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遊廓の男娼版「陰間茶屋」の痕跡を探しに湯島(上野公園近く)に行く

youtubeに投稿した動画「遊廓の男娼版「陰間茶屋」の痕跡を探しに湯島(上野公園近く)に行く」のテロップを読みやすいようにメモ書きしただけのnoteです。


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今回の動画のテーマは「陰間茶屋(かげまぢゃや)」です。

陰間茶屋と言うのは江戸時代にあった遊廓の男娼版で、現代で言う売り専になります

初期の頃は舞台に上がらない(上がれない)歌舞伎役者が陰間(男娼)として働いていたのですが、流行り始めた後は歌舞伎役者など関係無く陰間専門として働く人がほとんどだったそう。

しかも関西からスカウトされて連れてこられらた少年が多かったとか。


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陰間茶屋は江戸の十数か所にありましたが、1番規模が大きかったのは芳町や堺町と言われた現在の人形町です。

人形町は芝居小屋が近くにあったのと、遊廓が多い場所(元吉原)だったので、陰間茶屋ができる下地があったのでしょう。

陰間の中には少数ですが女装する者もいて、その女装した陰間が多く在籍していたのは湯島の陰間茶屋とされています。
(人数は芳町の方が多いですが、芳町には普通の陰間がたくさんいるので、女装した陰間の割合が多いのが湯島と言うことかもしれません)

上野公園に女装が今でも多いのはこれがルーツなのかもしれません。
(男娼の森より陰間茶屋の方が歴史は古いので)


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女装した陰間が湯島に多かったと書かれた書籍は複数あったのですが、それを裏付ける資料の言及はありませんでした。

僕の推測でしかないのですが、湯島の陰間茶屋の太客は寛永寺の僧侶だったので、その需要に応えていたのだと思います。

江戸時代の仏教の出家者は女犯が禁じられていたので、女の子を抱きたい僧侶から女装した陰間の需要があったのではないでしょうか?

女犯はダメだけど男とアレするのはOKなのは、現代の売春防止法が売り専やニューハーフヘルスなどの男同士のアレを取り締まれないのと一緒ですね。

陰間茶屋は天保の改革(1841-1843)などで幕府により風紀を乱すとのことで規制されるのですが、徳川家の庇護が厚い寛永寺の僧侶が通っていた湯島だけが江戸時代の終わりまで営業を続けることができました。


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湯島の陰間茶屋は湯島神社の境内にあったと言われていて、その詳しいの場所を調べていた時に書籍で次の2つの記述を発見しました。


「鳥居の際より半丁許の間 西側に抱主13軒 東側に料理茶屋が17軒あった」
「男坂下には昔陰間茶屋が軒を連ねていたといわれている」


湯島の陰間茶屋は遊廓のように客が上がって建物内で遊ぶのではなく、料理茶屋に待機所から陰間を呼んで遊ぶホテルヘルス方式でした。

ですので"抱主"と"料理茶屋"の両方があったのでしょう。

"半丁許の間"と言うのは長さの表現で、1丁が60間で360尺、すなわち109mになり、鳥居から50mくらいの間に陰間茶屋があったと言うことになります。


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2つの記述から想像するに陰間茶屋があったのは鳥居をくぐって出た後の男坂の両脇から坂下にかけてだと思います。

この辺りにあったと言うことになりますが、まったく痕跡を見つける事はできません。

150年以上も昔の事ですし、関東大震災や第二次世界大戦もありましたので、残っていたら逆に奇跡ですよね・・・。


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陰間茶屋の痕跡は見つからなかったですが、戦後できた花街の名残みたいなものは見ることが出来ました。

歴史を感じる建物なだけで、花街とはまったく関係無いかもしれませんが、とりあえず動画に収めておきます。


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湯島の花街は1956年の売春防止法の制定と共に衰退するのですが、花街にあった売春宿(連れ込み旅館など)はラブホテルとなって現代に残っています。

東京都心部でラブホテルが集中している場所は元々花街だった所がほとんどみたいです。

ただし湯島のラブホテルには特徴がありまして、普通のラブホテルだと"汚すから"と言う理由で断られてしまう、男同士の入室が可能なラブホが多いそうです。

これが陰間茶屋の唯一の痕跡なのかもしれません。


※参考文献
「江戸文化から見る 男娼と男色の歴史(安藤優一郎著)」
「江戸を賑わした 色街文化と遊女の歴史(安藤優一郎著)」
「男色の景色(丹尾安典著)」
「女装と日本人(三橋順子著)」

youtube用にかなり簡潔にまとめていますので陰間茶屋に興味のある方は上記の書籍を読んでみて下さい。
(動画の概要欄にリンクが貼ってあります)

「江戸文化から見る 男娼と男色の歴史(安藤優一郎著)」が詳しさと読みやすさのバランスが良いと思います。

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