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老舗蕎麦屋のなべりん

女店主のそばが売りの店らしかった。


老舗らしい古びた店構えと、シールや手書きの丸文字に彩られた真新しい立て看板がちぐはぐな感じがした。

店に入ると、店主らしき若い女性が調理場から顔を出した。明るい色の今っぽい着物が、古い店内でやたら目立っていた。

女店主に言われ軋む階段を登って2階に上がると、小柄な男性が一人で給仕をしていた。


60代後半といったところだろう。
席につき、声をかけると、片脚を引き摺るようにして注文をとりに来た。

なんだかぼうっとした男だと思った。
茶色くくすんんだ古い肌に、白髪混じりの眉毛が申し訳なさそうに乗っている。


こちらの話を聞いているのか聞いていないのか、手元ばかり見てろくに返事もしない。


もごもごと口籠もるばかりで、オプションの卵の注文が通ったのかも結局わからなかった。

何やら手元の紙に書き付け終わった男が、席から離れようとした時だった。

「なべりーん!」

階下から女性の呼び声が響いた。
慌てて辺りを見回すが、他の客は変わらずにそばを啜っている。


どうやら声の主は、階下の若い女店主のようだった。

「なべりーん! おそば上がったよー!!」


はあい、と掠れた声が聞こえた。
は、とも、へともつかないような発音だった。


私は給仕の男が、女主人からなべりんと呼ばれているのだと知った。


ナベシマか、ナベヤマか、とにかくこの給仕の男はナベ何某と言うのだろう。


老いた「なべりん」は、決して若い女主人には届かないような声で、しかし返事をしたのだった。

呼びつけられた「なべりん」はのろのろと振り返ると、脚を引き摺りながら、女主人と蕎麦の待つ1階へ降りていった。

その年月を経て丸まった背中が階段の向こうに消えていくのを、私は何処か神妙な気持ちで見送った。

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