籍といった法律的なものと日本人らしさといった文化的なものを峻別する必要があるだろう。
前者に関していえば、彼女はたとえ日本語を喋れなくとも、振る舞いが“日本人らしく”なくとも、彼女は日本の法律で日本国籍保持者として認められている以上、日本人として生活し、日本人選手としてテニスをプレーする正当な権利を持っている。
後者に関しては、日本らしさ・日本人らしさを問われたときに、和を尊ぶ、空気を読む、侘び寂びなどいろんな言葉が挙げられるだろうが、これらの言葉を厳格な基準に置き換えて社会の中に持ち込むと、たちまち都合の悪い事態が引き起こされる。例えば、日本人であっても空気を読むのが苦手な人や、侘び寂びといった日本の文化について十分な知識を持っていない人が数多くいるだろう。一方で、外国人であっても、空気を読むといった日本的な振る舞いを問題なくこなせる人や日本の文化に深い造詣がある人は数多くいる。では、“日本人らしさ”が日本人の厳格な基準たりえない以上、何が日本人の基準となるべきか。人によっては“血”というかもしれない。しかし、外国に血筋があるものの、日本で生まれ育ち、日本語しか扱えない人と、日本に血筋があるが、外国で生まれ育ち、現地の言葉しか扱えない人はどちらが“日本人“により近いだろうか。結局“日本人”というのは、国籍による法的な“日本人”を別にすれば、曖昧な輪郭にすぎない。そして、その線の上をまたがるような存在もたくさんいるのである(これは“日本人”に限らず、今の時代ほぼ全ての国の◯◯人に当てはまるかもしれない)。

さて、そういった線上にいる人たちに私たちはどのように向き合ってきたのだろうか。
例えば、在日コリアン。彼らの多くは戦前日本が朝鮮半島を植民地支配していた時代に来日し、戦後もそのまま住み着いた人たちの子孫である。今の在日コリアンの多くは3世や4世にあたるが、ほとんどは日本語を母語とする。そんな出自以外は、“日本人“と変わらない彼らに対して、この社会ではどれほど凄惨な差別やヘイトスピーチが起きているか。ネットで調べたらキリがないくらい多くの事例が出てくるが、ここでは一例として中学生の中根さんに対して起きたヘイトスピーチの事件を取り上げよう。

こちらは最終的にヘイトスピーチを行った60代男性に損害賠償の判決がなされたが、加害者が使った言葉(かなり醜悪な言葉が使われているため閲覧注意である)、そして中根さんが判決の後に語った言葉を読めば、どれほど悪質な差別がこの社会で起きており、それがどれほど人の尊厳を深く傷つけるか窺い知れるだろう。

在日コリアンは長い間我々の社会の中にいてきた存在である。そんな彼らは今でもこの社会に深く根を下ろす差別によって、(本来は曖昧なものにすぎない)線の外側に疎外され、尊厳が踏み躙られているのである。

差別は確かにどの国・社会にもある。そして、それに対して刑罰が下されたことはこの社会がいい方向に向かっている証かもしれない。
しかし、この社会のマジョリティは、このような問題に無関心を装い、何なら黙認しているのではないか。
例えば、先日DHCの会長が目を覆いたくなるような差別的な言葉をHPに載せたが、どれほどの人がこの問題を認知しているのだろうか、そして我々は然るべき社会的圧力をかけているのだろうか。

繰り返すように差別自体はどの国・社会でも起きている。しかし、我々はそういったことに対してちゃんと関心を払い、然るべき圧力をかけているとは思えない。さらに言えば実は多くの人は関心を払わないどころか、心の奥底で黙認すらしているのではないだろうか。
民衆によって選ばれた政治家を見ても、そう疑わざるをえない。例えば石原慎太郎が都知事時代に行った「三国人発言」、小池百合子・現東京都知事が2017年以降関東大震災時に起きた朝鮮人虐殺の追悼式典へ追悼文を一貫して送っていない件など、民衆によって選ばれる政治家のこういった振る舞いは我々のどういった側面を映しだしているのだろうか。
“国”という論点からは話が外れてしまうが、LGBTQ+や女性に対する政治家の不用意な発言に対しても同じことを考えなくてはいけないだろう。


些か話が長くなってしまったので、まとめる。
(大坂なおみさんに対して多くの人が疑問を呈している)“日本人らしさ“なんていうものは実は曖昧な枠組みに過ぎず、そしてその境界線の上にまたがる人たちに対してこの社会は包摂するもしくは統合の手助けをするどころか、彼らに対して起きている凄惨な差別から目を背け、あまつさえ黙認しているのではないだろうか。
そして、外国人や外国に出自を持つ日本人のみならず、LGBTQ+や女性など、この社会が十分に包摂を行なってこなかった全てのマイノリティや弱者に同じ事態が起きているのではないか。

人によってはいうかもしれない、そもそも「多様性」は日本に必要ない。確かにそういった考え方もありうる。しかし、それならこの国を世界に向かって開くべきではないし、何ならオリンピックなんてやるべきではない。(そもそも世界に開く云々の前に、自分たちの社会の内側にある問題にすらきちんと向き合えてないが)

もちろん悪い例ばかりを並べすぎたことは否めない。ヘイトスピーチに対して刑事罰を命じる判決が下された例のように、この社会は少しずつ良くなっている。一方で、この社会の奥底にある醜悪な部分にはまだ十分に手がつけられていないのではないかと、私は思わざるをえない。

大坂なおみさんが聖火台を灯したことは、この社会が自身の暗部に向き合い、多様性を自分のものとして内側に取り込んでいくきっかけになるのか、それとも外向けのパフォーマンスにこの国にすでにいるマイノリティを利用できるということを示したのにすぎないのか。
この問いの答えは私たち自身が選択し、実現してゆかなくてはならない。

それでは私たち一人一人は何をすべきか。
筆者自身もまだ断片的な考えしか浮かばないこの問いを最後に読者に提示した上で、一人一人の思索が遠い道のりの先にある何かに向かうきっかけになることを願い、本記事を締める。

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