見出し画像

俳優の不祥事における「作品に罪はない」論争に結論はあるのか

インターネットができてからというものの、多くの作品に触れられる機会が多くなりました。

TwitterのようなSNSがあれば生の口コミを得られ、知らない作品やおもしろい作品に出会いやすくなっています。

「君の名は」や「カメラを止めるな」のように口コミベースで急速に広まります。

それは、インターネットが一般化してなかった頃にはありえない速度です。

そこでは映画賞とはまた違う評価も拾うことができ、そればしばしば賞が持つ信頼性を超えることすらあるのです。

なぜかと言うと、面識のない批評家の意見ではなく、より自分に近い一般人の意見を聞くことができることが信頼性を増している要因です。

これはSNSの普及による正の側面の一つ。

しかし、表があれば裏もあるのと同様に、SNSにも負の側面が存在します。

俳優の不祥事による作品への影響です。

特にここ最近はそれ自体がブームになっていることもあり、より影響が強いと感じています。

小出恵介、ピエール瀧、新井浩文、沢尻エリカ、東出昌大など、不祥事を起こして映画やドラマ界から消えてしまう可能性がある俳優が何人もいます。

そして、その時に必ず起こる論争があります。

「作品に罪はない」という論争です。

作品には罪はないのだから、公開延期や、撮り直しなど不要だと主張する人がいるのです。

その多くが作品を待ち望み、また映画やドラマなどを趣味に持っている人たちなのです。

ここでは、作品における罪の有無ではなく、不祥事が与える作品への影響について言及していきたいと思います。

不祥事と作品への影響

作品への影響はあるのかという問いには、残念ながらあるという答えになってしまいます。

俳優は生身の人間ですから、イメージというものがどうしてもつきまとうからです。

清純派や、品行方正な役ばかりやっている俳優が、不倫していたり、ドラッグに手を染めていたとします。

普段私は、俳優のプライベートと作品としての役は別物だと考えていますが、それでもどうしてもその作品を観るときに先行するイメージみたいなものがあって、それが良くも悪くも影響を受けます。

不倫した人がめちゃくちゃ純愛モノの作品に出ていて「お前しかいないんだ」的な愛をささやいていたとしても説得力はありませんよね。(ある意味ではリアルさを増す部分もあるけども、、)

