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あらゆる場所の同じ「ような」風景について

点在するショッピングモール、どこまでも続く道路とチェーン店、もしくは田んぼ、畑。もしくは海沿いに無限に?続いていく、煙をはくコンビナート…。

数年前に立ち読んだ、名前を忘れてしまったインディー漫画で、これらの風景は”灰色のもの”として扱われていた。”灰色のもの”というのは、いま勝手に名付けた。
どこまでも続く、主にコンクリート製の、同じような景色。魅力的でないもの、量産型のもの、の意で使っている。印象の良くないとされるもの。

個人的にはむしろ、この風景が好きだ。同じ「ような」ものが続いている、つまり、それらには違いがある、似てるけど同じじゃないということに、逆に広がりとか可能性を感じる。
続くコンクリートとチェーン店の中に、突然寂れた地域の店が現れる。人工物の下に息づく地形の変化が、コンクリートの間にぼんやり感じられる。そういう違いが全ての土地にある。そこに魅力を感じている。

悪い意味での”灰色のもの”が登場する作品って例えば何があるか、考えてみた。キーワードは「画一」「量産」とかだろうか?

岡崎京子の漫画では、うっすらと澱が溜まっていくような人間関係の描写の合間に、とつぜん風景だけのコマが大見開きで挿入されたりする。
不安を表すかのように、構図は微妙に斜めに傾いで、大小のひび割れが乱雑に描きこまれる。奇妙にさびれ、無表情な都市の真ん中に主人公たちが1人立つ。彼らが何を考えているか分からない。
ここで暮らしているのに、街は、まるで目の前にいつの間にか広がっている異物のように映る。突然あらわれ、周りを包囲する気味の悪いものとして、風景が描かれる。

トッド・ヘインズの映画「SAFE」は、未だに怖くて観られない。舞台は80年代のロサンゼルス。ニュータウンが続々建てられ、繁栄するかつてのアメリカでも似たことが起こったようだ。
主人公はキャロルという中流階級の女性。物で満たされた裕福な生活を送っているはずなのに、なぜか化学物質過敏性になってしまう。あちこち転々として、行き着いた先は怪しげなコミュニティ。(以下ネタバレ)
映画の最後、彼女は集会でささやかな大演説を終え、充実して部屋に戻る。電気が点き、一転照らし出されたコンクリート製の何もない部屋がただただ怖い。し、やるせない。
寒々しい部屋の片隅で、小さな鏡の前に立ち、主人公は「あなたを愛している」と自分に何度も言う。穏やかで壮絶で、ひたすら悲しい、どう形容したらいいのか分からない表情をしている。見ていて寒気がしてくるシーンだ。この状況へ自分から陥り、そのため主人公にはここにいる以外の選択肢がない。
このラストシーンのもう一人の主人公は、キャロルを囲むのっぺりしたコンクリートだと思う。この部屋は、気味の悪さを通り越して、害のある何かを象徴している。

こうした、ふとすれば嫌な、怖いものとして表れてきてしまう、通りいっぺんの風景。実は、どこも似たような街のこういう特性を必ずしも否定していない。矛盾するようだが、そういう性質までも含めて魅力的に感じるのだ(いま思ったが、この性質をサスペンス性と言い換えると、多少取りこぼしてしまうニュアンスはあるが、また違う見え方になって面白い)。もちろん実際にはそんな書き割りのような、のっぺりした展開はまずないし、別にドラマの世界を現実で見たいと言ってるわけではない。

道路とくもり空と標識。あらゆる場所の自然は表情豊かだ。
画一的なものと固有のものが合わさって、ほとんどスリリングにも感じる場所の連なり。何でもない似たような景色は、実はものすごく多様に読み込むことのできる、魅力的な場所だ、と個人的に思っている。灰色で、何も目立たず生活に溶け込んでいればいるほど、よくよく見ればその印象は増す。

こう書いてきたけど、これをいざ絵に落とし込むと、寂れた用水路とか遠くに霞んでるモールの看板とか、そのそばに立っているぼろい標識とか、そういうすごく淡々とした絵になってしまう。

淋しい絵を描きたいわけではないのだ。なかなか難しい。

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