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短編小説その1「人魚姫の泡」

短編集その一

人魚の泡

人魚の泡は無数に浮かび上がる貴重な宝飾品である。日差しに輝きながら昇って行く、どことてあてなどなくとも昇り続けるけれど、人魚姫が泡となって解体したのではない。そのそこの島に人魚姫はまだ横たわっている、王子様の頭を膝の上に載せて、歌を歌いながら優しく頬を撫でて通過する船を眺めている。泡を生み出すのは人魚姫ではない、優しく撫でる王子様の頬が溶けて人魚のような淡い泡が立ち上っている。優しさが仇となるのか心を込めて頬を擦るたびに、少しずつ肌の表から肉が失われて小さな泡となって昇っているのである。死んだ王子様の頬や体が次第にこけるに連れて、一層多数になって輝きを増した泡が昇っている、この宝飾品の見事さはその美しく煌めく球体にある。撫でると溶け失われる肢体を人魚姫が知らないはずがない。でも人魚姫は成す術を知らない。撫でること、歌うこと、眺めること、これ以外の行為を思いつかないのである。泡が立ち昇ることをどうしても止めることができない、人魚姫は泡になっていく王子様を信じられないのではなくて信じたくない。もはや撫でること、歌うこと、眺めること、これしか成し得ないことを、それしかできないことを人魚姫は知っていて、ただ成しているだけである。


海に浮かぶ船がそっと汽笛を鳴らすときがある。島に船が乗り込んでくる前触れなのか、輝く無数の泡の宝飾品に感動したためか、美しい人魚姫を見て心をときめかせためか、歌う声の澄んだ響きに心の内が懐かしさに捕われたためかは知らない。でも汽笛は何回も続いて鳴り響く。そしてこの海を横切るように何艘もの船が通過していく。でも何もが起こらない、船はゆっくりと大洋の輝く青ざめた水面の向こう側に向けてただ通り過ぎている。何かに気づいて汽笛を鳴らしたならば、何かが生ずるはずであっても何もが起こらない。青ざめた海が広がり陽の光が優しく注いで、そして生じた無数の泡が立ち昇っている。優しく王子様の頬を撫でている優しい指先を持った美しい人魚姫がいるだけである。こうして何もが起きないまま移ろいゆく時が人魚姫にはとても大切に思われる。知らぬ間に時は続いて去っていくが、何も起きないまま永久に続くわけではない。いつしか人魚姫が歌うのを止める時がくる、愛する人を撫でるのを止める時もくる。ただじっとして、海の向こう側を遠くの彼方を見ている時がくる。王子様よりもっと大切なことに気づいたためか、海の底のお城を思い出したためか。でも王子様の頬がこけて泡となって消えていくことに心を痛めている。青白くて薄く張り付いた頬に触れると、その薄さに悲しくなるけれど、この膝の上に乗せた王子様を心の底から人魚姫は愛しているのである。


遠くを眺めるのに飽きると、そうっと膝から王子様の頭を離して岩の上に載せる。まだ綺麗な宝飾品のように泡が立ち昇っている。目元に色めいて何個かの泡がこびり付いている、この何個かの泡がどうしてか天に向けて昇ろうとしない。人魚姫は離れない泡に指先を触れる、掴むつもりではなくてそっと触れる。白くて細い指に泡粒は即座に弾け飛んで割れる。一瞬だけ心をときめかせて鮮やかな色が広がって見え、そして瞬く間に消える。人魚姫はこの消える瞬間に嘗ての王子様の微笑む顔を見い出している。人魚姫を招いていた凛々しい笑顔を見る。目を閉じて痩せていても王子様はやはり王子様の役割を忘れてはいない。人魚姫はまた別の泡に指を触れると割れるその瞬間に、青い目をした王子様の笑い誘う顔と招き寄せる優しい手を見い出している。陽は移ろわずに頭上から光が変わらず降り注いでいる。船の鳴り響かせる汽笛が何度も聞こえてくる。そのまま通過するとも船は遠くから二人を見守るように汽笛を送っている。人魚姫は岩の上に横たわった王子様を抱くようにして自らの体も横たえる。それは愛する者への労わりを込めている。静かに波打つ音が聞こえてきて、人魚姫は泡粒が描き出した一瞬の出来事の内に確かに悟っている。王子様は私を私だけを愛していると、そうでなければどうしてあの弾けるような笑顔を見せるだろう、手をかざして招くのだろうと。私を除いて王子様のお妃になれる者は誰もいないと人魚姫はもはや疑いはしない。確信している。


