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短編小説その1「人魚姫の泡」

短編集その一 人魚の泡 人魚の泡は無数に浮かび上がる貴重な宝飾品である。日差しに輝きながら昇って行く、どことてあてなどなくとも昇り続けるけれど、人魚姫が泡となって解体したのではない。そのそこの島に人魚姫はまだ横たわっている、王子様の頭を膝の上に載せて、歌を歌いながら優しく頬を撫でて通過する船を眺めている。泡を生み出すのは人魚姫ではない、優しく撫でる王子様の頬が溶けて人魚のような淡い泡が立ち上っている。優しさが仇となるのか心を込めて頬を擦るたびに、少しずつ肌の表から肉が失わ

    • 丸山眞男著 「現代政治の思想と行動」を読んで

      日本の思想に関して、何冊か興味を持ち読んだ本がある。このうち一冊を紹介したい。まず丸山眞男の「現代政治の思想と行動」である。本書は著者によりコレクション(選別された短論文)された、政治というより、全体主義またはファシズムを中心に記述している。無論、斜め読みであるが、丸山眞男の思想の核は記述されていず、思考はあっても思想の無い本であると判断している。この思想の無いという意味が、彼自身の思想が記述されていないためか、元々少ししか思想を持っていないためかは良く分からない。本著書に対

      • 題:マーク・ルラ著 佐藤貴史・高田宏史・仲金聡 訳「シュラクサイの誘惑  現代思想にみる無謀な精神」を読んで

        哲学者とその政治行動に関する冒険的なエッセイである。分かりのよい文章で哲学者の思想の紹介にもなっているが、僭主政治に手を染めた者を非難する一貫した姿勢はとても厳しい。たぶん、著者は哲学者が真理へのあこがれと同時に具体的な秩序づけ(政治)を行いたいとする欲望との間には関連があり、この衝動が、無謀な情熱とも成り得ることを人間の心の中にあることを見抜いていたプラトンの考えを受け継いでいるのである。即ち心が観念を取り扱う哲学者には、この自らの心の衝動を統御する至高の自覚を求めているの

        • トマス・ホッブズ著 角田安正訳 「リヴァイアサン 教会国家と政治国家の素材、形態、権力」を読んで

          トマス・ホッブズは16世紀生まれのイギリスの政治哲学者である。『人間同士は闘争状態にある』という思想が有名である。当然、国家を構成する人間の関係が論じられている。ざっと読んでみるとホッブスの思想は分かりやすい。というり、論旨を除いた子細な点は読み飛ばしているためかもしれない。この「リヴァイアサン」を読んでみると、数学的な論理で記述したスピノザを思い出す。スピノザは1632年生まれだから、1588年生まれのホッブスの思想は、スピノザの他にもロックやルソーにライプニッツにJ・S・

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        短編小説その1「人魚姫の泡」

        • 丸山眞男著 「現代政治の思想と行動」を読んで

        • 題:マーク・ルラ著 佐藤貴史・高田宏史・仲金聡 訳「シュラクサイの誘惑  現代思想にみる無謀な精神」を読んで

        • トマス・ホッブズ著 角田安正訳 「リヴァイアサン 教会国家と政治国家の素材、形態、権力」を読んで

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          題:紫式部著 「紫式部日記」を読んで

          テレビで紫式部のドラマを行うというので、見るか見まいか迷っている。映像で紫式部を見ると、私自身の紫式部像が崩壊してしまうためである。たぶん、初回だけ見る確率が高いだろう。後はたぶん見ない。「紫式部日記」などを読んで得た私の紫式部像を大切にしたいためである。作られた映像よりも文章を重んじたいためである。なお、この像は主に「紫式部日記」から得たもので、感想文を2016年11月に記述している。この感想文を以下に紹介したい。 ーーーーー 「源氏物語」は以前、岩波古典文学大系で読ん

