心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その10

 元奨励会員の筒美が、将棋指しになれなかった自分の人生を振り返り思い出すことを書いています。 
※ ひとつ前の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その9
※ 最初から読みたい方は、心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだすから読むことをおすすめします。

 奨励会
 奨励会は、今も基本的な部分は変わっていないのだが、月の2回の対局の場、例会を中心として運営されているプロ棋士の養成機関だった。例会で成績がいいと上の級や段に上がり、最終的に4段になれると卒業、将棋連盟の正会員である一人前のプロ棋士になれる、という制度で、4段を目指して、みんなで戦う場が奨励会である。
 当時は「シジュウ苦労する」という言葉から来ているらしいのだが、4日と19日に例会が開かれ、平日の場合は学校を休んでいかなければならなかった。
 中学の担任の先生は将棋に理解のある人だったが、学校の規則で決まっていたので、毎回生徒手帳に風邪とか体調不良という適当な理由と判子を親に記入・押印してもらって、それを担任の先生に見せていた。毎回嘘を書いていたので、なんとなく気が咎めるところがあった。
 担任の先生は時々「将棋の調子はどうだ」と声をかけて下さっていたいので、事情はわかっていて黙認していただいていたようだった。
 例会は、将棋連盟の大広間で行われた。
 朝は盤駒・チェスクロックや座布団を出すのが、自分たち新入会員の仕事だったが、先輩が手伝ってくれた。座布団の裏表を見分ける方法を知らずに、裏表を逆に出して、先輩から怒られたりしていた。
 対局に関しては、級位者の対局だと序盤は無駄口をたたいている人もいた。
 その内容は、オールナイトニッポンで山口百恵のトークを聞いたとか、近代将棋に連載されている芹沢先生の随筆にエッチなことが書いてあったとか、プロ棋士の噂話等々、たわいのない話ばかりであった。
 でも、当然のことなのかもしれないが、3段の人を中心に段位者の方がかなり真剣な雰囲気だった。
 昼食は、出前を頼んでみんなで対局場の大広間で食べた。食べている間も、「あそこでああ指すとどうする」みたいな将棋の話をする人がけっこういて、さすがは奨励会だと感心した。
 当時、自分と同じくらいの級で後にプロ棋士になった人には、永作さん、小野さん、泉正樹さん、関浩さんがいる。
 後に書くように、事情があって自分は半年程度で辞めてしまった。秋に6級で入って、年内に5級に上がったが、その後年明けは足踏みしていた。厳しさが身に染みるというほどではなかったが、どうしたら勝てるようになるのか真剣に考えていた。
 あの場所には確かに自分の同類たちがいた。
同年代の仲間がいた。
 自分は一人ぼっちじゃないと思った。
 仲間たちはみな、インディアンが頭につける羽とかやくざ者が体に入れている入れ墨のように、一人一人個性的な将棋観・棋風・得意戦法などを身に着けて戦っていた。
 日差しが差し込む畳敷きの大広間は、みんなで真剣の将棋を指すなんとも言えない趣きのある場所だった。
 ここが自分の求めていた居場所だ、と思った。
 おばあさんの家やI将棋クラブよりもさらに大切な、本当の自分の居場所だと思った。
 もちろん、奨励会は今も当時も日本全国から将棋オタクが集まってきて4段昇段という狭い門をくぐるためにひたすら将棋を指し続ける表面的に見ればかなり息苦しい自閉的な場所である。4段になって一人前の棋士になれるのはだいたい15人に1人程度で、非常に厳しい。I将棋クラブのような意味での開かれた場所ではない。だが、そこには少数民族の連帯感のようなものがあり、また、中小企業的な温かさがあり、これらは、自分の家やT中学にはなかった。
 将棋が広く大きく深い母なる海だとすれば、奨励会は自分にとって高く厳しいが気高く美しい山だった。山があることで、「山に登る」という「やること」ができた。目標とか生きがいと言ってもいい。
 奨励会に挑戦があり冒険があり感動があり考える喜びがあり工夫する楽しさがあり、一番大切なことは将棋盤・駒と将棋を指す相手がいた。要するに人生で必要なすべてのものがあったのだ。
 今思い出す時、「あそこが自分の故郷なのだ」と感じる。なんとも言えない味のある場所だった。でも、現在の奨励会を見学させてもらうことができたとしたら、故郷は変わったなあと思うだろう。
 旧将棋連盟の建物は近代的な現在の将棋連盟のビルに建て替えたし、奨励会員の気質もずいぶん変わっているようだ。
 自分の頭の中にしかない故郷なのである。

※ 次の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その11

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