頬を優しく撫でると柔らかく溶けそうで、薄い肌であっても指が吸い込まれるように柔らかくて、心も蕩けて和やかになり幸福である。そうした実感がある。人魚姫はそうっと上半身を持ち上げると王子様の青白い頬に唇を近づけて甘い接吻をする。唇が頬に触れると、確かに人魚の美しい顔の全体が王子様の顔の内に静かに溶け込んでいる。まるで優しく抱いた体と一つになるように、心も含めたすべての全体が合体するかのように融合し始めている。初めて契っているのである。人魚姫は海の底のお城を思い出している。懐かしい両親の心配する姿や踊り慰めてくれた魚たちの姿に、前に向けて進めと励ましてくれた姉の勇気に感動していた時のことを。こうして生まれ育った海の底のお城を思い出しながら、愛される者として人魚姫は確かに王子様と契りを結んで至福にいる。王子様と晴れて結婚してお妃さまになったのである、この儀式の祝いのためか、泡の粒がいくつも現れて遠くへと立ち昇っている。この鮮やかに光り輝く泡は人魚姫そのものが泡になって、天の高い位置に向けて昇っている。昇った天の高い位置から、泡の粒になった人魚姫が愛する人と一緒にこの地を眺めている、人魚姫にはそんな至福の絶頂にいる気がしている。厳かに祝い鳴り響く船の汽笛が海の面を伝わってこの高い位置まで聞こえて、それに教会の鐘の音が穏やかにゆったりと加わっている気がしてならない。


天空からは波打つ青い海が見える。青い水を透かして海の底のお城も見える。父も母もお城の窓辺から外を覗いている。魚たちも静まり返って窓辺をゆっくり泳いでいる。たぶんいつまでたっても人魚姫を案じているのだろう。人間を愛したならばもうこの海の底のお城に人魚として戻って来るのは難しい。人間と結ばれたならばもはや人魚ではない、決してお城には戻って来られない。戻ってくるならただ泡の粒になって消えるだけである。そのことを人魚姫も十分に知っている。人魚姫は王子様と結ばれた幸福感とは裏腹に心に纏わりつく悲しさを振り切ることができない。泡の粒になっても一度はお城に戻りたい、父や母に会いたいのである。そのまま海の底を眺めていると、母の背後から父が母の肩にそっと手を載せて呟いている。その声は聞き取れない。姉は居ないようである、人魚姫を心配して海の底のお城から抜け出てなにかしら画策を企てているのだろうか。ただ人魚姫の望むことのすべては叶えられたのである。王子様と結ばれてこのうえない幸せを感じ無限の高みに昇っている。この高い位置はきっと横たわった人魚姫の朦朧とした意識の内にある。王子様の傍らに体を横たわらせながら、いつしか人魚姫は薄れていく意識を感じている。この失われる自らの意識の内で人魚姫は喜びも悲しみも忘れ、百年たったら海の底のお城に帰りたいと願っている。きっと百年経てば海の底でも何もが変わっているだろう、泡になるという規則ももはや無いかもしれない。姉はこの規則を変えようと奔走しているのではないだろうか。自らの危険を顧みずに海の底を泳ぎ回って交渉しているのだろうか。これらの規則はお城を含めた海の底が定めた規則なのである。