          題:紫式部著 「紫式部日記」を読んで

          矢島文夫訳 「ギルガメシュ叙事詩 (付)イシュタルの冥界下り」を読んで

          ずっと前に買っていてやっと読めた本である。読んだ感想はやはり叙事詩は良くて、楔形文字が完全に残っていれば、完訳ができてより強い感動が生じたに違いない。「はじめに」で本書について解説しているので若干紹介したい。本書は古代オリエントの最大な文学作品である。ティグリス・エウフラテス両大河の河口に住んでいたシュメール人が作成した宗教や政治性に人間性を表現豊かに持たせた文学作品である。シュメール人の後にはアッシリア・バビロニア人政治的に優位にたったが、シュメール人の文化を受け継いだもの

          矢島文夫訳 「ギルガメシュ叙事詩 (付)イシュタルの冥界下り」を読んで

          伊藤整著 「小説の方法」と「小説の認識」と「近代日本人の発想の諸形式」を読んで

          半年以上前に読んでいて、感想文を一つ一つ書こうと思ったが、余り思い出すことがない。内容にそれほど斬新な思想も無いため、結局まとめて書こうと思ったのである。これらは短論文の形式を取っていて、それも何度も訂正し再出版したらしい。著者の苦労の割には伝わってくるものが少ない。文章の切れがあまり良くない、使用する言葉の定義も成されていない、また些か論理に欠けるところがある。良く分からないところもある。たぶん、伊藤整は東西の小説をたくさん読んでいるが、哲学書など論理本を読んでいないために

          伊藤整著 「小説の方法」と「小説の認識」と「近代日本人の発想の諸形式」を読んで

          アインシュタイン著 中村誠太郎・南部陽一・市井三郎訳 「晩年に想う」を読んで

          稀に科学本を読むことがある。このアインシュタイン著「晩年に想う」もそうである。彼が量子力学を本当に嫌っていたかどうか知りたかったためでもある。確かに、彼の量子力学の振る舞いに対する懐疑的な見解が述べられている。でも、量子力学なる理論は当然ながら理解している。ただ、感性が受け入れないのである。それ以上に、感服したのは政治的な見解、国際連合に対する批判である。発足した当初から、国際連合の欠点を見抜いていたのである。無論、ニュートンなど科学者に対する賛美や哀悼の意も、またユダヤ人と

          アインシュタイン著 中村誠太郎・南部陽一・市井三郎訳 「晩年に想う」を読んで

          ハインリヒ・v・クライスト著 山下純照訳「こわれがめ」と種村季弘訳「チリの地震」を読んで

          「ドゥルーズ 千の文学」で大宮勘一郎は「クライスト 群の民主制」と題し、ハインリヒ・v・クライストについて記述している。ただ、読んだ作品名は「チリの地震」が辛うじて記されているだけで、なぜ「群の民主制」なのかは良く分からない。「ドゥルーズ 千の文学」では、四十人を超える各作家について論評されているが、主要著作物名や論旨不明確な論評は初めてである。記述内容が「群の民主制」―あるいは戦争機械=国家に、「状態の知」、「不滅と少女たち」と題しているが、「こわれがめ」、「チリの地震」に

          ハインリヒ・v・クライスト著 山下純照訳「こわれがめ」と種村季弘訳「チリの地震」を読んで

          ヴィトルド・ゴンブロヴィッチ著 工藤幸雄訳「東欧の文学Ⅵから コスモス」および「ゴンブロヴィッチ短編集」を読んで

          不思議な小説である。不思議というのはシーニュ(意味しているもの)が言語ではなくて首吊りという現象による。そして、シニフィアン(意味されているもの)が、この現象の内に表されていても、その現象の確かな意味、シニフィアンが何かは良く分からない。次から次へと吊るされ死んでいき、不気味さだけがある。固定的ではない、吊るされていく生き物の種類は移り変わっていくのである。ただ、最後に作者の意図が明確になる。読んでいる途中に、フランツ・カフカの「流刑地にて」という小説を思い出したが、拷問し処

          ヴィトルド・ゴンブロヴィッチ著 工藤幸雄訳「東欧の文学Ⅵから コスモス」および「ゴンブロヴィッチ短編集」を読んで

          葛西善蔵著 「子をつれて 他八編」を読んで

          時々、近代日本の文学論を読むと葛西善三など、ほんの少し名前だけ知っている作者と作品名が登場してくる。具体的に言うなら、伊藤整の「小説の方法」などを読むと近代日本と西洋の作家との読んでいない作品が登場してきて論じられる。別に読まなくとも良いのであるが、何か気に掛かる作品は読むことにした。無論、何かしらニックネームを付けられた作家などもいて、私的な観点ながらイメージの悪い作家は読まないことにする。この葛西善蔵の「子をつれて」も田山花袋の「蒲団」ほどではないが、結構登場するし、気に

