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学力論争史(松下佳代論文)を読んで

 下記で紹介されていた論文を読んでみました。3ページのPDFファイルです。

 学力論争は戦後に始まり、第1期から第5期に渡って行われてきたそうです。そのうち第4期は1991年の「新学力観」(「関心・意欲・態度」の重視)に対する批判として、竹内常一らは「イリイチの脱学校論やフレイレの批判的リテラシー論などのポストモダンの教育言説」に依拠して、「批判的な学び方の学習」を主張したそうです。当時かなり影響力を持っていたそうです。

 学力概念は肥大化しやすく、多義的で曖昧な議論になりがちなので、それをどのように限定して定義するかについて、いくつかの主張がなされてきました。たとえば認知科学者の佐伯胖は学力を「子どもの知的性向のうち、その獲得・形成が教師の意図的・計画的・組織的な教授活動に帰せられるべきことが主張できる部分」と定義しました。学力という概念の実在性を否定し、教師が介入できる部分のみを学力を呼ぼうというわけです。
 一方、教育社会学は学力を「ペーパーテストで測定した学業達成」と操作的に定義し、データに基づく研究を志向しました(苅谷剛彦など)。能力シグナル(学力データ)に議論を限定することで一定の成功を収めてきたといえます。
 学力の中身をどのように限定すればよいか、その限界設定の基準としては、公共性、指導可能性、評価可能性、教育資源の確保可能性などが挙げられています(石井英真)。

 簡単にまとめれば、教育社会学や教育経済学では測定しやすいデータに限定することで学力を実証的に研究することに成功してきました。一方、教育学においては、学力という概念を教育実践者のコントロール下に置きたいという動機があるように思います。教師が介入できるものだけを学力と呼ぶという考え方は、およそ一般的な用法ではありませんし、教師のいないところでも子どもは当然学ぶわけですから、学力という概念を教師が独占しようと画策しているようにも見えます。教育学が社会学や経済学の後塵を拝してきた原因の一端はこういうところにもあるのではないかと感じます。本稿によれば、教育学者から提出された学力論の二大巨頭は、前述した竹内のポストモダン教育言説と、もう一つは佐藤学の「学校で教える内容についての『学び』による到達」という限定的な定義だったそうです。どちらもセンスが悪いと思います。前者は流行のポストモダン左翼言説に過ぎなかったわけですし、後者は「教師による教師のための学力観」のように見えます。これでは教育学が衰退するのも頷けます。

 本論文は簡潔に整理されていますので、学力論争に少しでも興味のある方は読んでみると面白いのではないかと思います。


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