いずれにせよ人魚姫は王子様の傍らで意識を失って一緒に横たわり、泡の粒になって天に昇っている夢を見ている。真実の泡の粒になれば元の姿に戻ることは、人魚姫の美しい姿を取り戻すことはできないけれど、夢であれば人魚姫は美しい姿のまま岩の上に横たわっている。百年経つとは地上でも海の底でも同じ年数であるとしても、地上では百年経てば誰もが死んで忘れる。でも海の底では生き延びている者が必ず居て規則を守り通している。父なる王様や母なる王妃はいかに悲しいことであってもこの規則を守るに違いない。地上への憧れを放棄させるための海の底の決め事であり厳守しなければならないのである。定めるには何かしらの出来事に起因しているはずで、調べれば規則を変える方法を見出せるかもしれない。でも分からないものは分からない。変えることはできないと思う方が良い。もしや百年たって青い海に浮かぶ島の岩の上に、王子様が消えてしまって、ただ人魚なる体を横たえた人魚姫がいても、人間と結ばれた過去を持つことに変わりはない。厳然たる過去は人魚姫の体に記憶として刻まれている。海の底にては必ず記憶は明るみに出される。つまり、百年経って人魚姫が美しい姿のまま海の底に帰ったとしても成す術はなくて、煌めく泡となって蒼空へと消え去る人魚姫を、誰もが悲しいまま眺めるしかないのである。この海の底の規則が変わらなければ、人魚姫は父や母に会った途端、今度こそ本当に泡となって天に向けて立ち昇っていくはずである。ただ、王子様が待ち構えていて、きっと優しい笑顔で人魚姫を迎えて抱き締めてくれるはずである。


