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1930年代(29)

日本浪曼派(その4)
日本浪曼派と戦争

保田輿重郎は戦争についての記述を残している。満州事変の報を契機として、戦争により鬱屈した閉塞状況が突破される兆しを感じ取ったためだろう。日本浪曼派にとって、戦争とはなんだったのだろうか。

戦争は神話の曙

〔引用Ⓐ〕
日本は今未曽有の偉大な時期に臨んでいる。それは伝統と変革が共存し同一である稀有の瞬間である。日本は古の父祖の神話を新しい現前の実在として有史の理念をその世界史的結構に於いて表現しつゝ行為し始めたのである。蒙疆や満州支那の大陸にゐる我らの若者は新しい精神を、現実を、倫理を、発想を、感覚を、未形の形式でつくりつゝ、その偉大な混沌の中に日常を生きてゐる。すでに我国は新しい決意の体系と、新しい神話を心情で感じる。この時、一切の近代日本の惰性的知識を旧とし、その理論を陋とした、彼らは剣と詩によって、知識と秩序の変革を始めたのである。生と死が互のその肌をふれ合ってゐる瞬間が、彼らの精神の教育であり、倫理の生理である。この広大にして深遠な事件の意味は、選ばれた一国の青年大衆を変革しつゝあることである。恐らくこの遠征と行軍は、日本の精神と文化の歴史を変化すると共に、世界の規模に於いて世紀の変革となるであろう。私はそれを希望しまた信じる。日本は今日、歴史がその荘厳な抒情を展き奏へるあの光栄と感謝の日に臨んでゐる。我々は雰囲気をもつ時代に出会ったのである。それは正しく我らの遠い古の父祖から語り傳へられてきた神話の曙である。
戦争は一箇の叙事詩である。恋愛は叙事詩でなく抒情詩の一つである。この時期に我らは物語小説と詩文学を区別する。今は英雄が各個人の心に甦り、個人が国民と英雄を意識し、己の中にみいだす日である。英雄とは歴史の抒情に他ならない、人間の抒情がまさに詩人であったやうに、意志と精神の決意は一つの抒情を歌ひあげる。(『戴冠詩人の御一人者』新学社・保田輿重郎文庫P7~8。原文の旧字体の漢字を新字体に変換して表記。以下「前掲書①」という。)

 この引用は、1938(昭13)年9月に上梓された、『戴冠詩人の御一人者』の緒言の冒頭箇所である。当時の世情は、総力戦に向けて、国民がすべからく統合されようとしていた時期に当たる。同年1月には、御前会議にて「支那事変処理根本方針」が決定され、「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず」という政府の声明が発出されている。4月には「国家総動員法」が公布され、国民経済・生活が官僚統制下に置かれようとしていた。10月には日本軍が武漢三鎮を占領、日中戦争が本格化する。また、11月には、近衛首相による「東亜新秩序建設を声明(第2次近衛声明)が発出され、日本の戦争目的が東亜永遠の安全を獲得し得る新秩序建設にある」とすることが国民に広宣された。
 保田輿重郎の前出の文章は、言うまでもなく、そのような世情を反映したものだが、戦争を一貫して扇動する内容にはなっていない。この短い引用箇所においてさえ、前の段落と後の段落とが結びつかない。前段は侵略戦争を新時代の到来として賛美し、挙句、《それは正しく我らの遠い古の父祖から語り傳へられてきた神話の曙である。》と結ばれている。
 ところが後段になると突如、一貫性が崩れる。いきなり、《戦争は一箇の叙事詩である。恋愛は叙事詩でなく抒情詩の一つである。》という紋切型表現が挟まれ、《この時期に我らは物語小説と詩文学を区別する。今は英雄が各個人の心に甦り、個人が国民と英雄を意識し、己の中にみいだす日である。》と、戦争が激化するなか、武勇を上げた英雄の心を国民一人一人がもって戦おう、もしくは戦いに臨もうという意識喚起が現れる。わかりにくいのは、《英雄とは歴史の抒情に他ならない、人間の抒情がまさに詩人であったやうに、意志と精神の決意は一つの抒情を歌ひあげる。》と、突然、転移するところだ。英雄とは歴史の抒情であるという断定がどのような理由・根拠をもって導かれたのかがわからない。さはさりながら、その先を読み進めると、保田輿重郎が中国大陸を旅して自覚したこととして、わが民族(日本人)がそこに侵入して日本太古の大倭宮廷より伝えられてきた日本の心の形をそこに住む人々から世界に伝授して、世界が開明(開花)する現象を眺められるようになる――というようなことを保田が言いたいのだと推測することができる。

