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3.京橋の欄干柱

さて、橋はパブリックアートではない。けれど、古い橋の欄干柱(らんかんばしら)がふと公園に置かれていると、「あれ?これってなにかの作品なのかな」となんとなく気になる。近寄って案内板を読んで、「へー、これって以前京橋にあったのか」とか。

橋としての機能を長年勤めて、橋が解体されたあともその欄干や親柱を保存してとっておく。その気持ち、わかるなぁ。なじみのある、橋の名前が書かれた親柱は、地元の人にとって愛着のあるものだし、歴史的な価値のあるものだと思う。

■神田明神に残る元万世橋

以前、神田明神を散策しているときに、本殿裏の合祀殿の脇を抜けた外から見えないちょっとした秘密基地のような空間に橋の欄干があって驚いた。石製の円柱に玉ねぎ型の擬宝珠(ぎぼし)が乗っかり、側面に「元萬世橋」と書かれている。明らかに、橋の欄干、しかも橋の名が刻まれているということは親柱だろう。調べてみたら、現在秋葉原と神田川が交差するところにある「万世橋」には何度か流されたり作り直されたりした歴史があり、新しく万世橋ができたタイミングで、古い万世橋が「元万世橋」という名前に変わったそうで、そのころの橋の欄干が後に移設されて神田明神の境内に残っている、と。特に案内板もなく、石碑を取り囲む柵の一部として、ひっそりたたずんでいる。

以前、神田小川町にある元額縁屋さんの「優美堂」から「神田明神」までを歩く、街歩き企画のガイドをしたことがある。その際に、元万世橋があった場所を紹介しつつ、最後に神田明神でこの欄干を紹介した。古いものがなくなっても、その痕跡が意外なところにあって面白い。

■日比谷公園の京橋欄干柱

さて、日比谷公園にもとある橋の名残がある。それは、明治8年(1875)につくられた京橋の欄干柱である。肥後の石工、橋本勘五郎により作られた石造りのアーチ橋で、銀座レンガ街とともに銀座の入り口として栄えた。1901年(明治34年)に交通量の増加に伴い鉄橋に架け替えられ、その後大正11年(1922)の架け替えの際に、この欄干柱が日比谷公園に移設された。

当初は、この欄干柱とともに、「京橋/きょうばし」の名を刻んだ親柱もここにあったそうだが、昭和9年(1934)に京橋の橋台地に移され、そこで現在も見ることができる。

京橋の親柱(番外編)

現在、京橋の親柱は中央通りと東京高速道路が交差する位置の歩道で見ることができる。日比谷公園で京橋の欄干柱を見た後は、ちょっと足を延ばしてこちらの親柱を見に行ってもよいかもしれない。日比谷公園の欄干と同じ、明治8年(1933)につくられた石造りの親柱が2基と、大正11年(1922)に架け替えられたアール・デコ調の親柱1基を見ることができる。

■所在地
1.京橋三丁目5番先 旧京橋北東側橋詰位置
2.銀座一丁目2番先 旧京橋南西側橋詰位置
3.銀座一丁目11番先 旧京橋南東側橋詰位置

1.「京橋」と漢字で書かれた明治8年(1933)の親柱
2.大正11年(1922)のアール・デコ調の親柱
ちなみに、道路を挟んだ向かいの交番はこの親柱のデザインを模しています
3.交番の隣にある、「きやうはし」とひらがなで書かれたもうひとつの明治の親柱。

■参考資料

1.京橋の親柱 - 歩・探・見・感
https://citywalk2020.hatenablog.com/entry/2022/07/29/160943
2.都立日比谷公園(Hibiya Park, Tokyo) 園長の採れたて情報
https://twitter.com/parkshibiya/status/871239492086013952
3.京橋の親柱(きょうばしのおやばしら)
https://www.city.chuo.lg.jp/a0052/bunkakankou/rekishi/bunkazai/kuminbunkazai/kyobashioyabashira.html


「日曜アーティスト」を名乗って、くだらないことに本気で取り組みつつ、趣味の創作活動をしています。みんなで遊ぶと楽しいですよね。