短編集その一人魚の泡

人魚の泡は無数に浮かび上がる貴重な宝飾品である。日差しに輝きながら昇って行く、どことてあてなどなくとも昇り続けるけれど、人魚姫が泡となって解体したのではない。そのそこの島に人魚姫はまだ横たわっている、王子様の頭を膝の上に載せて、歌を歌いながら優しく頬を撫でて通過する船を眺めている。泡を生み出すのは人魚姫ではない、優しく撫でる王子様の頬が溶けて人魚のような淡い泡が立ち上っている。優しさが仇となるのか心を込めて頬を擦るたびに、少しずつ肌の表から肉が失われて小さな泡となって昇っているのである。死んだ王子様の頬や体が次第にこけるに連れて、一層多数になって輝きを増した泡が昇っている、この宝飾品の見事さはその美しく煌めく球体にある。撫でると溶け失われる肢体を人魚姫が知らないはずがない。でも人魚姫は成す術を知らない。撫でること、歌うこと、眺めること、これ以外の行為を思いつかないのである。泡が立ち昇ることをどうしても止めることができない、人魚姫は泡になっていく王子様を信じられないのではなくて信じたくない。もはや撫でること、歌うこと、眺めること、これしか成し得ないことを、それしかできないことを人魚姫は知っていて、ただ成しているだけである。
海に浮かぶ船がそっと汽笛を鳴らすときがある。島に船が乗り込んでくる前触れなのか、輝く無数の泡の宝飾品に感動したためか、美しい人魚姫を見て心をときめかせためか、歌う声の澄んだ響きに心の内が懐かしさに捕われたためかは知らない。でも汽笛は何回も続いて鳴り響く。そしてこの海を横切るように何艘もの船が通過していく。でも何もが起こらない、船はゆっくりと大洋の輝く青ざめた水面の向こう側に向けてただ通り過ぎている。何かに気づいて汽笛を鳴らしたならば、何かが生ずるはずであっても何もが起こらない。青ざめた海が広がり陽の光が優しく注いで、そして生じた無数の泡が立ち昇っている。優しく王子様の頬を撫でている優しい指先を持った美しい人魚姫がいるだけである。こうして何もが起きないまま移ろいゆく時が人魚姫にはとても大切に思われる。知らぬ間に時は続いて去っていくが、何も起きないまま永久に続くわけではない。いつしか人魚姫が歌うのを止める時がくる、愛する人を撫でるのを止める時もくる。ただじっとして、海の向こう側を遠くの彼方を見ている時がくる。王子様よりもっと大切なことに気づいたためか、海の底のお城を思い出したためか。でも王子様の頬がこけて泡となって消えていくことに心を痛めている。青白くて薄く張り付いた頬に触れると、その頬の薄さに悲しくなるけれど、この膝の上に乗せた王子様を心の底から人魚姫は愛しているのである。
遠くを眺めるのに飽きると、そうっと膝から王子様の頭を離して岩の上に載せる。まだ綺麗な宝飾品のように泡が立ち昇っている。目元に色めいて何個かの泡がこびり付いている、この何個かの泡がどうしてか天に向けて昇ろうとしない。人魚姫は離れない泡に指先を触れる、掴むつもりではなくてそっと触れる。白くて細い指に泡粒は即座に弾け飛んで割れる。一瞬だけ心をときめかせて鮮やかな色が広がって見え、そして瞬く間に消える。人魚姫はこの消える瞬間に嘗ての王子様の微笑む顔を見い出している。人魚姫を招いていた凛々しい笑顔を見る。目を閉じて痩せていても王子様はやはり王子様の役割を忘れてはいない。人魚姫はまた別の泡に指を触れると割れるその瞬間に、青い目をした王子様の笑い誘う顔と招き寄せる優しい手を見い出している。陽は移ろわずに頭上から光が変わらず降り注いでいる。船の鳴り響かせる汽笛が何度も聞こえてくる。そのまま通過するとも船は遠くから二人を見守るように汽笛を送っている。人魚姫は岩の上に横たわった王子様を抱くようにして自らの体も横たえる。それは愛する者への労わりを込めている。静かに波打つ音が聞こえてきて、人魚姫は泡粒が描き出した一瞬の出来事の内に確かに悟っている。王子様は私を私だけを愛していると、そうでなければどうしてあの弾けるような笑顔を見せるだろう、手をかざして招くのだろうと。私を除いて王子様のお妃になれる者は誰もいないと人魚姫はもはや疑いはしない。確信している。
