1930年代(29)
日本浪曼派(その4)
日本浪曼派と戦争
保田輿重郎は戦争についての記述を残している。満州事変の報を契機として、戦争により鬱屈した閉塞状況が突破される兆しを感じ取ったためだろう。日本浪曼派にとって、戦争とはなんだったのだろうか。
戦争は神話の曙
この引用は、1938(昭13)年9月に上梓された、『戴冠詩人の御一人者』の緒言の冒頭箇所である。当時の世情は、総力戦に向けて、国民がすべからく統合されようとしていた時期に当たる。同年1月には、御前会議にて「支那事変処理根本方針」が決定され、「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず」という政府の声明が発出されている。4月には「国家総動員法」が公布され、国民経済・生活が官僚統制下に置かれようとしていた。10月には日本軍が武漢三鎮を占領、日中戦争が本格化する。また、11月には、近衛首相による「東亜新秩序建設を声明(第2次近衛声明)が発出され、日本の戦争目的が東亜永遠の安全を獲得し得る新秩序建設にある」とすることが国民に広宣された。
保田輿重郎の前出の文章は、言うまでもなく、そのような世情を反映したものだが、戦争を一貫して扇動する内容にはなっていない。この短い引用箇所においてさえ、前の段落と後の段落とが結びつかない。前段は侵略戦争を新時代の到来として賛美し、挙句、《それは正しく我らの遠い古の父祖から語り傳へられてきた神話の曙である。》と結ばれている。
ところが後段になると突如、一貫性が崩れる。いきなり、《戦争は一箇の叙事詩である。恋愛は叙事詩でなく抒情詩の一つである。》という紋切型表現が挟まれ、《この時期に我らは物語小説と詩文学を区別する。今は英雄が各個人の心に甦り、個人が国民と英雄を意識し、己の中にみいだす日である。》と、戦争が激化するなか、武勇を上げた英雄の心を国民一人一人がもって戦おう、もしくは戦いに臨もうという意識喚起が現れる。わかりにくいのは、《英雄とは歴史の抒情に他ならない、人間の抒情がまさに詩人であったやうに、意志と精神の決意は一つの抒情を歌ひあげる。》と、突然、転移するところだ。英雄とは歴史の抒情であるという断定がどのような理由・根拠をもって導かれたのかがわからない。さはさりながら、その先を読み進めると、保田輿重郎が中国大陸を旅して自覚したこととして、わが民族(日本人)がそこに侵入して日本太古の大倭宮廷より伝えられてきた日本の心の形をそこに住む人々から世界に伝授して、世界が開明(開花)する現象を眺められるようになる――というようなことを保田が言いたいのだと推測することができる。
戦争がアジアの昔日の栄光を恢復する
保田にとっての対中国戦争は、日本古代から宮廷によって伝えらえてきた日本文化が世界に伝播するための入口である。満蒙からユーラシア大陸、そして欧州、アメリカへと行き届くことによって、アジアの光栄が恢復できると確信している。
引用Ⓑの一節、《我らの歴史と民族との英雄と詩人に描かれた、日本の美の理想》こそが、引用Ⓐの《英雄とは歴史の抒情に他ならない、人間の抒情がまさに詩人であったやうに、意志と精神の決意は一つの抒情を歌ひあげる。》の回答なのだと推測できる。
しかし、このような戦争観もしくは戦争賛美が総力戦を余儀なくされている時代の要請かといえばおおいに疑問である。保田の〈戦争〉はいかにも軟弱であり、当を得ていない。
文芸とは国体と則一のもの
この小論は1941(昭16)年3月に発表された。保田がノモンハン戦争に従軍した草葉栄の戦争小説について感想を述べたものだ。題名にある「ノロ高地」とは、日本軍とソ連軍が激戦を交わした戦場の地名である。同書は当時のベストセラー小説だった。
この小論においても、一貫性が欠如している。引用©の冒頭では、《近代戦の方法とそれに対する国民の準備、皇軍奮闘の実情に対する銃後国民の覚悟》というふうに、いかにも近代総力戦の実態に即した提言を国民に示すような書きぶりである。ノモンハン戦争が日本とソ連の戦車同士が衝突する近代戦だったことを保田は知っている。だが、突如、著者である草葉栄の戦闘を楽しむ心境を賛美する。「戦いを楽しむ心境」というのが具体的にどのようなことを指し示すのか定かではないが、いかにも唐突である。そして、‶文学者は国民の精神であるとの自覚を高くし、文芸は国体と則一のものであるとの信念をもつべきである。文芸が国体と則一であるといふことは、まことに中世以後の天皇が、しきしまのみちとして民に教へられた日本の文学の真理である″と進む。そして、《しかもかういふ文学者の確立に於いて、草葉大尉があの激選の中で無比の勲功をたて、しかも戦ひを楽しむ心境を造型した気持に近づくであろう。それが文武一体となった精神であらうとも思はれる。》という結語に至る。
