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短編小説その7「王妃の命」


 王妃は王様の命を狙っている。邪魔になったのである。もう王妃には愛人しか眼中にない。その愛人は王様の忠実な家来である。知られると怒り狂うであろう、王様は即刻愛人なる家来と王妃の首をはねる命令を下すに違いない。それなら反対に王様を殺すしかない。どうしても王妃は邪魔者をあの世に送り出さねばならない。愛人と共に暮らすために取り付かれた執念でもある。まだ知られていないであろう、二人の関係を知っている者はいないはずである。逃げ出すことは考えられない。この国を手に入れることが愛人と共に豊かに高貴に快楽を享受して暮らすための絶対的な条件である。愛人は王様に代わって王様になることができる。愛人が王様の信頼できる絶対的な第一等の家来であるためである。取り繕っている生活は王妃には疲れる。毎日が嫌になる。そうした日々から王妃は逃れ出たい。王様が王妃の体を求めることはない。王様にはたくさんの愛人がいるためである。それでも顔を合わせる度に王様のご機嫌伺いをしなければならない。にこりともせず一言も言葉を発することもない、ただ沈黙していて何を考えているのか分からない王様が嫌になってくる。こうした諸々が王妃に愛する人を作らせた理由であるかもしれない。いずれにせよ愛人を堪能する味を知らしめたのは王妃を相手にしようとしない王様が悪いのである。王妃の魂胆を愛人なる家臣は知らない。絶えず王様に忠実であり、王妃にも忠実に愛を尽している。王妃の心も体も優しく慰めてくれる。この腹蔵のない家臣が何を考えているか王妃は知らない。諸々に王妃と関係することが王様への忠義に反することとなど思っていないのかもしれない。王様への忠義の一環として、もしや王様の命令を受けて実行しているのかもしれない。そうした愛人の心の内を知ろうとせずに、王妃は自らの心の内に取り付いた執念だけで王様を殺そうとしている。
 

 広い庭を散策すると樹木に鳥が巣くっていて頻りに囀っている。流れくる小川の水で満たされた池には勢いよく魚が飛び跳ねている。猫が寝転がって毛づくろいをしている。遠くで犬が吠えている。家鴨も歩いている。王妃は日差しを浴びながら椅子に腰かけてこれらの景色を眺めはしない。遠くに楽しそうに歩いている女たちが見える。王様の愛人たちである。どうしてかこれらの女たちは仲が良い。同じ境遇がそうさせているのか、王妃には分からない。女たちは王妃に気づくと楽しげな話や笑い声を止めてひそひそ話をする。潜むように歩いている。決して近づいて来ようとはしない。王妃にはそうとしか思われない。そして足早に去っていくのである。王妃は憂鬱である、ただ女たちと出くわしたことが不運なのだと諦めるしかない。この広い庭への出入りを禁止させることなどできない。願い出たとしても聞き入れる王様ではない。あまたの愛人たちが大切である。彼女たちの機嫌を取ることが王様の楽しみな仕事の一つである。王妃はこうした女たちを嫌って部屋に戻る。ただ一人広い部屋の中に居て、何をするでもなくぼんやりとしている。急に彼女は家臣を呼び寄せることを思いつく。どうしても会いたいのではない、問い詰めたい。この男は色白の少し痩せているが背は高くて見る者をうっとりとさせる。どの女にも好かれる。すぐさま扉を叩く音がするので「どうぞ入りなさい」と王妃は言う。家臣は扉を開けて入って来てただ二人きりの密室になろうとも、家臣としての礼儀をわきまえている。むやみに王妃に近づいて来たりはしない。馴れ馴れしい態度を取ることがない。この男の青く澄んだ瞳と色白の首筋を見た途端に、王妃は胸がどきどきして問い詰めることを忘れそうになる。ただあの優しく抱いてくれる胸をどうしても思い出してしまうのである。柔らかな唇が触れて情熱を捧げられるその時の高ぶった心を思い出して鼓動が高鳴ってくる。
 