頬を優しく撫でると柔らかく溶けそうで、薄い肌であっても指が吸い込まれるように柔らかくて、心も蕩けて和やかになり幸福である。そうした実感がある。人魚姫はそうっと上半身を持ち上げると王子様の青白い頬に唇を近づけて甘い接吻をする。唇が頬に触れると、確かに人魚の美しい顔の全体が王子様の顔の内に静かに溶け込んでいる。まるで優しく抱いた体と一つになるように、心も含めたすべての全体が合体するかのように融合し始めている。初めて契っているのである。人魚姫は海の底のお城を思い出している。懐かしい両親の心配する姿や踊り慰めてくれた魚たちの姿に、前に向けて進めと励ましてくれた姉の勇気に感動していた時のことを。こうして生まれ育った海の底のお城を思い出しながら、愛される者として人魚姫は確かに王子様と契りを結んで至福にいる。王子様と晴れて結婚してお妃さまになったのである、この儀式の祝いのためか、泡の粒がいくつも現れて遠くへと立ち昇っている。この鮮やかに光り輝く泡は人魚姫そのものが泡になって、天の高い位置に向けて昇っている。昇った天の高い位置から、泡の粒になった人魚姫が愛する人と一緒にこの地を眺めている、人魚姫にはそんな至福の絶頂にいる気がしている。厳かに祝い鳴り響く船の汽笛が海の面を伝わってこの高い位置まで聞こえて、それに教会の鐘の音が穏やかにゆったりと加わっている気がしてならない。
天空からは波打つ青い海が見える。青い水を透かして海の底のお城も見える。父も母もお城の窓辺から外を覗いている。魚たちも静まり返って窓辺をゆっくり泳いでいる。たぶんいつまでたっても人魚姫を案じているのだろう。人間を愛したならばもうこの海の底のお城に人魚として戻って来るのは難しい。人間と結ばれたならばもはや人魚ではない、決してお城には戻って来られない。戻ってくるならただ泡の粒になって消えるだけである。そのことを人魚姫も十分に知っている。人魚姫は王子様と結ばれた幸福感とは裏腹に心に纏わりつく悲しさを振り切ることができない。泡の粒になっても一度はお城に戻りたい、父や母に会いたいのである。そのまま海の底を眺めていると、母の背後から父が母の肩にそっと手を載せて呟いている。その声は聞き取れない。姉は居ないようである、人魚姫を心配して海の底のお城から抜け出てなにかしら画策を企てているのだろうか。ただ人魚姫の望むことのすべては叶えられたのである。王子様と結ばれてこのうえない幸せを感じ無限の高みに昇っている。この高い位置はきっと横たわった人魚姫の朦朧とした意識の内にある。王子様の傍らに体を横たわらせながら、いつしか人魚姫は薄れていく意識を感じている。この失われる自らの意識の内で人魚姫は喜びも悲しみも忘れ、百年たったら海の底のお城に帰りたいと願っている。きっと百年経てば海の底でも何もが変わっているだろう、泡になるという規則ももはや無いかもしれない。姉はこの規則を変えようと奔走しているのではないだろうか。自らの危険を顧みずに海の底を泳ぎ回って交渉しているのだろうか。これらの規則はお城を含めた海の底が定めた規則なのである。
いずれにせよ人魚姫は王子様の傍らで意識を失って一緒に横たわり、泡の粒になって天に昇っている夢を見ている。真実の泡の粒になれば元の姿に戻ることは、人魚姫の美しい姿を取り戻すことはできないけれど、夢であれば人魚姫は美しい姿のまま岩の上に横たわっている。百年経つとは地上でも海の底でも同じ年数であるとしても、地上では百年経てば誰もが死んで忘れる。でも海の底では生き延びている者が必ず居て規則を守り通している。父なる王様や母なる王妃はいかに悲しいことであってもこの規則を守るに違いない。地上への憧れを放棄させるための海の底の決め事であり厳守しなければならないのである。定めるには何かしらの出来事に起因しているはずで、調べれば規則を変える方法を見出せるかもしれない。でも分からないものは分からない。変えることはできないと思う方が良い。もしや百年たって青い海に浮かぶ島の岩の上に、王子様が消えてしまって、ただ人魚なる体を横たえた人魚姫がいても、人間と結ばれた過去を持つことに変わりはない。厳然たる過去は人魚姫の体に記憶として刻まれている。海の底にては必ず記憶は明るみに出される。つまり、百年経って人魚姫が美しい姿のまま海の底に帰ったとしても成す術はなくて、煌めく泡となって蒼空へと消え去る人魚姫を、誰もが悲しいまま眺めるしかないのである。この海の底の規則が変わらなければ、人魚姫は父や母に会った途端、今度こそ本当に泡となって天に向けて立ち昇っていくはずである。ただ、王子様が待ち構えていて、きっと優しい笑顔で人魚姫を迎えて抱き締めてくれるはずである。
短編集その一人魚の泡