戦争がアジアの昔日の栄光を恢復する

〔引用Ⓑ〕
我らの歴史と民族との英雄と詩人に描かれた、日本の美の理想は、今こそ我らの少年少女の心にうつされねばならない。今日世界に於いて唯一に浪曼的なもの、理念をもつもの、自体が価値であるもの、未だ形式をもたなかったもの、世界の秩序を変革するもの、混沌の原始を住家とするもの、それらはたゞ日本に集る。しかも日本は初めて浪曼時代を経験し、アジアは昔日の光栄を恢復するであろう。(前掲書①P8)

 保田にとっての対中国戦争は、日本古代から宮廷によって伝えらえてきた日本文化が世界に伝播するための入口である。満蒙からユーラシア大陸、そして欧州、アメリカへと行き届くことによって、アジアの光栄が恢復できると確信している。
 引用Ⓑの一節、《我らの歴史と民族との英雄と詩人に描かれた、日本の美の理想》こそが、引用Ⓐの《英雄とは歴史の抒情に他ならない、人間の抒情がまさに詩人であったやうに、意志と精神の決意は一つの抒情を歌ひあげる。》の回答なのだと推測できる。
 しかし、このような戦争観もしくは戦争賛美が総力戦を余儀なくされている時代の要請かといえばおおいに疑問である。保田の〈戦争〉はいかにも軟弱であり、当を得ていない。

文芸とは国体と則一のもの

〔引用©〕
近代戦の方法とそれに対する国民の準備、皇軍奮闘の実情に対する銃後国民の覚悟、それらは草葉大尉が暗示したところである。又北満の荒野の詩情や戦場の詩心は、大尉の教へたところである。しかし一箇の中隊長にすぎない大尉が、よく戦ひを楽しむ心境を描き出してゐることは、その勇気と確信に於いて、今日の文化の上で眼をみはるべきものがある。しかし我々は銃後文化の低調を悲しむまへに、皇軍現地将兵に自らにして志を蔵した人物に富むことを力づよく感ずればよい。(中略)
・・・現下の文学者の考へることは・・・己は国民の精神であるとの自覚を高くし、文芸は国体と則一のものであるとの信念をもつべきである。文芸が国体と則一であるといふことは、まことに中世以後の天皇が、しきしまのみちとして民に教へられた日本の文学の真理である。しかもかういふ文学者の精神の確立に於いて、草葉大尉があの激軍の中で無比の勲功をたて、しかも戦ひを楽しむ心境を造型した気持に近づくであらう。それが文武一体となった精神であらうとも思はれる。(「ノロ高地」を讀みて/『近代の終焉』(新学社・保田輿重郎文庫P76~77。以下「前掲書②」という。なお表記については前掲書①に同じ。)

 この小論は1941(昭16)年3月に発表された。保田がノモンハン戦争に従軍した草葉栄の戦争小説について感想を述べたものだ。題名にある「ノロ高地」とは、日本軍とソ連軍が激戦を交わした戦場の地名である。同書は当時のベストセラー小説だった。
 この小論においても、一貫性が欠如している。引用©の冒頭では、《近代戦の方法とそれに対する国民の準備、皇軍奮闘の実情に対する銃後国民の覚悟》というふうに、いかにも近代総力戦の実態に即した提言を国民に示すような書きぶりである。ノモンハン戦争が日本とソ連の戦車同士が衝突する近代戦だったことを保田は知っている。だが、突如、著者である草葉栄の戦闘を楽しむ心境を賛美する。「戦いを楽しむ心境」というのが具体的にどのようなことを指し示すのか定かではないが、いかにも唐突である。そして、‶文学者は国民の精神であるとの自覚を高くし、文芸は国体と則一のものであるとの信念をもつべきである。文芸が国体と則一であるといふことは、まことに中世以後の天皇が、しきしまのみちとして民に教へられた日本の文学の真理である″と進む。そして、《しかもかういふ文学者の確立に於いて、草葉大尉があの激選の中で無比の勲功をたて、しかも戦ひを楽しむ心境を造型した気持に近づくであろう。それが文武一体となった精神であらうとも思はれる。》という結語に至る。
 保田の記述を単純につなげれば、《戦いを楽しむことが国体と則一であり、それが中世以後の天皇が国民に教えた文学の真理だ》ということになる。このような結論は、前段の国民を近代戦に向かわせるアジテーションとは言い難い。〈日ソの両軍が近代兵器で殺し合うノモンハン戦争という現実〉〈戦ひを楽しむ心境〉〈文芸は国体と則一が、中世以後の天皇がしきしまのみちとして民に教へられた日本の文学の真理〉という保田の不連続性を筆者ははかりかねる。