ドラッグに手を染めている人が感動ストーリーに出ていても、なんとなくの違和感が出てしまいます。

イメージはどうしてもつきまといます。

「別に」発言で過去炎上していた沢尻エリカは「ヘルタースケルター」でそれまでの清楚なイメージを一転させ、悪女で闇を抱える女として成功しました。

それまでの彼女ではなかなか難しい役どころでしたし、そうなるまでに何年もかかりました。

せっかく過去のイメージを克服し、新たなイメージを定着させたところだったので、残念でなりません。

しかしやはり、ドラッグを、やっていそうというイメージと実際にやっていたという事実は別物なのです。

不倫は重罪か


ドラッグは日本では禁じられています。

他国では認められていたとしても、今の日本という国家にいる以上、それを認めてはいけません。

日本の法に触れた人を映画に出てるからといって恩赦するような特例はないし、あってはならないのだからきちんと罪を償ってもらうしかありません。

しかし、不倫はどうでしょうか。

民事で訴えられる可能性はあるものの、刑法を犯すようなことはしていないのです。

当事者同士の問題です。

にもかかわらず、そこで起こることはかなり残酷です。

その時、出演している作品があった場合、その番組を見ないと宣言する不視聴運動や、下手をすればそのスポンサーの商品の不買運動が巻き起こります。

それはSNSがない時代と違い、大きな渦となり、本来参加するつもりのない人でさえ巻き込んでいくのです。

芸能人の不倫への興味あるなし論争はまた別の話なので、ここで特に言論するつもりはないですが、男女の問題に関しては世論の影響を受けやすいのも事実です。

そして、その人の収入は減り、下手をすれば企業から賠償金を請求されることでしょう。

社会的制裁を受けるのは、本人だけでなく被害を受けた相手方も、そしてその子供にも影響を及ぼす可能性を孕んでいます。

これは本当に適切な罰なのでしょうか。

SNSの恐怖


SNSの怖さはこの拡散力によるイメージや行動の伝染です。

不祥事が起きるとイメージが損なわれるだけでなく、時に不買、不視聴運動が起こります。

個人では考えていなかったことが、他人を通じて悪いイメージを共有してしまいます。

そこで被害を被るのはスポンサー企業です

企業自体はおそらくその作品にはさして興味がないでしょう。

映画のスポンサーとなり、企業の宣伝をする上で必要だと思ったからお金を払っているのが実態です。

それなのに不祥事が発生して、イメージが損なわれる可能性があるとしたらどうでしょう。

イメージの毀損は起こってからではもう遅いのです。

起こる前に手を打たなければなりません。

このあたりのリスク回避の判断はなかなか難しいところでしょう。

いくら作品に罪はないとしても、それは企業も同じです。

企業に罪はないとするなら、余計な損は避けたいと思うのが必然でしょう。

その企業で働くのもまた人間なわけですから、自分に火の粉がかかってまで、守り切るものでもないわけです。

すると、不祥事を起こした者への罪の重さを考える前に締め出すしかありません。

そこで起きるのが「作品に罪はない」論争です。

しかし、「作品に罪はない」と主張する人々の分は悪いです。

世界は、正義と悪で物事を考えます。

その方がシンプルだからです。

とすると不祥事を起こした側を擁護する人たちの言い分はどうしても弱くならざるを得ません。

法を犯したにせよ、不貞を働いたにせよ、いわゆる悪いことをしてしまっているからです。

子どもの頃に親や先生、友だちに言われたいけないことをしてるからです。

逆に正義と思っている人たちの意見は強いです。

だからこそ企業は番組を降板させて、火を消すことを重視します。

需要と供給があって初めて映画は作られます。

誰にも需要のない映画は作られないし、作ることができません。

監督が作りたいだけで、すべての資金と人材を集められるのであればいいですが、そんなことはあり得ません。

映画には莫大なお金が必要で、それをペイできるほど稼げる見込みがなければ作ることはできないのです。


クラウドファウンディングに勝機はあるのか


それでは、作品を観たい人と作りたい人が直接繋がればどうでしょうか。

今ではクラウドファウンディングという、支援者による資金提供する仕組みが整っています。

例えば名作と名高い「この世界の片隅に」は、Twitterの2010年代の映画ベスト10でアニメ部門でトップに輝きました。

https://tolkoba.com/movie/twitter-2010s-movie/

これは、実はクラウドファウンディングで資金調達された映画です。

https://www.makuake.com/project/konosekai/

実に4000万円という額が集まりました。

しかし、映画製作におけるクラウドファウンディングはまだまだ難しいのが現状です。

https://www.itmedia.co.jp/news/spv/1704/14/news066_2.html

なぜなら映画製作は数千万円では全く足りないからです。

映画の製作には、比較的小規模な日本でも数億円かかることも珍しくありません。


2万人が1万円ずつ支援すれば2億円集まります。

しかし、クラウドファウンディングには、リターンが必要ですので、その分のリターンをきちんと考える必要があります。

2万人分が1万円出したいリターンなんてなかなか難しいですよ。

こういう理由で、まだまだクラウドファウンディングは一般的ではありません。

その名を聞いたことがあっても、それを支援という形で利用した人はどれほどいるでしょうか。

作品の罪は個人が決める時代へ

でも、クラウドファウンディングは可能性を秘めた資金調達方法に違いはありません。

クラウドファウンディングによる支援により、映画化される作品がこの先どれほど出てくるのか分かりませんが、作品の作り方の選択肢は多様化していくことは歓迎すべきことです。

SNSで世界とリアルタイムに繋がることを可能にしました。

しかし、そろそろみな気づきはじめています。

世界はある程度分断される必要もあるのです。

万人が賛成する世界はありません。

あえて切り離す内なるコミュニティは必ず必要なのです。

議論は必要ですが、必要な作品を需要のあるところにだけ届けられる仕組みが必要ではないでしょうか。

もしくは需要のないところへ届けないようにする仕組みが必要なのです。

さすれば、1つの過ちにより世界から取り残されることもなく、その人に合ったコミュニティの中で生きていけるように思うのです。

それこそがグローバル社会の利点ではないでしょうか。

映画もスポンサー企業のみの支配から脱却していく必要があります。

様々な人々が生きていくためには、それぞれにあった環境が必要でしょう。

そして、そこに不祥事を犯した人が入れるかどうかは支援者が決めるのです。

人が人を裁くというのとは違いますが、自分たちが作り上げたコミュニティに、入れるか入れないかを決めるのは、支援者たちなので、今よりも納得のいく結果になるでしょう。

これからは個人の意見を代表した企業が決めるのではなく、個人の意見が反映されていく時代になっていきます。

もちろん、資金を調達するには多くの人が必要ですので、たくさん人を集める必要がありますし、人が集まればそこには亀裂が生まれます

どこまでも争いはなくなりませんが、近しい価値観を持つ者同士であれば分かり合えることもあるかもしれません。

価値観が真逆の人たちが罵倒しあっている今の世の中よりは良くなることを願います。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?