人魚の泡は無数に浮かび上がる貴重な宝飾品である。日差しに輝きながら昇って行く、どことてあてなどなくとも昇り続けるけれど、人魚姫が泡となって解体したのではない。そのそこの島に人魚姫はまだ横たわっている、王子様の頭を膝の上に載せて、歌を歌いながら優しく頬を撫でて通過する船を眺めている。泡を生み出すのは人魚姫ではない、優しく撫でる王子様の頬が溶けて人魚のような淡い泡が立ち上っている。優しさが仇となるのか心を込めて頬を擦るたびに、少しずつ肌の表面から肉が失われて小さな泡となって昇っているのである。死んだ王子様の頬や体が次第にこけるに連れて、一層多数になって輝きを増した泡が昇っている、この宝飾品の見事さはその美しく煌めく球体にある。撫でると溶け失われる肢体を人魚姫が知らないはずがない。でも人魚姫は成す術を知らない。撫でること、歌うこと、眺めること、これ以外の行為を思いつかないのである。泡が立ち昇ることをどうしても止めることができない、人魚姫は泡になる王子様を信じられないのではなくて信じたくない。もはや撫でること、歌うこと、眺めること、これしか成し得ないことを、それしかできないことを人魚姫は知っていて、ただ成しているだけである。


海に浮かぶ船がそっと汽笛を鳴らすときがある。島に船が乗り込んでくる前触れなのか、輝く無数の泡の宝飾品に感動したためか、美しい人魚姫を見て心をときめかせためか、歌う声の澄んだ響きに心の内が懐かしさに捕われたためかは知らない。でも汽笛は何回も続いて鳴り響く。そしてこの海を横切るように何艘もの船が通過していく。でも何もが起こらない、船はゆっくりと大洋の輝く青ざめた水面の向こう側に向けてただ通り過ぎている。何かに気づいて汽笛を鳴らしたならば、何かが生ずるはずであっても何もが起こらない。青ざめた海が広がり陽の光が優しく注いで、そして生じた無数の泡が立ち昇っている。優しく王子様の頬を撫でている優しい指先を持った美しい人魚姫がいるだけである。こうして何もが起きないまま移ろいゆく時が人魚姫にはとても大切に思われる。知らぬ間に時は続いて去っていくが何も起きないまま永久に続くわけではない。いつしか人魚姫が歌うのを止める時がくる、愛する人を撫でるのを止める時もくる。ただじっとして、海の向こう側を遠くの彼方を見ている時がくる。王子様よりもっと大切なことに気づいたためか、海の底のお城を思い出したためか。でも王子様の頬がこけて肉を失い、泡となって消えていくことに心を痛めていて、王子様をとても愛している。頬骨に触れるとその柔らかさはいつもの肌と異なっている、悲しくなるけれど確かに王子様である。王子様の顔貌は失せていても膝の上に乗せた王子様を心の底から人魚姫は愛しているのである。


遠くを眺めるのに飽きると、そうっと膝から王子様の頭を離して岩の上に載せる。まだ綺麗な宝飾品のように泡が立ち昇っている。眼窩に色めいて何個かの泡がこびり付いている、この何個かの泡がどうしてか天に向けて昇ろうとしない。人魚姫は離れない泡に指先を触れる、掴むつもりではなくてそっと触れる。白くて細い指に泡粒は即座に弾け飛んで割れる。一瞬だけ心をときめかせて鮮やかな色が広がって見え、そして瞬く間に消える。人魚姫はこの消える瞬間に嘗ての王子様の微笑む顔を見い出している。人魚姫を招いていた凛々しい笑顔を見る。骨だけになっても王子様はやはり王子様の役割を忘れてはいない。人魚姫はまた別の泡に指を触れると割れるその瞬間に青い目をした王子様の笑い誘う顔と招き寄せる優しい手を見い出している。陽は移ろわずに頭上から光が変わらず降り注いでいる。船の鳴り響かせる汽笛が何度も聞こえてくる。そのまま通過するとも船は遠くから二人を見守るように汽笛を送っている。人魚姫は岩の上に横たわった王子様を抱くようにして自らの体も横たえる。それは愛する者への労わりを込めている。静かに波打つ音が聞こえてきて、人魚姫は泡粒が描き出した一瞬の出来事の内に確かに悟っている。王子様は私を私だけを愛していると、そうでなければどうしてあの弾けるような笑顔を見せるだろう、手をかざして招くのだろうと。私を除いて王子様のお妃になれる者は誰もいないと人魚姫はもはや疑いはしない。確信している。


頬の骨を優しく撫でると柔らかく溶けそうで、指が吸い込まれるように柔らかい、心も蕩けて吸い込まれるように幸福である。そうした実感がある。人魚姫はそうっと上半身を持ち上げると王子様の頬骨に唇を近づけて甘い接吻をする。頬の骨に唇が触れると、確かに人魚の美しい顔の全体が王子様の骨の内に静かに溶け込んでいる。まるで優しく抱いた骨と一つになるように、心も含めたすべての全体が合体するかのように融合し始めている。人魚姫は海の底のお城を思い出している。懐かしい両親の心配する姿や踊り慰めてくれた魚たちの姿に、前に向けて進めと励ましてくれた姉の勇気に感動していた時のことを。こうして生まれ育った海の底のお城を思い出しながら、愛される者として人魚姫は確かに契りを結び感激している。王子様と結婚して晴れてお妃さまになったのである、この儀式の祝いのためか、泡の粒がいくつも現れて遠くへと立ち昇っている。この鮮やかに光り輝く泡は人魚姫そのものであり天の高い位置に向けて昇っている。昇った天の高い位置から、泡の粒になった人魚姫は愛する人と一緒にこの地を眺めている、そんな気がしている。厳かに祝い鳴り響く船の汽笛が海の面を伝わってこの高い位置まで聞こえてくる、教会の鐘の音の気がしてならない。