 それでも王妃は冷静さを装いながら、家臣に近くに来るように命令する。家臣は王妃と露台に並ぶのではない、少しばかり後ろから園庭を眺めている。賑やかだった庭園にはもう誰もいない。数匹の犬と猫がじゃれついている。風が強くなったのか木々の枝々が揺れている。家臣が吐き出す息の匂いが背後から王妃を刺激している。それは愛おしい匂いであり狂おしい心を生み出してくる。振り返りざま王妃は「おまえは私を愛しているのでしょうね」と尋ねる。その瞳は少し血走っていて視線は鋭い。
「もちろんですとも」と家臣は笑みを浮かべながら答える。
「私だけでしょうね」と王妃はさらに声の音を強めて確認を求める。家臣なる男は王妃の嫉妬と疑惑に満ちた心の内を知らない。
「そうです。王妃様をとても愛しています。ただ私はこの国に身を捧げている者であり、王様と王妃様に忠誠を誓ってこの国を守っている、この国を愛する者でもあります」
こうした偽善的な解答を王妃が求めたのではない。狂うほどあなただけが好きだとなぜ言わないのか。王妃の心の内に亀裂が走りその裂けた心が広がって憤りの感情がほとばしり出そうである。
「それならこの国を欲しくはないの、そう望みさえすればどれもがあなたのものになるのよ」
王妃は振り返って家臣を睨みつける。その狂気の視線に家臣は初めて王妃がさまざまに憤懣を抱いて良からぬ算段を巡らせていることを知る。臣下ではなくてもはや男として愛人として家臣なる男は王妃の手を強く握らなければならない。伸ばされた柔らかな手を王妃はきっぱりと撥ね退ける。男の手はむなしく空を切る。
「私はただ仕えることを欲する者であり、仕えることで誰もが和まされ心の平安を手に入れることができるはずです」
「嘘おっしゃい、あなたはどれも手に入れていないわ」
王妃の鋭い視線が男の目の淵から心の奥まで射通して
「おまえは少しも私を愛していないのだわ」と断言する。


 事実、家臣は王妃の望むままにやむなく行動したのである。彼はこの国とこの国を治める高貴な王様やその愛する女たちに王妃も加えて、誰をも分け隔てなく心から愛して仕えている。何らの欲望も憤懣も抱かぬ者だったのである。ただ誰をも分け隔てなく愛する者であるが故に、家臣は王妃の不機嫌をなだめるための手法を知っている。手を引き寄せて強く抱擁し熱い口づけをしようとする。手が体を抱いて首筋に触れた途端、王妃は身震いする。それは欲望を高めて鼓動を躍らせ体をしならせる、愛の行為の始まりの合図がもたらしたものである。ただその日王妃のわだかまりはあまりにも強かった、その原因は園庭にて女たちが王妃に気づくと楽しげな話や笑いを止めてひそひそ話をしている、隠れて嘲笑っているように見えるそのことが頭の中にこびり付いていたのである。そしてこのひそひそ話の中にこの男を褒め称える言葉があったことを聞き逃さなかった、いわば王様には感じない王妃のこの男に対する嫉妬が根付いていたのである。王妃の不機嫌を感じ取って
「とんでもない、私は王妃様を一番に愛しています。その美しくてしなやかな仕草さをこよなく愛しているのです」
と言いながら、男は王妃の様子を窺う。こうして触れ合う愛さえあれば愛が間近に迫ればきっと機嫌は直るのはずである。結局王妃はにこりと笑う。ご機嫌を取り戻したように男の耳元に囁く。
「少し酔いましょう、ワインを飲むのがいいわ」
そう言って王妃は自らワイングラスにワインを注ぐけれど、どうしても王妃はこの男が許せなかった。それは王妃だけを愛していないことに起因している。臣下なるこの男がこの国も含めて誰をも平等に愛していることによる。禁断の愛を終わらせるためではない。激しい嫉妬が渦巻いていた。ワインを飲み終えると男は苦しみ出して、その場に倒れてそのまま死ぬ。口からは飲んだワインが吐き出されたのか、喀血したのか色濃い真紅の液体が広がっている。無論王妃が毒殺したことが死の直接的な原因である。


