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『東京の本よみ』というサイトを立ち上げる中で考えた、 大人になると考えがちな「目的」について

東京の本よみ』というサイトを立ち上げた。

ストリートスナップさながらに、本を読んでいる人に声をかけて写真を撮らせてもらい、その写真と本のタイトルを掲載していく。

内容はそれだけのシンプルなサイトだ。

10月のあたまに「面白そうだからやってみようか」というノリで活動を始めることにし、そこからオープンまで約2ヶ月。

軽いノリで始めたわりには、
キービジュアルを作るために前から好きだったイラストレーターさんに絵を依頼をし、サイト用に独自ドメインを取り、サイトを作り、並行して週末には撮影活動に精を出した。

その間、だれに言われたわけでもないのに、なぜか何度もあたまに浮かんだのが、

「なぜやるのか」
「なんのためにやるのか」

という問いだった。

明確な目的があるわけじゃないことはなんとなく自覚していたし、「ちょっとやってみよう!」という気持ちでスタートするには全然それでよかったのだけど、それでも、なぜか何度もあたまに浮かんだ。

いま思うと、それは恐らく、

「これ何のためにやってるの?と思う人も多いだろうな」

という気持ちがあったからだと思う。


大人になると、何かをするときに、理由や目的を求められたり、求められなくても無意識に考えたり自問することが多くなるように思う。

特に仕事の場面では「何故そうするのか」「何のためにそうするのか」といったことを考えたり、言語化して人に伝えることはかなり重要だし、求められるし、外せない。

だから、大人になると、
何のためになるか分からなかったり、
分かっていてもそれがまだ人に伝えられる程にははっきり言語化できなかったり、もしくは何のためにもならないかもしれないことをやるというのは、結構勇気がいる。

無意識にブレーキが掛かっていたりする。(やりたい気持ちはあっても)


歳を重ねていくと、少なからず要領がよくなって、「無駄なことはしない」とか、「無意味なことはやらない」とか、「できるだけ合理的に」とか、そういう方向に行きやすい。

でもわたしは楽しかったり好きだったりするのなら、必ずしも「為になること」とか「意味のあること」とか「役に立つこと」じゃなくても全然いいと思ってる。

そうじゃない(=分かりやすく意味があること)だって、生きてると必ずやる局面があるし、見る局面があるし、必要な時があるから、それはそれでいい。


大人になると理想論ばかり言っていられない時もあるし、やりたいことだけやって生きていくのは簡単なことではないのかもしれない。

それでもやっぱり、やりたいという気持ちや好きという気持ちに突き動かされるようにして行動している人を見ると気持ちがいいし、
「その動機は、人間としてすごく健全だな」と思うし、
自分も出来るだけそういう大人でありたいと思う。


現状『東京の本よみ』は、お金が稼げるわけではないし、目的が何かさえ、まだはっきり見えていない。

「紙の本を読む人たちがいなくなってほしくないから?」と聞かれたことがあるけど、それで始めたわけではない。

確かにわたしは紙の本が好きだし、紙の本を読んでいる人を見かけると「いい光景だなぁ」と勝手に思っていることは間違いないけれど、別にそれをいろんな人におすすめしようとは全然思ってない。

みんな好きなかたちで本を楽しめばいいし、本以外に楽しいことも世の中にいっぱいある。


まだ始めたばかりだが、この活動が楽しいのは、

・カメラを持って街を歩いても、本を読んでいる人に出会えるとは限らない

・出会えたところで撮影と掲載の許可をもらえるとは限らない

・その人がなにを読んでいるか、それを聞きながら生まれる会話の未知さ

そんな不確実性だったり、未知数なところに とてもときめいている。

たぶんどんなに写真の枚数を重ねても、毎回ドキドキすると思う。

「どうなるか知りたいからやる」

それが一番の動機かもしれない。


最後に、

一人の時間の中でも特に放っておいてほしいであろう本を読んでいる最中に声をかけ、しかも写真を撮らせてほしいなどというこちらの身勝手なお願いに承諾くださった方々、本当にありがとうございます。

この先、東京のどこかで本を読んでいる人に声をかけた時に、「サイト見てますよ」と言われる日がいつか来たら最高にうれしい。

それがどのくらい先か。
どんな場所で、どんな人か。
何を読んでいる人か。
想像するだけでも楽しい。


そんなことを考えながら、こつこつ行きます。


2018.12.25
田村まよ



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