美意識としての戦争

・・・一般に浪漫主義というのは政治に対してどういう姿勢をとるかといいますと、政治からの疎外者達、つまり政治に幻滅したひとびとの自己主張の一形態であった。(略)その際、現実には政治の世界から離脱していながら、なおかつ政治に何らかの意味で関りをもちたいという姿勢があった場合、その政治はいわば美意識の内容における政治として描かれるわけです。・・・彼(保田輿重郎)が中国大陸に渡って、日本軍隊によって侵略されている中国の北京周辺を歩きながら何を感じたかというと、日本の兵隊が大陸の広漠たる砂漠の中を走っている、万里の長城の城壁に日章旗を翻して立っている、そのひとりの兵隊の姿を見て、彼はいわば詩人とか俳人と同じような姿勢でその情景自体の中に一種の美を感ずる。そして、「ああこれが戦争である」というふうに把えるわけです。
(略)彼は戦争というものにローマン的本質を見い出すわけです。明らかにこれは戦争というものを美意識によって把えている。いわば美学の世界に反映したものとして戦争をみているわけです。
(『転移と終末/「日本浪曼派と現代」橋川文三〔講演〕P120~121。以下「前掲書③」)

 橋川のこの言説でほぼ言い尽くされていると思われるのだが、美意識といった場合に、美を感じる基準があるはずだ。たとえば、同年代にドイツで台頭したナチズムのいかにもデザイン化された軍隊に保田輿重郎は美を感じただろうか。保田は、短足にゲートルをまいたーー近代化されたドイツ兵の対極にあるーー貧相な日本兵の姿に美を感じたのではなかろうか。そこに古代王朝とともに歩んだ、民衆の姿を重ね合わせていたのではないか。保田の美意識とロマン主義は古代の雅(みやび)とは、ましてや統制的な近代的デザインとは一線を画しているのではないか。

近代の終焉――変容した明治国家への呪詛

〔引用Ⓓ〕
今日世界の列強を見るとき、それらの諸国は各々の形で国情尖鋭となり、その場合に処してゆく国の文化に対する思想は、一様に国際情勢を中心として考へられてゐるようである。文化の当面する緊急の目標は、一つに国際情勢下の自国の盛時を中心として考へ、それ以外のものを普及として抑へんとしている。
しかるに、我国に於いて、文化の第一義とする緊急の任務は、肇国の精神とその伝統を明らかにするところにあると我らは考へてきたものである。この考へは、明治の体制御一新に翼賛した志士文人の思想であった。彼らは四海を堕して押し寄せる黒船襲来の危機の中で、異常の決意を以てまづ国内維新を断行したのである。国の大義を正しくすることが、国難打破の根底と考えついたのである。我が国の国難をよく攘ち払うものは、たゞ建国の大精神に至誠をもって翼賛するこにありと、今や我々は改めて心底より信ずるものである。
世界の大勢を文化の上から眺め、国内思想の転換を顧みるとき、わが国のみちの姿にはなほ慨然と危機ないしは伝統と革新とを題しようとしたが、さらに感ずるところあって、近代の終焉と名づけたのは、己に命ずる意味もあったからである。(前掲書②「はしがき」P7~8)