保田の記述を単純につなげれば、《戦いを楽しむことが国体と則一であり、それが中世以後の天皇が国民に教えた文学の真理だ》ということになる。このような結論は、前段の国民を近代戦に向かわせるアジテーションとは言い難い。〈日ソの両軍が近代兵器で殺し合うノモンハン戦争という現実〉〈戦ひを楽しむ心境〉〈文芸は国体と則一が、中世以後の天皇がしきしまのみちとして民に教へられた日本の文学の真理〉という保田の不連続性を筆者ははかりかねる。
美意識としての戦争
橋川のこの言説でほぼ言い尽くされていると思われるのだが、美意識といった場合に、美を感じる基準があるはずだ。たとえば、同年代にドイツで台頭したナチズムのいかにもデザイン化された軍隊に保田輿重郎は美を感じただろうか。保田は、短足にゲートルをまいたーー近代化されたドイツ兵の対極にあるーー貧相な日本兵の姿に美を感じたのではなかろうか。そこに古代王朝とともに歩んだ、民衆の姿を重ね合わせていたのではないか。保田の美意識とロマン主義は古代の雅(みやび)とは、ましてや統制的な近代的デザインとは一線を画しているのではないか。
近代の終焉――変容した明治国家への呪詛
『近代の終焉』は「昭和15年(1940)の夏から16年(1941)の夏にかけての1年間に誌したもの」であることが、同書「はしがき」の冒頭に記されている。その一年間、欧州ではナチスドイツがフランスを屈服させ、欧州支配を目前にしていた。9月には日本軍がフランス領インドシナ北部に進駐(北部仏印進駐)した。今日、この日本の軍事行動を以て、アジア太平洋戦争が開始されたとする見解すらある。そしてインドシナ進駐とほぼ同時に、日本はドイツ、イタリアと三国同盟を締結し、アジアから世界征服を夢見て、日中戦争を進めていた。10月には大政翼賛会の発会式があり、軍国ファシズムが揺るぎないものとなった。そして1941年の夏といえば、真珠湾攻撃前夜という、日米間が緊迫した情況を迎えていた時期にあたる。そのころ、日本の青年が国際情勢に係る情報をどの程度知っていたかは定かではないが、保田輿重郎を含めたすべての日本の男子は、いずれ自分が徴兵され、命を賭して世界のどこかで敵と戦う運命にあることを自覚していたのだと思う。
にもかかわらず、この「はしがき」のテーマは、近代の終焉である。保田は真珠湾攻撃前夜という1941年の夏、この期に及んで、日本は明治維新を推進した志士の精神に帰れと書いているのだ。この言説は、いわば反戦宣言に等しい。保田が‶終焉″を宣した〈近代〉とは、明治維新の精神を逸脱した、ときの軍部・官僚・文化人等に支配された「近代国家・日本」にほかならない。保田は‶武器を捨てよ″ではなく、‶文化の第一義とするわが国の精神とその伝統を明らかにせよ″と叫んでいるのである。日本浪曼派に救いがあるとすればここしかない。
日本浪曼派の文明開化批判
橋川文三は、明治国家が進めた文明開化に対して批判的立場に立つ日本浪曼派について、次のように説明している。
橋川の記述の前半には賛同するが、日本浪曼派の思想責任、すなわち限界の指摘については同意しかねる。日本浪曼派が軍部ファッショを批判しきれなかったのは、両者が共に「天皇」を頂点に戴いていたからだと思う。日本浪曼派は、日本文化の源泉でありそのよき継承者として天皇を戴き、一方の軍部ファッショは天皇を国家統治の源泉、最高権力者として戴いていた。軍部ファッショは統治の源泉として天皇を共同の幻想の中心に据えた。そこには文化的意匠も施されていたのである。
天皇は国民に対して直接、強権を発していたわけではない。天皇の名のもとに、「非国民」を取り締まったのは官憲という官僚機構であり、国民を戦地に赴かせ、非合理的戦闘行為で命を奪い取ったのも、軍部という官僚機構である。国民はなぜ、「天皇陛下、万歳」と叫んで死んでいったのか。日本浪曼派と軍部ファッショはその一言において、共犯関係が成立してしまっていたのである。(続く)
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