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五月の風

もう七月だっていうのに、今日は朝から肌寒い。今年の梅雨は少し長居が過ぎる。午後。暗い空を見ていた。なんとなく甘い物が欲しくなって、アパートの隣の小さいスーパーで、半額のシールが貼ってあるレーズンサンドを買った。
紅茶でも入れようか。冷蔵庫の中のペットボトルの水は半分ほどしか残っていない。さっき買えばよかった。ぼんやりと考えながら白いケトルへ水を注ぐ。
そういえば紅茶を飲むのは久しぶりだ。五月ごろは毎日のように飲んでいたのに。それも、一日に1、2杯ではなく4、5杯も。紅茶を飲まなくなったのは多分その存在を忘れてしまっていたからだと思う。五月の蒼い記憶が少しずつ夏の日差しに溶けていったということ。もう十分に時間が経ったということ。今日は夏が厚い雲に隠れているから、少しだけ思い出してしまう。

紅茶が好きだ、と言っていた。ティーバッグじゃなくて耐熱の透明なポットに茶葉を入れて紅茶を飲むと言っていた。丁寧な人だと思った。私は「女子力が高いね。」だなんてうわべだけの言葉を言って、冷たいミルクティーに口をつけた。氷がカランと溶ける。杏の香りがするミルクティーは想像以上に甘くて、あなたが飲んでいたレモンティーは凄く、凄く酸っぱかった。
感情に答えはなかった。ただポットの中で踊る茶葉みたいに、水の流れに身を任せるふりをしていた。あなたは夜の海を見ていた。観覧車の紫が水面に揺れていた。「宝石みたい」そう言った。
五月は綺麗だった。でも別に愛していたいわけではなかった。勝手に消えたりもしたし足早に去っていったりもした。私は何も言わなかった。ゆらりゆらりと揺れるその姿を見ているだけだった。

スーパーのレーズンサンドにはレーズンが全然入っていなかった。真っ白なバタークリームを見て一瞬落胆したが、なんだかいつもよりしっくりくる。そっか、私レーズン好きじゃなかったんだ。レーズンなしのレーズンサンドはレーズンが入っているものよりもずっとおいしかったけれど、少し物足りない。それでいいんだと思う。


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