 『近代の終焉』は「昭和15年(1940)の夏から16年(1941)の夏にかけての1年間に誌したもの」であることが、同書「はしがき」の冒頭に記されている。その一年間、欧州ではナチスドイツがフランスを屈服させ、欧州支配を目前にしていた。9月には日本軍がフランス領インドシナ北部に進駐(北部仏印進駐)した。今日、この日本の軍事行動を以て、アジア太平洋戦争が開始されたとする見解すらある。そしてインドシナ進駐とほぼ同時に、日本はドイツ、イタリアと三国同盟を締結し、アジアから世界征服を夢見て、日中戦争を進めていた。10月には大政翼賛会の発会式があり、軍国ファシズムが揺るぎないものとなった。そして1941年の夏といえば、真珠湾攻撃前夜という、日米間が緊迫した情況を迎えていた時期にあたる。そのころ、日本の青年が国際情勢に係る情報をどの程度知っていたかは定かではないが、保田輿重郎を含めたすべての日本の男子は、いずれ自分が徴兵され、命を賭して世界のどこかで敵と戦う運命にあることを自覚していたのだと思う。
 にもかかわらず、この「はしがき」のテーマは、近代の終焉である。保田は真珠湾攻撃前夜という1941年の夏、この期に及んで、日本は明治維新を推進した志士の精神に帰れと書いているのだ。この言説は、いわば反戦宣言に等しい。保田が‶終焉″を宣した〈近代〉とは、明治維新の精神を逸脱した、ときの軍部・官僚・文化人等に支配された「近代国家・日本」にほかならない。保田は‶武器を捨てよ″ではなく、‶文化の第一義とするわが国の精神とその伝統を明らかにせよ″と叫んでいるのである。日本浪曼派に救いがあるとすればここしかない。

日本浪曼派の文明開化批判
 橋川文三は、明治国家が進めた文明開化に対して批判的立場に立つ日本浪曼派について、次のように説明している。

文明開化批判というのは日本浪曼派の共通の、しかも最大のスローガンなんですけれど、これは何を意味したのかといいますと、要するにうわっつらな近代化に対する批判なんです。その表面だけの近代化ということは、官僚支配の万能性と手を携えた近代化なんです。それを批判したのが浪曼派であったわけです。そこで問題は明治国家体制そのものへの批判者であったか、どうかということです。明治国家体制の批判者というのは、三〇年代の情況においては、ファッショ的な右翼ですね。ファッショ的な右翼がもっぱらその先頭をきったわけです。明治憲法自体の解釈を一定の方向に歪曲し、極端化していった軍部ファシズムというのが、実は明治国家体制のもっともラジカルな批判者だったわけです。ですから当時は左翼ないし自由主義者は、むしろ明治国家体制を擁護しようとして、ファッショと闘ったわけです。逆にファッショのほうが、明治国家体制は時代遅れだとしてこれを否定しようとしたわけです。
では日本浪曼派の明治国家体制批判というのはそれと同じ意味かとなりますと、・・・彼らの主張は軍部ファシズムのそれとははっきり一線を画していたはずなのに、その限界をいっこうにはっきりとさせないままに、つまり現在のファシズムの行き方は、われわれの期待する明治国家批判とは違うんだと内心たえず思いながら、敢えて思想としてそのことを表現しなかったということです。そこに日本浪曼派の運動に一種の無責任があります。彼らの主張は本来のファッショないし戦争賛美に終わるのではなかったはずなのに、そうなっていくのを放任していたというところに、彼らの思想責任があるんではないかと私は感ずるのです。(橋川文三/前掲書③116~P117)

 橋川の記述の前半には賛同するが、日本浪曼派の思想責任、すなわち限界の指摘については同意しかねる。日本浪曼派が軍部ファッショを批判しきれなかったのは、両者が共に「天皇」を頂点に戴いていたからだと思う。日本浪曼派は、日本文化の源泉でありそのよき継承者として天皇を戴き、一方の軍部ファッショは天皇を国家統治の源泉、最高権力者として戴いていた。軍部ファッショは統治の源泉として天皇を共同の幻想の中心に据えた。そこには文化的意匠も施されていたのである。
 天皇は国民に対して直接、強権を発していたわけではない。天皇の名のもとに、「非国民」を取り締まったのは官憲という官僚機構であり、国民を戦地に赴かせ、非合理的戦闘行為で命を奪い取ったのも、軍部という官僚機構である。国民はなぜ、「天皇陛下、万歳」と叫んで死んでいったのか。日本浪曼派と軍部ファッショはその一言において、共犯関係が成立してしまっていたのである。(続く)

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