          葛西善蔵著 「子をつれて 他八編」を読んで

          川端康成著 教科書で読む名作「伊豆の踊子・禽獣ほか」を読んで

          川端康成に対する私の評価はそれほど高くはない。文章も作品の内容も粗さが目立つ。小説家として上手いとは言えないのである。その上手くはない文章と作品の筋の粗さが、一層、読者をある種の虚無とか無の中に引き込む作用があるかもしれない。幻影的に現実感を喪失させ、生命に翳りを内包させる彼の作品群は、当然その削ごうとする生命に活力を与えることができない。ただ、逆に翳りあるこの生命の暗さの内に読者を安住させて、心身共に安心感を与えてくれるのかもしれない。それとも、安心感を与えることなどなく、

          川端康成著 教科書で読む名作「伊豆の踊子・禽獣ほか」を読んで

          井原西鶴著 杉田穆 校注「好色一代女」を読んで

          「好色一代女」は「好色一代男」と趣向が異なる。そもそも「好色一代男」とは好色を好みその道をまっしぐらに進む男の話である。行く付き先は「女護の島」なる宇宙である。限りなく好色を尽くすことができる理想の地にたどり着かんとする。楽観的な希望に溢れる結末が待ち構えている。それに比較して「好色一代女」は、性に目覚めた女が身を売る女郎へと転落する話である。この女郎も位は天と地の差がある。一夜の代金も雲泥の差がある。それに、素人女の色恋沙汰が混じり合わせている。いわば、希望に代わって、悲哀

          井原西鶴著 杉田穆 校注「好色一代女」を読んで

          井原西鶴著 松田修 校注「好色一代男」を読んで

          「好色一代男」は「好色一代女」と共に一度は読んでみたかった本である。「好色五人女」は以前に読んだことがある。感想文も書いている。八百屋お七など。四人の女が悲劇で終わり、一人の女のみが男と共に裕福に暮らすことができた。いわば、当時の実際の男女関係のもつれが題材となって書いた作品のはずである。この「好色一代男」は好色な男の色に関わる一生を描いている。無論、一代限りで跡継ぎはいない。「好色一代女」も同様に好色な女の一生を描いている。同じく一代限りで跡継ぎはない。小話を重ねて話は進み

          井原西鶴著 松田修 校注「好色一代男」を読んで

          川端康成著「みずうみ」を読んで

          小説と言う名を借りた取り留めのない作り話と言って良い。小説とはそういうものだと言われればそうであるが、質的に低い作品の、この「みずうみ」は母の村のみずうみである。少年時代の銀平はやよいを誘き出して幸福にひたっていた。無論、湖には霧が立ち込めて岸辺の氷の向こうは霧に隠れて無限だった。この「無限」という中途半端に使われた言葉の意味を、この「みずうみ」なる小説で見つけ出すことは容易ではない。決して霧に隠れて視界が閉じて無限に見えないのではない、霧が世界を覆っていても無限に世界が広が

          川端康成著「みずうみ」を読んで

          題:レーモン・ルーセル著 岡谷公二訳「アフリカの印象」を読んで

          少しずつ一ケ月以上かけて小刻みに読んで、読む終えたらこの小説の内容が良く分からなかった。主人公らしき人物がいるが、それ以上に登場人物が結構多い。それに、彼らの遭遇する、もしくは引き起こす出来事が、横道に逸れた物語も含めて、これまた多いのである。文章は事実を羅列式に述べるようでも、結構味わい深い。現実の事実が並べられているようでも、逆に幻想的でもあり、修飾語も味わい深いものがある。おおまかな筋を数頁ずつ捲りながら調べて、岡谷公二の「解説」を読むと、最初に抱いた印象がそれなりに当

          題:レーモン・ルーセル著 岡谷公二訳「アフリカの印象」を読んで