 こうして死んだ男を見ると王妃の機嫌はますます悪くなる、すぐさま部屋の外に運び出しても胸の支えは治まらずにいらいらが募ってくる。そこに誰が知らせたのか王様が忍ぶように入って来る。王妃は気付かない振りをしてそっぽを向いている。すぐさますべてを見抜く。けれど王様は黙っている。ただ王妃に近づいてその細い肩に手を載せる。それは愛の仕草ではない。哀れさや咎めからの行為でもない。ただ黙って肩に手を載せたまま無言に庭園を眺めている。誰も居ないはずの庭園にいつの間にか女たちが戯れている。犬と猫がじゃれついている。風がますます強くなったのか木々の枝々が揺れ動いている。男たちが現れて女たちに言葉を発している。女たちは笑っている。どういう会話が成されているのか王妃にはその声の内容は伝わってこない。女たちや男たちの笑い顔や高らかな笑い声があがるとも王妃にはなぜなのかよく分からないのである。少しずつ風は強さを増してざわめく木々の揺らぎがある。輝き増しているのか強い日差し照らされたこの園庭とその向こうの野原や丘とその奥の森や山に色濃い陰影を施している。くっきりと光がまだらに浮き上がらせるこの地の遥かな頭上には雲を棚引かせて青空が広がっている。薄い色をした雲は青空に吸い込まれそうである。王様は何も言わないまま王妃から遠ざかる。色濃い真紅に染められた絨毯を踏みながらこの部屋から出て行く。言い知れぬ苦しさや悲しさに王妃は涙がこぼれそうになるとも、ただそのまま立っている。もはや何も眺めてはいないし心の内を覗くこともない。まるで彫像のように立ったままである。脇の洋卓には一個のワイングラスが置かれている。王妃が飲んだワインのグラスには色濃い真紅の液体が静かに佇んでいる。表面を動かさずに少しも動こうとしない液体が蹲っている。


 すると再び王様が入って来る。その手には二つのワイグラスが握られている。そのグラスにも色濃い真紅の液体が静かに蹲っていて同じ洋卓の上に並べられる。こうして洋卓には四つのグラスが並んでいる。家臣が飲んだグラスがどれであるかは蹲った液体の量によって区別することができる。王妃は王様の意図を悟る。それは王妃に死ねという命令である。きっと王様のどちらのグラスにも毒が入っていてそれを飲ませるのだろう。それとも毒は一つにしか、いや全く入っていないのだろうか。
「さあ、一緒に飲もう、高ぶる気を休めるために」
と王様は言って、自らが運んできたグラスの一つを握る。
「ええ、飲みましょう」と王妃は冷静に答える。
ちらっと王様を見る王妃の視線は覚悟ができたように落ち着いている。自らのまだ飲んでいないグラスを取れば死ぬことはない。王様が運んできたグラスを取って飲めば毒が体を駆け巡って苦しみ嘔吐して死ぬのかもしれない。いや必ず死ぬのである。王様に尋ねれば良いがそうはしない。王妃の自尊心には許されないことである。王様は静かに王妃の顔を眺めている。まるで最後の見納めをするように穏やかに慰めるように許すように死ぬように眺めている。王妃がどのグラスを握るか王様は注視している。ただ既に決めている。王妃は自らの注いだグラスを取って確実に生き延びない。男の飲んだグラスを取って死ぬことも選択しない、賭けにでる。王様の持ってきたグラスの一つを取って王様を見詰めながら、その色濃い血に染まった液体を一気に飲み干すのである。

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。