天空からは波打つ青い海が見える。青い水を透かして海の底のお城も見える。父も母もお城の窓辺から外を覗いている。魚たちも静まり返って窓辺をゆっくり泳いでいる。たぶんいつまでたっても人魚姫を案じているのだろう。人間を愛したならばもうこの海の底のお城に人魚として戻って来るのは難しい。人間と結ばれたならばもはや人魚ではない、決してお城には戻って来られない。戻ってくるならただ泡の粒になって消えるだけである。そのことを人魚姫も十分に知っている。人魚姫は王子様と結ばれた幸福感とは裏腹に心に纏わりつく悲しさを振り切ることができない。泡の粒になっても一度はお城に戻りたい、父や母に会いたいのである。そのまま海の底を眺めていると、母の背後から父が母の肩にそっと手を載せて呟いている。その声は聞き取れない。姉は居ないようである、人魚姫を心配して海の底のお城から抜け出てなにかしら画策を企てているのだろうか。ただ人魚姫の望むことのすべては叶えられたのである。王子様と結ばれてこのうえない幸せを感じ無限の高みに昇っている。この高い位置は横たわった人魚姫の朦朧とした意識の内にある。王子様の傍らに体を横たわらせながら、いつしか人魚姫は薄れていく意識を感じている。この失われる意識の中で人魚姫は喜びも悲しみも忘れ、百年たったら海の底のお城に帰りたいと願っている。きっと百年経てば海の底でも何もが変わっているだろう、泡になるという規則ももはや無いかもしれない。姉はこの規則を変えようと奔走しているのではないだろうか。自らの危険を顧みずに海の底を泳ぎ回って交渉しているのだろうか。これらの規則はお城を含めた海の底が定めた規則なのである。


いずれにせよ人魚姫は王子様の傍らで意識を失って一緒に横たわり、泡の粒になって天に昇っている夢を見ている。泡の粒になれば元の姿に戻ることは、人魚姫の美しい姿を取り戻すことはできないけれど、確かに人魚姫は美しい姿のまま岩の上に横たわっている。百年経つとは地上でも海の底でも同じ年数であるとしても、地上では百年経てば誰もが死んで忘れる。でも海の底では生き延びている者が必ず居て規則を守り通している。父なる王様や母なる王妃はいかに悲しいことであってもこの規則を守るに違いない。地上への憧れを放棄させるための海の底の決め事であり厳守しなければならないのである。定めるには何かしらの出来事に起因しているはずで、調べれば規則を変える方法を見出せるかもしれない。でも分からないものは分からない。変えることはできないと思う方が良い。もしや百年たって青い海に浮かぶ島の岩の上に、王子様が消えて人魚なる体を横たえた人魚姫がいても、人間と結ばれた過去を持つことに変わりはない。厳然たる過去は人魚姫の体に記憶として刻まれている。海の底にては必ず記憶は明るみに出される。つまり、百年経って人魚姫が美しい姿のまま海の底に帰ったとしても成す術はなくて、煌めく泡となって蒼空へと消え去る人魚姫を、誰もが悲しいまま眺めるしかないのである。この海の底の規則が変わらなければ、人魚姫は父や母に会った途端、今度こそ本当に泡となって天に向けて立ち昇っていくはずである。ただ、王子様が待ち構えていて優しい笑顔で人魚姫を迎えて抱き締めてくれるはずである。

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。